第5話 濃紺

 先輩の素晴らしい歌声は私から言葉を奪った。昼のあのようなしゃべり口の先輩がこんなものを持っていたなんて。


「今日は突然店で働けなんて言って、ここらに来て間もないよね。ごめん。」

「いや、僕が早く慣れますよ。」


 静かになった海辺にさざ波の音が通り過ぎると、先輩はギターをケースに片付け始めた。


「ハルト君、海は初めてだったの?」

「そうですね。これまで無縁の場所にいたので。」


 次にピックを小物入れに仕舞ってチャックを閉めた。


「当ててあげようか、ハルト君の居た場所。」


 私は唾を飲み込むのと同時に頷いた。


「東京、新宿でしょ。」


 新宿まで当てられて困惑した。先輩は回答に口を紡ぐ私の顔を見た。


「あ、当たってたの。まじか。」


 推測とわかると、困惑から生まれた、私の体を手のひらで撫でるような、得体のしれない感覚は解かれた。


「私と同じだね」


 物を全てケースに詰め終わり、チャックを閉めた。


「というのは?」

「私も昔東京に居たの。昔、って言っても数年前だけど。なんでかって、それはちょっと訳ありでさ。」


 と語って、先輩はケースを置いて立ち上がった。そして先輩は無言で海へ歩んでいく。徐に私も立ち上がった。

 先輩はここの生まれ育ちであるという、割と固かった私の思弁が水の泡となった。私と出身が一緒であることは私を更に惑わせた。

 先輩は足が海につかるところまで行ったが、私はついて行かなかった。


「海はね、こんな、ギターを弾く私を認めてくれたの。だれも聴かなかった私の声を聴いてくれたの。ハルト君で二人目だね。」


 すると先輩は私に振り向いた。そして笑顔ながら背中から身を委ねるように倒れた。私は慌てて駆け足で寄った。そうしたら、先輩の銀色の髪は海面に広がっていて、顔は水の様に柔らかい笑みを見せていた。そして目を瞑って語ることを続けた。


「海の声が聞こえた。私を肯定してくれた。私を褒めてくれた。」


 先輩の語りに海は「ザァ」と言った。


「...それより起こしてくれない?」


 私が手を差し出すと、腕を掴まれて体重をかけられて、先輩は起き上がることが出来て、私は背中から海に倒された。先輩は笑い、私は先程から動揺が抜けず、どこか困惑してしまった。


「あのさ、これからアミって呼んでよ」

「苗字はダメなんですか」


「坂上って名前、嫌いだから。」

「でもそれほど親密な訳でも」


 濡れた顔を手で払って視界を取り戻し、先輩の顔を見ると、先輩は深刻な表情をしていた。


「だからぁ、嫌いなの。それも吐き気がするほどね。」


 私は先輩の何かに触れてしまったようだった。私は人とそれほど親密になりたくないけれど、先輩を苗字で呼ばないことにした。


「わかりました、アミ先輩。」

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