第2話 紺碧
昨日決めたことだ。予算一杯、なるべく僻地を目指すこととした。交通機関を乗り継いで出来るだけ遠くへ向かう。
客が私だけになったローカルバスが森に入ると、私は窓を少し開けて目を閉じた。木漏れ日が幾回も瞼に当たっては、また木の影に被る。それは私の知らない現象だった。もう一度深呼吸をして、本当に遠くに向かっている、と胸中に言った。
…
―――お母さん、話がある。
―――なに?
母は振り返ると、柔らかい笑顔を見せた。
―――家出てく。
昨日の内スクールバッグまとめておいた荷物を持って、そのまま玄関に靴を履きに行った。すると母は紐を結ぶ腕を掴んで、当然私を引き止めた。
―――どうして。
母の言葉は聞いたことのない、微かに揺れる声だった。
―――すぐ帰ってくるよ。
―――ねぇ昨日はごめんね、お母さん、ハルトの
母のその言葉で、決めていた覚悟はより固まった。母の掴む手を振り払って、一度も母を振り返り見ることもせず、玄関を開けた。
―――今まで、ありがとう―――
……ここは…、
しばらく寝ていて、夢を見ていたようだ。外を見ると路線バスはいつの間にか緑を抜け、窓からは寝る前よりも強い日光が差していた。
「海だ…」
見える海は水平線まで広がっている。本当に青かったんだ。と、眼中の紺碧の海は目に新しかった。バスがもう少し道を行くと、先の海辺に家々が見えてきた。
「間もなく莞爾ヶ浦です。降車の際は──」
バスを降りると風を食らった。それは感じたことの無い匂いがする。もしかしたらこれが「潮の香り」なのかもしれない。言葉だけは本を読んで知っていた。
バス停から海が見渡せる。眼下に広がる砂浜に海が棚引いている。海面には波が幾つか立ち、それが水面に打ちつけると、泡を含んだ生々しい音が聴こえた。
海に触れようと礫の階段を下りた。砂浜は靴下を脱いで裸足になって踏んだ。砂浜んい触れた事は生まれて初めてだった。
砂浜を遠くまで見渡すと、幾つか流木が浜に打ち上げられていて、それが何故か横一直線に並んでいた。近づくとその枝々は剥げて、滑らかな表面を見せていた。一つ低木の幹くらいのそれを持ってみると案外重かった。
次に、前方にある細く禿げた丸太を走って飛び越えた。その勢いで、海に足を飛び入ってしまった。
水しぶきは肩の高さまで上がり、潮の香りは身に纏った。足は少し砂に食い込んで、海の冷たさを知覚したときに、私は私がはしゃいでいることに気づいた。初めて触れる自然に好奇心がむずがゆく針でつつかれていた。
「海はいいだろ。」
突然後ろから声がした。慌てた足が滑って、背中から海にまた飛び入ってしまった。その弾みで初めて海水を舐めてしまった。それは想像の遥か塩辛かった。
後ろの人物は年老いた釣り人だった。橙のライフジャケットを着て、青いバケツを持って、私のこの有様を笑っていた。
「海は初めてか。」
「はい、人生で初めてで…」
釣り人は仰け反り、一入笑い上がった。
「そうかそうか、君もか。」
私は取り繕った笑みで意思疎通を繋いだ。
「君もって。」
「いいや、何でもないよ。今日はシーラカンスが釣れそうだ」
哄笑する釣り人は堤防へ向かった。
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