嵐の王 ーランカスターの朝日 外伝ー

乃木ちひろ

プロローグ

戴冠式

 十字架型をしたウェストミンスター寺院のクロスした部分に主祭壇がある。

 床に装飾されたモザイク模様コマスティの円の中央に、普段は無い椅子が据えられていた。背もたれも座面も全て木でできた、古びた椅子だ。宝石や金といった装飾は一切ない。

 戴冠式の椅子コロネーションチェアと呼ばれるそれは、百年以上前から歴代のイングランド君主のものだ。


「リチャードおじさんも父上も、この玉座に殺されたようなもんだ」

 そう思うと、獅子の顔かたちをした椅子の脚がこちらを威嚇しているように見えてくる。


 丈の長い衣は目の覚めるような鮮やかな赤。その上に白貂の毛皮に縁取られた金色の絹のローブを肩に留めたハルの姿は、左右にずらりと居並ぶイングランド王国重鎮の中でもひときわ背が高い。

 その頭上には王冠だ。顔には、右半分に目から口元へと伸びる大きな傷跡がまず目につく。だが右目の視力を奪った醜いそれを隠そうともせずハルは振り返り、ぐるりと一同を睥睨へいげいしてから腰を下ろした。


主よ、王にご加護をゴッド・セイブ・ザ・キング

 式を執り行うカンタベリー大司教が告げると、全員が声を揃えて唱和する。

 打ち鳴らされた鐘の音と拍手、そして『イングランド王、ヘンリー五世陛下万歳!』の歓声がウェストミンスター寺院の高い天井にわんわんこだまする。


「どう? 伝統の椅子の座り心地は?」

 右に立つ年子の弟のトマスが小声で聞いてくる。


「尻が痛ぇな。玉座の座り心地なんざこんなもんか」

 それを聞いた末の弟ハンフリーがブッと吹き出す。

「次からは座布団ありにした方がいいって記録残しときなよ」


「あのね、玉座におごることなく常に民の為の王であれって戒めだろ。それくらい察しなよ」

 二番目の弟ジョンに言われて「おぉ」と頷いたのはハンフリーだけではなかった。

「なるほどな! さすが良いこと言うじゃねぇかジョン」


「ハル様には一番に悟って欲しかったですけど」

 一歩下がった所から冷ややかに突っ込むのは、血は繋がっていないがもう一人の弟のモーだ。


 祝福の拍手を送る賓客の中、最前列に陣取るのはフランスからやって来たブールゴーニュ公だ。『無怖公』と呼ばれ、フランスの王党派であるアルマニャック派から覇権を奪おうとしている野心家だ。隣にはまだ身長の伸びきっていない体に黒衣を纏った息子、フィリップを伴っている。


 フランス王シャルル六世も招待したのだが、欠席の返事だった。王は精神を患っており、近頃体調が思わしくないらしい。その王が拠り所とするアルマニャック派の領袖、シャルル・ドルレアンも来ていない。


「リチャードおじさんも父上も、この椅子に座った時から少しずつ心を蝕まれてきたんだろうな」


 誰の意見も聞こうとせず失策を重ね続けたリチャード二世。

 そして常に反乱に怯え悩まされていた父、ヘンリー四世。

 二人とも最初はそんな人ではなかった。この椅子には、人を信じられなくする。そんな魔力があるみたいだ。


「やばっ、呪いの椅子じゃん。除霊した方がいいって!」

 オカルト好きなハンフリーが嬉しそうに言う。

 呪いの椅子か。そうかもしれない。歴代の王がこの椅子の呪縛に捕われ苦しみぬいてきたのだから。


「いっそぶっ壊した方がいいかな」

「ハル様!」

 本気でやりかねないと思ったのだろう、モーが血相を変えた。


 その時、視界が真っ白になる閃光の直後、大砲の砲身が吹き飛んだかのような爆音。これには居合わせた婦女だけでなく、男性までもどよめいた。

 ウェストミンスター寺院の外で、ロンドンは経験したことのないような豪雨に見舞われている。


『戴冠式の日に不吉なことよ』

『まるでこの国の将来を暗示しているようだ』

『やはり王位簒奪者ヘンリー四世の子の即位に、神はお怒りなのだ』

 聞こえてくるのはもっぱらそんな声ばかりで、これも早速呪いの椅子の洗礼か。


「ハルの雨男は今に始まったことじゃないもんな」

「だよなジョン。ハルと一緒の戦は大体雨なんだもん。おかげでいっつも泥まみれでさ」

 肩をすくめるトマスだが、今日は一粒たりとも泥跳ねは許さぬ、全身白のきらびやかな装束だ。彼は弟たちの中では最も多くの戦場をハルと共にし、泥の味をよく知っている。


「トマスもジョンもずるいよ。オレだってハルと一緒に戦いたい! 次は連れてってよね」

 トマス、ジョンとは十代の頃から共に遠征したものだが、末弟ハンフリーだけはなぜか機会に恵まれなかったのだ。

 すると受けたのはトマスだった。


「次ねぇ。もうウェールズは平定しちゃったし。スコットランドはおとなしくなったし」

 ブリテン島にはイングランドの他に西にウェールズ、北にスコットランドがあるが、帰属しないまでも反乱は起こさせぬまでに、ハルの父とハルたち兄弟で叩いている。


「私の故国アイルランドは敵ではありませんし」

 アイルランドはモーの出身地で、イングランドとウェールズの沖合にある島だ。

「どこへ向かうつもりなの、ハル」

 最後に問うジョン。

 

 弟たちの視線にハルが唇の端を吊り上げると、再び雷鳴が轟く。

 閃光の中、客人たちの最後方に長い黒髪のシルエットが浮かび上がり、ハルの視線が吸い寄せられる。


 途端に弟たちや人いきれが遠いものになり、二人の間の遠い距離だけが浮かび上がる。

「……八年ぶりか」

 ウェールズでの戦いの最中、最後に見た姿と変わらない。年齢不詳な見た目も、飄々としてつかみどころのない空気もそのままだ。


『我が子を失った幾千の母親の狂気がお前を喰い滅ぼすまで、しかとこの目で見てくれよう』


 その言葉通り現れた。いいや、見られているのはずっと感じていた。

 どうだ、オレは生きてるぜ。堕ちていくにはまだ早えだろ。

 琥珀色の隻眼で視線を交わすが、相手は受け流すだけだった。


 もう一度閃光が走ると、長い黒髪の姿はいなくなっている。いつの間に始まっていた聖歌隊の讃美歌が視界と聴覚に戻ってくる。


「オレに神の加護は要らない」

 この身と命は神ではなく、神に護られなかった者たちへ捧ぐと決めている。

 ハルは戴冠式の椅子から立ち上がった。


「それに、オレには弟たちがいるからな」

 トマス、ジョン、ハンフリーに、モー。

 四人の弟たちと共にウェストミンスター寺院の長い身廊を進むと、ふとあの頃のウェールズと同じ、湿った風を感じたような気がした。

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