第五話 心のままに
海に突き出た入江の突端に建つコンウィ城は、八つの塔を持つ難攻不落の古城だ。とはいえ十万の軍勢に包囲されてはどうか。孤独でやさしい王は、わずかばかりの兵と勝ち目のない籠城の構えだった。
「ハル……、なぜここへ来た」
目を丸くして、現れた少年が本物なのか確かめるように、ハルの肩や腕に触れる。
「ボリングブルックが許したと? いや、ありえない」
「父には黙って来ました。わたしが盾になります。だからここは一旦退きましょう、おじさん」
リチャードの顔色がサッと変わる。
「どこへ逃げるという。余の味方になろうという者など、どこにもいないぞ」
アイルランドではイングランドの兵力にとても対抗できない。かといってスコットランド、ウェールズとて十万を超えるランカスターの軍勢を相手になどしたくないだろう。
「けど、よってたかって、これじゃあんまりだ。おじさん一人が悪いわけじゃないのに!」
「そうです父上、ぼくたちといっしょににげましょう」
「ハル、モー。我が息子たちよ」
リチャードは二人をいっぺんに抱きしめた。大人の男性とは思えないほどほっそりした体で、全力でそうしてくれたのだと感じた。
「リチャードおじさん、お願いだよ、諦めないで。オレがいれば、きっと父は攻撃してこないはずだから」
眉を下げて必死に訴えるハルのくせ毛を撫でながら、リチャードは微笑んでいた。
それからボリングブルックの使者として現れたのは、ノーサンバランド伯親子だった。
「お久しゅうございます陛下。先だってはお世話になりましたが」
「今は手のひらを返しボリングブルックの配下というわけか」
「手のひら返しといえば、私から国境警備の役職を奪ったのはどちら様でしたでしょうか。長年の功績者よりも、見え見えのおべっか使いにほいほい爵位をお与えになったのは、どちらの国王陛下でしたでしょうか。のう息子よ」
「そちらのリチャード様だったと記憶してますがなぁ」
しゃあとして隣の息子は答え、親子そろってニタニタ笑う。
一瞬でハルの血が煮えたぎった。あまりの怒りに腹がねじ切れそうになる。
親子とも名をヘンリー・パーシーといい、父親は鼻梁がのっぺりと長く、いかにも曲者といった口の曲がり方をしている。一方息子の方は三十代だろうか。ギラギラした攻撃性を隠そうともせず、癪に障る男だ。
対するリチャードは細面の表情をぴくりとも動かさず、凛として見えた。
「このような形で王位を簒奪しようというのは、天と神への冒涜だとボリングブルックへ伝えるがよい」
ホッホッホと、父親の方が勘に触る甲高い笑いを響かせる。
「簒奪などとんでもございません。陛下の方からお譲りいただくのですよ」
「ありえぬ。次の王はもう決まっている。断じてボリングブルックではない」
「十万の兵に総攻撃をかけられても同じことを言えますかな? 陛下」
「オレがいるのに父が総攻撃などすると思うか! いい加減にしろ!」
ハルが口を挟むと、今度は息子ヘンリー・パーシー、通称スパーの方も割って入る。
「おっと、それがしちゃうんだな。ヘンリー四世(ボリングブルックは通称で、本名はヘンリー)陛下が御自ら仰ってるんだから」
「嘘をつけ! なにがヘンリー四世だ、バカバカしい」
「息子が中にいようがいまいが関係ないんだとよ。あるいは自分が王になるためなら息子をも殺す覚悟みてぇだぜ? どうする公子サマ?」
まさかそこまでするとは思わなかった。オレが甘かったのか……、父を信じてはいけなかったか。
「ボリングブルックの望みは何だ」
答えられないハルを助けるように、リチャードが問う。答えるのは父の方だ。
「先ほども申しましたように無条件降伏。そして王位の譲渡です」
「よかろう。一週間後だ」
「しかと聞きました。御英断ですぞ陛下」
最後まで慇懃無礼に親子は帰って行ったが、スパーのギラついた視線はいつまでも絡みついてくるようで、しばらくハルの苛立ちは収まらなかった。
「逃げましょうおじさん! あんな奴らの言う事なんて聞くこと——」
「ハルよ、おまえは実の父親に息子殺しの大罪を背負わすつもりか」
「……っ、けど、リチャードおじさんを廃位するのだって大罪だ!」
「いいや。これは己の心に溺れた余の業なのだ。相手が誰であろうと変わらぬ。たまたまボリングブルックだったというだけのこと。全ては心の向かうままなのだ。よいな、息子たちよ」
それから嘘のように穏やかな日々はあっという間に過ぎ去った。
一週間後、迎えに来たのは再びのヘンリー・パーシー親子だ。最後に見たのは言葉を交わすことなく移送される後姿だった。その背中はしゃんとしていて、おじさんの心の海は穏やかなのだと思った。
