第一章 なんでオレが?

第一話 ハル、いきなり退場

 オックスフォード大学クイーンズ・カレッジのアーチ型に組まれた柱の下、中庭に面した段差に腰を下ろして、ハルは読書だった。

「なに読んでるんだよ? あぁ、『ローマ建国以来の歴史』か。面白いよな」


 ローマの歴史家リウィウスが記したラテン語の書物だ。今読んでいるのは第二十一巻、ポエニ戦役も山場でいよいよ名将ハンニバルがカンナエの戦いというところで、邪魔されたくないハルは目配せだけして紙面に目を戻す。


「しっかし、十二歳でラテン語の本を難なく読めるとか、腹立つなぁ」

 お構いなしに横から頭を小突いて来るのは、ライオネルがハルより五歳も年長だからだ。


 ハルは大学の正式な寮生ではない。しかし叔父がオックスフォード大学総長という縁で、このクイーンズ・カレッジで薫陶を受けていた。特別待遇なのはハルがイングランド王に連なる家系だからで、祖父はランカスター公爵という。


「じゃあ今日は行けないのか? 残念だなぁ」

「行くよ」

 そんなハルにも読書より楽しみなことがある。パタンと本を閉じると、ライオネルが破顔した。


 クイーンズ・カレッジはオックスフォードの街で一番の繁華街にある。目抜き通りを進み、背高のっぽなカーファックス塔を横目に交差点を曲がれば、目指す場所はすぐそこだ。

 ドアを開ければ、昼間からむわっと男どもの体臭と麦酒エールの匂いが立ち込める。そして飛び交うのは怒号と品のない言葉に、テーブルを叩いての歓声。こんなところ入りたくない。最初こそハルもそう感じたものだが、今となっては逆に心地良いくらいだ。


「あぁーっ! クッソ、裏目った!」

「んだよ、最初がゴミなんだよ」

「六だ! 六に全額賭けるぜ!」


 客の中にはカレッジの見知った顔もあるし、働かずに昼間から博打にうつつを抜かす男もいるが、いつでもハルが最年少で間違いない。

「よぅ、今日は早いな」

 店主のオヤジに差し出された麦酒エールのジョッキを当たり前のように喉に流しこみながら、「休講だったから」と答える。


「さてさて、まずはダイス(サイコロ)から行くとしますかぁ」

 ウキウキと卓へ向かうライオネルの後姿に苦笑する。

「ったく、あいつは頭ん中がギャンブルで溶けちまったみてえだな。ハル公はああいう先輩を見習っちゃいけねえぜ」

 と胴元の店主にすら言われるザマなのだから、どうしようもない。事実ライオネルは貴族の子息にも関わらず留年を繰り返すわ、親名義で勝手に借金をするわで、この界隈では有名人物なのだ。


「けどいいヤツだよ」

 大負けしても笑っているのだから気が知れないが、かえって清々しい。たまに勝てば気前よくおごって、宵越しの金は持たない。そんな男だから皆から好かれている。


「同室があいつだったのが不運だが、ハル公は公爵様なんだし、沼落ちするんじゃねえぞ」

「まだ爵位は受け継いでないし、ただのハルだよ」


 賭場で人気なのはダイスを使った博打だが、ハルがのめり込んだのはカードだった。全部で七十六枚あるカードには1~19の数字とカップ、コイン、クラブ棍棒ソードの四つの記号が書かれており、五枚ずつ配られたカードで役を作るというものだ。


 配られた手札の中から任意のカードを捨て、捨てた分だけ山からカードを引く。ダイスは完全に運ゲーだが、こちらは運だけでは勝てないところが面白い。

 一度始めれば、時間が十倍の速さにもなったように過ぎていく。


「ソードの2・5・7・14・18。ストレートだ」

「くそぉーっ! また負けたぁ」

「なんで子どもなのにそんな強えんだよハル公はよ!」


 勝負を見ていたギャラリーも湧く。彼らもまた、ハルが勝つか相手が勝つかで金を賭けているのだ。

 一度使われたカードは、二度と場には出ない。だから相手が何を捨て、何を揃えていたかをどこまで覚えていられるか。そして捨てられたカードから、相手が何を保持してどう揃えようとしているのかを読むこと。これがハルが得意とするところで、そのうえで自身の手札で最適な組み合わせを広げていくのだ。その過程が無限の世界に感じられて、面白い。


