ストックホルム症候群っていうんだっけな?
本日、打ち合わせでエドワード・マスタングの魂である阪井弘樹は事務所に向かっており、
今日の出来事を行うことを振り返っていた。
打ち合わせの内容としては、ゲーム配信の許諾確認である。
フリーゲームの作者から許諾を貰っても、ゲーム上で使われているフリー素材の権利もあり、その権利者から生配信は禁止という事例もある。
だから、事務所と確認作業を行っているわけだ。事務所に所属するとリスナー数は増えるのはいいとして、こういう事務作業が増えるから大変だ。
そんなことよりも、アリスたんとコラボした相手を抹消してしまう卑弥呼だ。
昨晩就寝前は、悪口を言った程度に対して抹消するほどの制裁を食らうのかと悶々と考えていた。
その影響で。夢では何度も、何度も・・・卑弥呼に包丁で胸部を刺されていた。
―――いや、肋骨の下の部分。つまりは胃に対してのみ的確に刺してくるのだ。
この夢のせいで、刺されていた胃がキリキリしてくるのだ。
何しろ、人生で初めて胃薬を買った。
『なんでだろうか。』
胃薬の瓶を強く握るだけで、気持ちが楽になって、胃のキリキリがほんのすこしだけ取れてくる。
気付いたら、キラライブの事務所の扉にたどり着いていた。
覚悟を決めるため。胃薬の瓶を壊れる程に強く握ってしまった。
□□□
ゲームの権利関係の打ち合わせは、俺が直接フリーゲームの筆者から確認したメールや、その他権利者の確認等の漏れがないかの確認である。
フリーゲームで作者から許諾を貰っていたためか、スムーズに打ち合わせは終わった。
いつもなら「ふぅ~終わった」と一息をつきコーヒーを休憩室で飲むのだが、今回は違っていた。
―――闇の住人卑弥呼の制裁が待っているのだ。
ある意味こちらのほうが、本日の仕事であると言っても過言ではない。
卑弥呼と待ち合わせの場所を聞いていないが、おそらく休憩室であろう。
キラライブのV同士が事務所で会うときは、大体がコーヒーサーバーとソファーが置かれている小さい一部屋の休憩室である。
いつもなら、ソファーにくつろぎながら、コーヒーを飲むのだが。
死刑を受ける者がこんなにまったりできるのだろうか。いやできないはずだ。
だから、ぎちぎちに固まりながら座っており、完全に緊張している。
―――別の人から見れば面接前の学生かなと思ってしまうだろう。
生死をかけているためか。
第六感が働き、人のオーラを感じることができてしまうわけだ。
休憩室前廊下には事務員や他のVの魂であろう人などが通っており、全ての人物から殺意のオーラが出て無いか見極めようとした。
いつ卑弥呼が来るかという恐怖で心臓に過剰な負荷がかかり、ドクッン・ドクッン・ドクッンと太鼓を叩いているような心臓音が鳴っていた。
こつんこつんと休憩室に向かってくるハイヒールの音が聞こえてきた。
―――このハイヒールから、殺意らしき物を感じる。
黒のロングヘアーですらっとした長身のスーツを着た女性。
思わず、清楚な印象が女教師を強く連想させてしまう。
しかし、その女性からは裏社会で生き延びたような凄みが出て、洗練された殺意が完成しきっている。清楚な印象から来るギャップによって殺意がより引き立っている。
その女性は、獲物を捕らえるように視線をこちらへとぎょろっと動かした。
女性と目が合った瞬間。
―――殺意とは別に運命の赤い糸みたいなものを感じてしまった。
卑弥呼の初コメに感じてしまった恋の波動みたいなもの。
それほど、俺の脳は恐怖で混乱してしまっているのか…
「我は卑弥呼だが、お前が豆か?」
長身の女性は鋭い目を細めながら、イライラした口調で語りかけてきた。
凝縮した殺意により俺は思わず、萎縮しまい古風な主語に対して違和感を覚えることすらもできなかった。
「はい。そうです。」
少し視線をそらしながら、俺は答えた。豆と言われて、いつもならコミカル調で怒って返すのだが、数々の伝説を残した卑弥呼には返す勇気がなかった。
卑弥呼はモデルのような真っ直ぐな綺麗な指で、私に付いてこいと合図を出している。
そして、モデルが歩くようにすたすた歩き始めた。
逃げるという選択肢は死を意味するため、俺は卑弥呼の指示通りに後ろを付いていった。
卑弥呼は事務所から出ていき、路地の裏へと向かっており、
徐々に光のない道へと迷わずに、まるで日常生活でもよく通っているかのように誘導してきた。
どうやら、路地裏の最も暗いところであろうか。
―――卑弥呼は立ち止まり、こちらへ振りむいた。
すたすたと歩いているが、先ほどのハイヒールの音は聞こえない。
どうやら音を消す歩き方も熟知しており、今から行うことは人には気付かれたくないみたいだ。
