第四話 夢の終わり

 それからは、何をするのも一人きりから二人になった。

 ハルが剣術の稽古をすればモーは横で素振りの真似事をし、モーの勉強時間にはハルも隣で励んだ。苦手のフランス語など、モーから教わることもあるくらいだ。


 そしてそこにはいつも、二人へ優しいまなざしを向けるリチャードおじさんがいた。ある時、森の中に秘密基地を作ったとリチャードに話したところ、その日の午後に見に来たことがあった。


「倒木を利用して作ったのか。ふむ、立派なものだな」

「野イチゴをどうぞ。さっきつんできました」

 二人に勧められると、リチャードは嬉しそうに口に入れる。


「モーよ、ここでの生活は楽しいか?」

「はい。ハルはいろんなことを知っていてすごいです。このひみつきちもほとんど作ってくれたのですよ」

「ほう?」

 問われたハルがはにかむ。


「元々猟師をしていたという兵士に、森で夜を明かす方法を教わったのです。それを試してみたくて」

「それだけじゃないのです。たべられる木の実やキノコのこともよく知っていていて」


「それは弟たちとよく森を転げまわっていたので、自然と」

「そうか。それは良いな。今度余にも教えておくれ」

「父上もごいっしょなんて、なんだかドキドキします!」


 笑みを見せるモー。嬉しい気持ちに嘘はないのだろうが、笑顔にどことなくかげりがあるのにハルは気付いていた。

 愛おし気にモーの髪を撫でるリチャードと目が合い、ハルはちょっと微笑んで頷く。


 十歳で即位したリチャードは、幼くして大人の世界で生きるのを強要されたきたはずだ。きっと森で自由に遊んだり、城の中を走り回ったりするのは許されなかったのだろう。それなら大人になってから取り戻したっていいと思う。三人で遊べばいいのだ。


 また別の日には、ナナカマドの実をぶつけ合っているとリチャードも入ってきて、そこら中赤かったはずの木が全部緑になってしまったこともある。

 リチャードは自身がパトロンとなっている詩人チョーサーが記した『カンタベリー物語』について聞かせてくれた。ハルにギターンという弦楽器の弾き方を教えたのもリチャードだ。


「楽器は不思議だ。奏者の心次第で音色が変わる。おまえの音色はいつも真っ直ぐで、寂しげだな」

「寂しげですか。自分ではよくわかりませんが」


「誰でも心の中に海を持っている。満ちたり干いたり、荒れる日もあれば時間で色をも変える。詩人は言葉で、奏者は音でそれを表現し伝えるものだと余は思う。しかし余のように自分の海に溺れる者も少なくない。おまえはそうならぬことだ」

「仰っていることがよくわかりません。リチャードおじさんが溺れているとはわたしには……」

 ハルに最後まで言わせず、リチャードは続きを弾くよう促した。


 リチャードおじさんはきっとお疲れなんだろう。

 賭場に入り浸っていたからわかる。大人の人間関係は常に駆け引きなのだ。政治とて同じはずで、賭けるものが変わるだけだろう。桁違いの金、臣下や臣民の生活や運命なんてものまで。共に考えてくれる臣下や官僚はいても、最後に背負うのはリチャード一人なのだ。

 そんな世界には辟易しているのだろう。だから駆け引きの要らない限られた寵臣や、子供といるのを好む。


 しかしアイルランドでの楽しい日々は、長くは続かなかった。フランスに追放されていたハルの父、ボリングブルックが挙兵し、リチャードの不在を良いことにイングランドへと上陸したのだ。

 これを待っていたランカスター公領の家臣がそれぞれの兵を伴って合流し、軍勢は十万を超えるという。


 この一報にリチャードははっきりと動揺を見せた。そして呼び出されたハルは、顔を真っ赤にして震える、見たこともない形相のリチャードからいきなり首を捕まれた。

「見たか、おまえの父の仕打ちを! 息子のことなど鑑みもせず余へ仇なす反逆者よ!」

「苦し……よ……おじ……さ……」


 ハルは人質なのだ。父が謀反を起こしたのなら殺されるという理屈は分かるが——悲しかった。

 その表情を読み取ったのか、不意にリチャードの瞳が怯えたようになり、手の力が緩む。咳き込みながらチラとリチャードを伺うと、うなだれている。


「リチャード、おじさん」

 苦しいのを我慢して言葉を紡ぐ。

 今、伝えなければならない。

「父がしたことには、心が痛みますが、わたしはおじさんの息子です。おじさんがくれた幸せを……ゲホッ、ゲェッホ! 忘れられるはずがありません。大切なのは産まれではなく心だと、おじさんは教えてくれました。わたしの心に、嘘偽りは決してありません」


 反対意見を述べる者には常にこうだというのは、短い時間ながらリチャードと共に過ごしてわかっていた。結果、処罰されるのを恐れて臣下はますます距離を取り、リチャードは疑心暗鬼になる。そして反乱を恐れるあまり、より一層専横的になるという悪循環。

 リチャードが望んでいるのは王国ではなく、心を許せるわずかな人間との小さな世界———あの秘密基地なのだ。


「おじさんは心やさしい人です。だからこれ以上溺れないで……」

 王座というものの重責は、人の心を歪ませる。やさしい形までもを変えてしまうのだろうか。


「すまぬ。酷いことをした。余を許しておくれ、かわいいハルよ」

 リチャードはハルを抱きしめた。父から抱きしめられた記憶はないが、リチャードは何度も何度もこうしてくれて、少し恥ずかしいながらもハルは好きだった。


「余はボリングブルックに会ってくる。おまえたちはここで待て」

 そう言い残し、少数の部隊を率いてイングランドに渡ってしまった。


 アイルランドのトリム城に残されたハルとモーは何もできず、ただ待つだけの日々だ。

「十万の兵にわずかな兵でむかうなんて、父上にはたたかうおつもりはないのかな」

「そうだろうな」


 父ボリングブルックの次の行動を考える。

 武力をもってリチャードを王座から引きずり下ろすのだから、自分が後釜の国王になるつもりだろう。

 それは即ち、長男のハルが皇太子になるということだ。


「んなバカなことが……!」

 リチャードが相続人に指名したのはモーの亡くなった父で、皇太子はモーのはずだ。モーを次代のイングランド王に、ハルをその側近に。リチャードがそのつもりなのはわかっていたし、ハルは何の疑問も抱きはしなかった。


「ハル……? どうしたの?」

 なんてことだ。父が次に狙うのは、プランタジネット王家の正統な後継者、モーだ。


 この弟を守らねばならない。己の海に溺れてはならない。

「たとえ再び全てを失うことになろうとも、オレは道を誤らないぞ」

 

 やがて人質ハルを救出するため、父の迎えが来た。アイルランドから船でイングランド中部に渡ると、ハルは父が待つレスターへ向かうと見せかけ、リチャードが留められているウェールズ西部のコンウィ城へと馬首を向けた。隣にはモーを伴っている。


「ハル、こんなことしていいの?」

「アイルランドにいてはおまえは父に捕らわれるし、レスターへ行っても同じだ。必ずオレが守るから、何があってもそばにいろ。いいな!」

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