 さらに勝負はずっと勝ち続けられるわけではない。降りる時の見極めを誤り、十二歳にして到底払いきれない借金をこさえたこともあったし、それを大勝ちで一度にチャラにしたこともある。勝負の流れの中に身を置く快感は、他では味わえないものだった。


 金を受け取り袋に入れると、今日は重い。

 これでみんなに食事でも振舞おうと店主のところへ行こうとした時だ。


「おいおいおい、ガキがおごる気か? 調子に乗んなよ」

 一緒にカードをしていた二人組の男で、馴染みの客ではない。こういう難癖をつけられるのはよくあるので、ハルは気に留めず席を立つが、男たちは更に続ける。


「金の使い方を教えてやるから、その袋をよこしな」

「あんたらハル公に負けたのか? だったら大人しくその口を閉じた方がいいぜ」

 ハルの背後からにゅっと現れたライオネルの顔に、男は唾を吐きかける。


「賭場はガキの遊び場じゃねえって、オックスフォードのお坊ちゃまに教えてやんなきゃなあ。金の数え方は知ってんのか?」

「負けたヤツは大人しく帰れってやさしく言ったのに、通じなかったかなぁ」

 唾を拭ってライオネルが男の胸倉をつかむと、ガラの悪いもう一人が懐からナイフを取り出す。店の中が一気に緊迫し、視線が集中する。


「お客さん、揉め事は困りますぜ」

 ガタイの大きな店主がハルの前に立つと、男は今度はそっちへ絡んでいった。


「おうおう、どうせガキを使って儲けてんだろ? ガキを相手に大きく賭けさせて、そのうえでガキを勝たせて巻き上げようって魂胆なんだろ。とんだイカサマ店だぜ」

「で、どうしたいって言うんだね?」

「金返してもらおうか。イカサマ胴元が」


「言いがかりはよせよ。ここは楽しく遊ぶ場所だぜ」

 胸倉を掴んだライオネルの腕に力が入る。店主も口は笑っているが、目はちっとも笑っていない。

「困りましたねぇ。うちの店は、そういうのはねえですよ」


 しかし男はケッケッケと不快な笑いと共に、ライオネルの腕を掴み返した。

「そんなこと言われても信用できねえしなぁ。あぁ、手荒なマネはしたくねえんだがよ」

 もう一人の男もナイフをくるくる振り回しながら、ニタニタしている。


「そう。じゃあ、こうするしかないんじゃないの?」

 間違いのないように言っておくが、最初に手を出したのは確実にライオネルだった。男が卓ごと倒れると、「野郎!」とナイフの男が飛びかかってくるが、ライオネルは身軽にかわし、嬉々としてもう一発拳をお見舞いする。


「またか……」

 こんな喧嘩は日常茶飯事で、ハルも常連たちも慣れっこだ。すると最初に殴られた男がこっちへ向かって来たので、ずっしり重たい袋に遠心力をつけてぶん殴った。布袋が破け、バシャ——ン! と派手な音とともに硬貨が辺りに飛び散る。


「金だぁ———っ!!」

「ちっくしょう返せコラ!」

「まだ終わってねえぞ!」

「借金返せるーっ!」


 押し合いへし合い殴り合い、張り倒し合い、拾おうとかがめば容赦なく靴底に踏みつけられ、手が触れた者同士つかみ合い弾き合う。こうなってはもう相手が誰だろうと関係ない。全身もみくちゃの汗だくグダグダになって、ライオネルと二人でなけなしの小銭を片手に寮のベッドへ帰りついた。


 あくる日、いきなりの激しいノックにビクッとして目覚める。まだ外はほの白い。

「なんだよこんな朝早くに……」

 昨夜かなり暴れたライオネルは、うつ伏せになって布団を頭からかぶっている。


「ハル、総長がお呼びだ。今すぐ支度をして向かいなさい!」

「叔父上が?」

 しかも呼びに来たのは寮長だ。


 なんだろう、昨夜のことがバレたのか。それともこの間のフランス語のテストが赤点だったからか。残念ながら思い当たる節はいくつもある。


 顔を洗い、こげ茶色の髪は寝ぐせが少しついているが元々癖っ毛なので気にならない。寮長と共に向かうと、そこには叔父の他に兵士が四人いた。うち一人が小ぶりの旗を掲げている。

 赤地に三頭の金獅子——イングランド王家の紋だ。


 入室したハルに、オックスフォード大学総長の叔父、ボーフォートが告げる。

「ハル、今すぐにここを出て行きなさい」

「え」

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