17.色杏先輩(円)
「その
母親から「帰ってくるのが遅くなる」とメールが来たので、先に晩ご飯を食べることにした。
「でも悪い人そうじゃなかったけれど」
部屋着のショートパンツとシャツに着替えたニコは、不思議そうに言った。
「小論文だって
「優しいのは最初だけなんだ。俺たちの時もそうだった」
「俺たちの時?」
「テスト問題を無理やり盗まされた」
「まさかあ」
ほかほかと湯気を立てるジャガイモを飲み込むと、彼女は熱そうに口を手で抑えた。
「だって、今は仲良いんでしょう」
「それはそうなんだけど」
そこを突っ込まれると言い返せない。
実際、色杏先輩が完全な悪人かと言うとそうでもない。
何だかんだ中間考査の勉強も教えてくれたし、面倒見は良いし優しい。半帰宅部の俺にとって、頼りになる人ではある。
映画のことになると、途端に見境がなくなる。そんな悪人だ。
「あの人の映画に出るのはやめた方が良い」
「何が不安なの?」
「ロクな趣味してない。話せば分かると思うけど」
「もしかして、その映画が停学の原因なんだ」
「実は」
「どんな映画だったの?」
「それは言えない」
「言えないくらいすごいんだ」
「そう言うこと」
「とても気になる」
ニコはちゃぶ台の上に身を乗り出した。Tシャツの胸元から白い肌が見える。
「教えて、お兄ちゃん」
目のやり場に困る。
「ねえねえ」
「ダメだよ。ダメだ」
「そしたら、色杏さんに直接教えてもらうよ」
「それもダメ。ダメだったらダメだ」
「強情なんだから」
彼女は困ったように肩をすくめた。
「言いたくないなら、良いけど」
ようやく離れていったので、一息つける。ふう、危うい。
彼女が色杏先輩の映画に出たら、良かれ悪しかれ名前が知られてしまう。ましてや『AV男優と言うあだ名の男の腹違いの妹』なんて噂が広まってしまったら彼女の高校生活にケチがつく。
「せっかくなんだから、普通の学生生活を送れよ。悪いことは言わない」
「でも今度また会う約束したよ」
「なにい」
「本当。3丁目のポンヌフっていう喫茶店。また小論文添削してくれるって」
手を回すのが早い。
行っちゃダメだと言おうとしたが、ニコは目をキラキラと輝かせていた。
「ねえ」
小首を傾げて。
「だめ?」
ささやくような声で。
「お兄ちゃん?」
これはずるい。
抵抗する意志がなくなってしまう。
「良いよ」
我ながらちょろい。
ニコは満面の笑顔で
「やった」
「でも会うだけ。映画に出るのはダメ」
「えー」
「俺から断っとくから。頼むよ」
うーんと唇を
「分かった」
「絶対だぞ」
「うん。そもそも、まだ高校に受かったわけじゃないよ」
「きっと受かるよ」
「油断しちゃダメ。せっかく知り合いできたんだから、頑張る」
グッとガッツポーズをして、ニコは箸で人参を取った。
彼女がちょっと上機嫌だった理由がようやく分かった。
俺を除けば、色杏先輩はニコにとっての初めての知り合いだ。それは兄として喜ぶべきことなんだろう。
「ところでさ、ニコ」
「なあに」
「何か「お兄ちゃん」ていうの楽しんでないか」
「あっ」
ポロリと人参を落として、彼女は照れ臭そうに笑った。
「分かる?」
「頻度が多い」
「こう言うのに慣れとかないとって言ったから。積極的に、と思ったとかなんとか」
「いつも楽しそうだよな」
「ごめん。否定はできない」
彼女はパクリと人参を口に入れた。
「嫌だった?」
「嫌じゃない。そう言うことじゃなくて」
ちょっとムズムズするけれど。
「なんか俺からニコに言う呼び方ってないよな」
「呼び方?」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんってあるけれど。弟ちゃんとか妹ちゃんとかってないだろ」
「そうだね」
「なあ。妹よ」
「それは普通使わなさそう」
「世の中の兄妹は何て言ってるんだろう」
「名前で呼ぶんじゃない?」
「だよなあ。妹よ」
「変なの」
おかしそうに彼女は笑った。
お兄ちゃんと呼ばれた時の、ムズムズする感じを味合わせてやりたい。
「お兄ちゃんって、変なこと考えるんだね」
「妹ができるとは思わなかったから」
「私も。でも慣れてくると良いね」
何てことはなく彼女は言った。
「私は好きだよ。お兄ちゃんって呼ぶの」
素直な言葉で、彼女の喜びが伝わってくる。ニコがそう言う風に思ってるなら、俺も嬉しい。
「ニコ」
「ん?」
「この肉じゃがすごく美味しい。今日のお弁当も美味しかった」
彼女は箸を動かす手を止めて、顔をあげた。
「明日も美味しいの作るね」
嬉しそうに笑った。
おかげでとても幸せになった。
この笑顔を守らなければいけない。映画の件は明日、色杏先輩に言って何としても断ろう。
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