「なぜ、アリスとコラボしているのか。返答次第では我も何をするか予想できない。」
仁王立ちになっている卑弥呼からは、目から研ぎ澄まされた純粋な殺意が出ており直視することができない。
この殺意で、卑弥呼に顔を合わせることができずに・・・
「え~と。6万人記念配信のコラボ配信ですね。」
小声でぼそぼそといじめられっこみたいにしか答えられず、俺すらも卑弥呼に聞こえたかどうか分からない。
ポケットの中のお守りである胃薬の瓶を強く握り、怖さと闘おうとした。
「へえ~良かったね。」
にこやかに卑弥呼は笑っており、今までの殺意が嘘みたいに消えている。
―――どうやら許してくれるのであろうかと安心して胃薬の瓶を握る力も軽くなった。
卑弥呼から発するシャンプーの香りが、卑弥呼も常識のある女性であると思わせた。
しかし、気付いた瞬間気配を消した卑弥呼は3m以内に入っており、暗殺者がターゲットを殺すような手慣れた動きに動揺してしまう。
その動きに反応した頃には、既に卑弥呼は音を立てずに右手を伸ばし、俺の首を絞めてきた。
おそらく、卑弥呼の笑いで安心した瞬間に手を伸ばしたと推測する。
・・・これが、暗殺術なのか。卑弥呼よ。お前は本当にVなのか。
首が苦しくて動くことができない上に、声も出せないのである。
―――首絞めを選んだ理由としては、声を封じて助けを求めさせないためか。
こういった場面に度々なるためか、判断力は的確なんだね。
「あ~、やっぱり。我も何をするかが予想できなかったわ。
首絞められて声出せないでしょう。これで助けも呼べないね。
我の握力は50㎏以上あってね。リンゴをつぶそうと思えばつぶせるんだよね。」
卑弥呼は熟練の殺し屋みたいに冷淡に語りつつ、視線は俺のポケットへ向いていた。
恐怖の象徴である卑弥呼は、ポケットに大切なものが入っていると理解し、力づくで俺のお守りを奪い取ってしまった。
「我も長年の経験あるからさ。何か大切なお守りかなと思ったけど。
違ったみたいだね。」
卑弥呼は、お守りの正体が胃薬の瓶であることにがっかりして、声に覇気がない。
卑弥呼が胃薬の瓶を強く握った瞬間
―――パッキーンと割れた。
心の支えである胃薬を潰されて、俺は顔を真っ青にしてしまった。
「えっ、まじで、胃薬をお守りにしているの。
君ストレス抱えているの?面白いんだけど。」
卑弥呼は吹き出しそうになっており、思わず口を防いでいる。
お前のせいで、人生で初めて胃薬を買ったんだよと内心怒っている。
「首絞められている理由はもちろん分かるよね。我はかなり怒っているよ。」
明らかに卑弥呼のこめかみに血管が浮き出ているが、にこやかに笑いながらしゃべっていた。
俺は、笑いながら怒る女性が一番苦手で恐怖を感じてしまう。
―――俺には笑いながら怒る女は何を考えているかが分からないし、爆発するタイミングや度合いなどを最悪なケースで、考えてしまう。
数秒で分かったことだが・・・
笑いを使って懐に入るために安心させたり、恐怖を増長させたりと
卑弥呼は笑うことを、相手の行動をコントロールするための道具としている一面も見られている。
「うぐぐっぐうっぐ」
気道が完全に閉塞しており、うまくしゃべることができない。
「そうか、しゃべることができないか。少し緩めるよ。」
卑弥呼は手を少し緩めて、俺が話せるくらいまでにしてきた。
「すみません。悪口を言ってしまって・・・
先輩にそんな口きいたらだめですよね。」
俺はあの悪口の件だと思い、すぐに謝った。
―――おそらく、こんな謝罪で済んでいたら、首絞めなんてされてはいないだろうが。
「違います。
我の一番の押しであるアリスとコラボしやがって。我もコラボしていないんだぞ。
お前みたいな豆に渡したくないんだが。」
卑弥呼は、嫉妬で怒り狂いながら言った。
そういえば、アリスたんもしゃべりかけたのにと言っていたな。
それを無視したってことは嫌っているんじゃなくて、好きな押しに話しかけられて照れて逃げてしまったのか。
―――もしかして、卑弥呼ってコミュ障じゃないのか。
何かのトラウマがあって、暴力や脅しを行うような日常を過ごしていくうちに、
仕事とは関係ない人間に声をかけるなどの基本的なコミュニケーションが取れなくなったのか。これはあくまで、俺の偏見による推測ではあるが・・・
人の欠点を一個でも分かると、共感してしまう。
卑弥呼も訳も分からずに凶暴になったのではないことを理解してほっとした。
人は生死をさまよう戦いを行うと、予想もできないことが簡単にできるというが、
こんな暴力女に無理やりでも同情して、納得しようとしているのか。
―――こういうのって、ストックホルム症候群っていうんだっけな?
