2.つまりお兄ちゃんだ (円)


「ただいまー。あー、しんどー」

 

 夕方になって、母親が仕事から帰ってきた。八畳二間はちじょうふたまを満たす味噌汁の匂いに、スンスンと鼻を動かした。


「あー、ご飯作ってくれてるんだ。助かるー」


「うん」


「横に綺麗な女の子も一緒で。あー可愛いねって」


 キッチンに立ったニコは、油揚げを刻んでいた。


「ちょっと待ってどう言うこと」


 当然のツッコミ。呆然とした母親に、ニコは慌てて深々とお辞儀をした。


「あの。すいません。お邪魔してます」


「ううん。邪魔じゃない。びっくりしただけ」


「ごめんなさい。勝手に上がってしまって」


「すごく可愛い。可愛すぎて頭が追いつかない。ちょっとまどかぁ。彼女連れてくるなら、ちゃんと言ってくれなきゃ。こっちだって準備だってあるじゃん。あー部屋が汚い」


 生活感がむき出しだと、母親はすぐさま部屋を片付け始めた。


「いや、彼女じゃなくて」


「ん?」


「色々と訳ありで。つまりさ」


 父親の写真が飾ってある仏壇を指差す。それで母親は目をむいた。


「嫌な予感がする」


「そう言うこと。察してくれ」


「あ。察してしまった」


 おもむろに仏壇まで歩いて行った母親は、鐘をチーンと叩いて合掌がっしょうした。ふうと深く息を吐いて、念仏のようにボソリと言った。


「浮気した女は数知れず。しかし外国人は初めてかもしれない」


「フィリピン人はいたよ。家の窓ガラス割られた」


「娘は初めて」


「まあそういうこと。理解が早くて助かる」


 そのまま説明することにした。


「この子。ニコって言うんだけど。8歳までこっちに住んでて、そこからずっとロシアにいたらしい」


「ロシア?」


「祖母の家に。母を早くに亡くして」


「それはまあ。大変だったね」


 うんうんと難しい顔をして、母親は腕を組んだ。


「それで、一緒に暮らしていたお婆さんが亡くなったから、父親を訪ねてきたらしい。そこでバッタリ鉢合はちあわせた。家に入れた。腹が減ったから味噌汁作ってる。手伝うって言われたから、手伝ってもらってる」


「理解した」


「あのう。本当にすいません」


 ニコは申し訳なさそうに言った。


「まさか、こんなことになってると思わなくて。やっぱり私帰ります」


「帰るって、どこに帰るの?」


「えと」


 ニコは顔を伏せた。


「とりあえず帰ります」


 母親は「ふうん」と言ってニコの様子を見ると、俺に目配せをした。


「円、晩ご飯は?」


「もうちょい」


「よし。ニコちゃん、お風呂入っちゃって」


「あの。私」


「遠慮しないで。ずっと外にいたんでしょう」


 半ば強引にニコに風呂場に案内して、母親は家の中をせっせと片付けた。


 俺は夕飯の支度を進める。

 しばらくして申し訳なさそうに風呂場から出てきたニコは、白のTシャツと茶色のズボンを履いていた。長い金髪は一つ結びにしている。


 我が家に3人分の茶碗が並ぶのは久しぶりだった。食卓を見て、ニコはしばらく立ちすくんでいた。


「どうぞ。座りなよ」


 発泡酒の缶を開けながら、母親は言った。


「円の作る味噌汁、めちゃくちゃ美味しいんだよ」


「お味噌汁」


「うん。自分で言うのもなんだけど、結構美味しいはず」


 できたての味噌汁をちゃぶ台に置く。

 落ち着かなげに、ニコは視線を行ったり来たりさせていた。


「作るの手伝ってくれたし、お礼だから。冷めないうちに」


 俺がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。おずおずと座布団の上に座った。


「いただきます」


「どうぞどうぞ」


 味噌汁の器に手を伸ばすと、彼女はゆっくりと口をつけた。


 一口。

 彼女の瞳がかすかに揺れた。


「これ」


 小さな声で言った。


「パパの味」


 驚いたような表情で、彼女は俺のことを見た。


「なつかしい」


 声を震わせながら、ニコは言った。

 その様子を見た母親は「やっぱりなあ」と発泡酒の缶を傾けた。


「あの男。つまりニコちゃんのパパであり、円のお父さん。顔が良いだけの浮気クズ野郎。何故だか知らないけれど、味噌汁作るのだけは上手い」


「もう俺の方が上手い」


「そうかもしれないけど、やっぱりニコちゃんは私たちの家族だね」


「家族」


「そうだよ。家族」


 その言葉で、ニコの目からするりと涙が落ちた。前触れもなく彼女は泣き始めてしまった。


「あれ」


 彼女は自分の顔を手で覆った。


「ごめんなさい。急にこんな」


「手紙を頼りにわざわざ、こんなところまで来るなんて。よっぽど困ってたんだね」


 声も出さずに彼女は泣いていた。それが一層、寂しそうに見えた。声を上げることを我慢しているみたいだった。


 母親がすり寄っていって、その肩を優しくポンポンと叩いた。


「じゃあ。これからここで暮らそっか」


 ……ん?


「あれ。それって」


「なに文句あるの。良いアイデアじゃない。ニコちゃんさえ良かったら、私たちと一緒に暮らすの。どうかな」


「迷惑かけるわけにはいかないです」


「迷惑じゃないよ」


「でも」


「ほら。円だって喜んでる」


 ニコがこっちを見た。赤い目をしている。


「うん。そりゃ。もう」


 放っておけるはずもない。


「良いアイデアだと思う」


 彼女は頬についた涙をぬぐうと、途切れ途切れの言葉で言った。


「どうして、そこまで言ってくれるんですか」


 不思議そうにニコは言った。

 うーん、と母親は首を傾げて微笑んだ。


「家族は多ければ多い方が楽しいからね」


 ニコは再びうつむいた。小さな声で「家族」と言ったのが聞こえた。


 それから何かを決めたように、ニコはスッと姿勢を正した。


「迷惑かけることは承知なのですけれど」


 床に手をついた。


「しばらく、ここに置いて頂けると助かります」


 彼女は深々と頭を下げた。突然の土下座に、びっくりして2人でやめさせる。


「そんなにかしこまらなくても良いよ。ここでは私がお母さん代わり。えーと、ニコちゃんは誕生日いつ?」


「3月、です」


「円より遅いね。じゃあ妹だ」


「いもうと」


「そう。兄と妹」


 俺とニコを指差しながら、母親は言った。


「えと」


 顔を上げたニコが、俺を見ながら恥ずかしそうに口を開いた。


「じゃあ。お兄ちゃん?」


 それは何かムズムズする。

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