8.お兄ちゃん(ニコ)
買い物を終えて家に帰って、トマトソースのパスタを作った。
トマトパスタは私の得意料理だ。
ずっと円にご馳走になりっぱなしだから、たまには私から作ってあげたかった。
「気を使わなくても良いのに」
円はそう言って、しれっと手伝おうとしていたが、そんなことはさせない。
「良いから座ってて。お兄ちゃん」
「良いのか?」
「うん」
円は「そっかあ」とうなずいて、ちゃぶ台の前に座った。落ち着かない様子で、借りてきた猫みたいだった。
お兄ちゃんと言うと、彼はあからさまに困った顔をする。私も慣れないからお互い様みたいなところはある。
「すぐ作っちゃうから」
お兄ちゃん。
魔法の言葉みたいだ。
「できたよ」
缶トマトを潰して、
「さぁ、食べて食べて」
「うまそう。マジでうまそう。全部食うわ」
言葉通り、円はたくさん作ったお鍋を空にした。
「美味しかった。ありがとう」
お腹をさすりながら、彼は言った。
「料理上手なんだなあ」
「小さい頃から良く作ってたから、お兄ちゃんほどじゃないけれど」
「お互い苦労してる」
そう言って、彼は仏壇に飾ってあるパパの写真に目をやった。
「ねぇ。パパってどんな人だった?」
前から気になっていたことを聞いてみることにした。
彼は首を傾げると「そうだなあ」とうなった。
「どうだろ。物心ついた頃には、あんまり家に寄り付かなくなってたからな。あの人。強いて言うなら普通かな」
「普通?」
「普通の、たまに遊びに来てくれる、親戚のおじさん」
「そんな感じなんだ」
「母さんと良く
「なるほど」
「ニコはどうなんだ」
そう聞かれて、昔のことを思い出す。
パパが来ると、ママが幸せそうな顔をするのが私も嬉しかった。
「休みの日にお味噌汁を作ってくれる人」
「あー、分かるかも。何であんなに美味いんだろうな。腹が立つ」
「腹は立たないけど。何でうちのパパは良くいなくなるんだろう、とは思ってた」
円はそれも分かる、と深々とうなずいた。
「ニコのお母さんは、何してた人?」
「家の近くの大学で研究員やってた。文学の研究だって」
「頭良いんだな」
「多分。それと料理作るのがすごく上手でね。ママの作ったボルシチが美味しかった。自分で作ろうとしたけれど上手くできなくて」
「ボルシチかあ」
立ち上がると、円はやかんに火を入れた。
「今度作ってみようかな」
「お兄ちゃんが?」
「うん、どうせ暇だし」
「本当? やった、楽しみ」
「うまくできないかもしれないけど」
「お兄ちゃん料理上手だから、きっと美味しいよ」
誰かが自分のためにご飯を作ってくれるだけで、すごく幸せな気分になる。
円は照れ臭そうにうなずいて、冷蔵庫を開けた。
「コーヒーにミルク入れる?」
「私、ブラックで良い」
「いつも?」
「いつもそうだよ」
そう言うと、円は手に持った牛乳を冷蔵庫にしまった。カップにお湯を入れると、2杯のブラックコーヒーを持ってきた。
「ミルクいらないの?」
「今日はブラックにしてみる」
「合わせなくても良いのに」
隣に座った円はジッとコーヒーに目をやると、おそるおそると言った感じでコーヒーを口につけた。
「ん」
顔をしかめると、すぐにカップを置いた。
「どうしたの?」
「いや」
「苦いんだ」
「苦かった」
「強がっちゃって」
「ミルク入れてくる」
「じゃあ、私も」
「合わせなくても良いよ」
「ううん。今日はミルクコーヒーにする」
はにかみながら彼は「分かった」と言って、牛乳を注ぐとレンジで温めた。熱々のミルクコーヒーはほんのり甘い。
「美味しいね」
「悪いな。付き合わせちゃって」
「苦いの嫌い?」
「あんまり好きじゃない」
「その内慣れるよ。私もそうだった」
そうなんだ、とゆっくりと彼はカップを傾けた。
「食器洗ってきちゃうね」
「俺がやるよ」
「良いよ。午後も勉強するんでしょ。片付けまでやるよ」
飲み終わったカップをシンクに持っていく。
「座ってて、お兄ちゃん」
そう言うと、円はこくんとうなずいた。
素直になった。やっぱり魔法の言葉だ。
鍋を洗って、シンクを綺麗にする。ちゃぶ台のところに戻ろうとすると、彼は座布団を枕にして寝てしまっていた。
「あらら」
すやすやと気持ち良さそうに寝ている。食べたばかりで寝ると身体に悪い。でもあまりに気持ち良さそうに寝ている。起こすのも悪い。
毛布を持ってきて、そっと身体にかける。
「おやすみ。お兄ちゃん」
そう言うとまぶたがピクリと揺れた。彼の寝顔を見ていると、釣られて眠くなってきてしまった。
私もちょっとだけ寝ようかな。
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