「別にコラボしても問題はないですよ。卑弥呼さんもコラボすればいいでしょう。」
俺はあまりに理不尽な理由で首を絞めてきたので、反論した。
Vからの理不尽はすべて心地がいいものだと、Mっ気の強い俺は思っていた時期もありました。現実は、かなり非情でした。
「我は人見知りだから、ことちゃんと同期としかコラボできないんだ。」
卑弥呼は、恥ずかしそうに顔を隠しながら言った。
恐怖心で完全に支配されているのは事実だが、想像した卑弥呼が壮絶な過去でコミュ障になっていると考えると、思わずかばいたくなる可愛さが出てくる。
「かわいそうですね。」
俺は、つい本音がポロっと出た。
―――恐怖の化身になってしまい、女性としてのコミュニケーション能力があまりにも欠落していることが悲劇的であり、愛おしい。
ふっと、見せるギャップは魅力的だと勘違いさせられる。
ただ、怖いという事実はかわらないが・・・
「はぁ~。我、先輩ぞ。言葉には気をつけろ!!!それに、我のアリス愛は誰にも負けないから!!!」
傍から聞いたら煽りにしか聞こえず、それに対して卑弥呼が怒鳴り散らかしてきた。
俺も言葉のチョイスを間違えて、自爆すること多いんだよね・・・
恐怖とほんの一滴の同情により卑弥呼の考えを否定したくないが、
人生を変えてくれたアリスたんへの愛は俺が世界一番であることは否定されたくなかった。
◆◆◆
俺のアリスたんへの愛は誰にも負けていないし、その言葉は不快でしかなかった。
だから、暴力団に勝ったという武勇伝を持つ卑弥呼が相手であっても、アリスたんへの愛はあなたが一番ですなどと言いたくなかった。
その愛で負けたら、人生を救ってくれたアリスの母親である“月の使徒ルナ”との最後の約束を破ってしまう。
月の使徒ルナの配信に魅せられ、その配信が無かったら、もしかしたら自殺していたのかもしれない。俺はブラック企業に勤めており、毎日残業して人生全てが苦しかったが、彼女の配信を見て、笑うという感情を思い出したのだ。
彼女が所属しているキラライブに俺は入りたいと思い、仕事を辞めて、何度もオーディションを受け続けた。
その思い・努力は裏切られ、月の使徒ルナはリアルでいろいろあったらしく、引退してしまった。
俺がキラライブでデビューした直後にそのことを知ってしまって、かなりの喪失感を覚え、生きる活力がなくなった。
ルナちゃんはファンのみんなに申し訳ないと思い、引退配信にて同じキラライブライバー群馬先生と“百合受精”配信にて自分の意志を受け継ぐ子どもを作った。
ルナちゃんの銀髪ロリっ子と群馬先生のドSな褐色が混ぜ合わさり、すばらしいアリスたんが誕生した。そのアリスたんをルナちゃんの代わりに愛し続けることがルナちゃんの願いである。
その願いからルナちゃんの喪失感を忘れて、アリスたんを愛することに専念しようと思った。
決意の表しとして、ツブヤイターでアリスたんを宣伝したことを鮮明に覚えている。
ルナちゃんの愛のために、目の前の卑弥呼さんの恐怖に立ち向かう。
◆◆◆
エドワードの運命は次のことで大きく変わる。
彼の勘違いと卑弥呼の勘違いにより、良くも悪くも卑弥呼にとって彼は興味深い人種となる。
その理由を知る為には、卑弥呼のトラウマの一部を知る必要がある。
エドはその過去を知らないため、何故今後コラボ希望してくるかわからないままである。なんとも不遇な存在になってしまうのだが・・・
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