しかしハルの方は荒波が次々とぶつかってくるようで、ロンドンへ連れられる道中、鼓動はガンガン打ち呼吸はずっと荒く、馬車内が酸欠になりそうだった。
「いいかモー、何があってもオレを信じろ。命に代えてもおまえを守るから」
ハルの大きな手を握り、こくんと頷くモー。やがて馬車が入ったのは、王の居城であるウェストミンスター宮殿だ。
まだ戴冠したわけではないにもかかわらず、父ボリングブルックは泰然と玉座で二人を迎えた。
「遅かったな」
「お久しゅうございます、父上」
「なぜすぐに戻らなかった」
「己の心の向くままに」
「戯言を言うか」
「戯言ではございません。父上こそなぜ謀反など!」
「この父を謀反人と言うか、息子よ。これは民意である」
「王位の簒奪が民意ですか。王とは天に定められし者ではないのですか」
「おまえはリチャードが王に相応しいと申すか」
言葉に詰まる。
「王とは国を守り成長させる存在。リチャードにそれができるか?」
少しの間父は答えを待ったが、ハルから言葉が出ないので続ける。
「王位の簒奪もまた、天が私に与えし使命だ」
「天命と仰いますか。ではわたしを殺すのも天命なのですね」
「……」
「お答えください父上。もしリチャード陛下が降伏されなかったら、父上は総攻撃をかけられましたか? わたしもろとも撃破なさいましたか?」
「おまえは私の元へ戻ってくると信じていた」
「わたしにはその気は毛頭ございませんでした」
「ハルよ、」
「わたしは父上のせいで一度すべてを失い、この命はリチャード陛下に救われたのです。そして再び、四肢をもがれたも同然の仕打ちを父上から受けました。わたしに残ったのはこの心だけです。これからは己の心のままに向かいます」
「ならぬ。私の長男はおまえしかいない。おまえが皇太子となることもまた天命なのだ。受け入れよ」
「わたしは父上のご期待に添う息子ではありません。皇太子には弟のトマスを指名なさればよいでしょう」
「ハルよ」
自己主張か、あるいは駄々をこね続ける長男に、父の眉間が険しくなる。
「では、その子はどうなってもよいのだな?」
父が見たのは、斜め後方に控えて頭を垂れているモーだ。
「皇太子にはならないと申したな。もはや私の息子ですらなくなるおまえが、プランタジネットの後継者というその子の運命をどうできる」
「く……」
ハルは言葉を失った。名もなきハルのままではモーを守れない。この父はいずれ必ず、モーの命を狙うはずだ。その時盾になれるのは、皇太子ハルしかいないのではないか。
リチャードおじさんの盾にはなれなかった。だからせめて、弟のためには。
「ならば……、なればこのモーをわたしにお与えください」
ボリングブルックの突き刺すような視線がモーへと向けられる。
「リチャードのことといい、その子といい、おまえは感情に走りすぎるところがある。一時の情が後の悲劇を産むことになるのだぞ」
「少しは弟のトマスを見習え、ですか。父上はいつもそうですね」
「そうは言って——」
「モーはアイルランド総督の息子です。モーに何かあればアイルランドが黙っていないでしょう。父上の御即位にはウェールズとスコットランドも反発するでしょうし、せめてアイルランドとは同盟を築いておいた方がよろしいのではありませんか。モーは皇太子たるわたしの責任で監視します。これだけは譲れません」
今度は黙るのは父の方だった。
「万が一、モーが王座を望み父上の仇敵となれば、その時はわたしがこの手で殺します」
琥珀色の瞳に全身全霊の力を込めて、ハルは父から目を逸らさなかった。
しばらくして「わかった、従者にするがよい」と小さく答えが聞こえて、ようやく一息つけた心地がした。
あてがわれた部屋のドアを閉めると、ぐったりしてモーと二人で寝台に横になる。見慣れない天井は息苦しくて、あの秘密基地の倒木とボロ布で作った天井に帰りたい。
「ごめんな。次の王になるのは本当はおまえの方なのに、従者にしちまって。端からはそう見えるかもしれないけど、おまえがオレの弟なのはこれからも変わりないからな」
「ぼく……、ぼくはね、ほんとはイングランド王になんてなりたくなかったんだ。ハルの方がずっとふさわしいよ。だからこれでいいんだ」
ホッとしたような、初めて見せた
わかっている。リチャードが歩んできた道も、父がこれから進む道も、王が進むのはいばらにまみれた冷たい泥道だ。それは皇太子になる自分も同じ。
——オレだって、王になんてなりたくねえよ。
けれどモーの前で、それを言うわけにはいかなかった。
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