第1話 影

 都会というところは、夜になるとその姿を豹変させる。昼では常識だったことが夜には覆る。人の色が変われば、聞こえてくる音も違う。

 禍々しい。獰猛な虎の様に、都会は幾所にその牙を露わにする。聞こえてくる耳障りな環境音は、虎の吐息の様。私を怯えさせるものなのである。

 私は、見てくれの通り、ここに居てはいけなかった。れっきとした警官の補導対象であった。それでも夜の都会で働くことは仕方がなかった。アウトローな夜の都会で戦慄に独り心臓を鳴らしながら、稼いで賄う。これが私の近頃の日常なのであった。


 都会の恐怖とは、例えばこうだ。

 つがいが前を歩いている。女のほうは男のジーパンの尻ポケットに手を入れている。折節、二人は見つめあって、そそと笑う。

 夜なのに、重たい工事が聴こえてくる。ドリル、スタンプ、重機の忙しい爆音が聞こえる。

 広い通りには、ジャケットを着た黒い大人たちが、チラシを持って目を光らせている。もしかしたら私はその射程に入っているのかもしれない。

 聞こえてくる会社員の電話。泥酔して不安定な独り言。女の会話とハイヒールの足音。

 突然目の前でクラクションが鳴る。私の肉体は「殺される」と思ったのか、あらゆる毛が立ち、息が殺される。


 また、都会は人を誘拐する。

「あの、そこの方、今ウチ安いんですよ。」

 声のする方を見ると、若い二人が客引きに腕を掴まれている。

「そこのネエさん、今ヒマでしょ?」

 女性が腕を掴まれる。

「もしアレだったらウチの店、どうですか。」

 また誰かが掴まれる。

「良かったらウチに──」

 また誰かが。

「ウチに──」また。

「ウチに──」また。

また…。また…。また…。


 突然私の腕が掴まれた。

──」


 振り払った。必死に逃げた。脱兎如く、誰も居ない暗い隙間に逃げた。そして必死に、きつい心拍する胸の内を押さえつけた。

 鼓動が生々しい。感情が喉で詰まってうまく息が打てない。視界は熱い涙で曇っていて、左手がそれを拭っても、止まらない。右手は口を押さえた。

 正面の壁を見ると、ポスターが貼ってあった。

「案内担当女性募集中!初心者、未経験者大歓迎!」

 回った目を閉じてうずくまった。それでも遠くから都会の工事の音、人の声が漂って来て聴覚を侵す。

 今度は両手で両耳を押さえつけた。何も聞こえないよう、強く。自分の心音だけが聴こえた。


 ーーー


 深夜帰ると、窓はまだ明るかった。リビングに踏み入るなり、いつもこの時間は寝ているはずの母が迫ってきて私の頬をはたいた。

「馬鹿、バイト辞めたって嘘ついたの?」

「俺がいつ何してたっていいだろ。」

 バイトしていることは誰にも秘密にしていた。一度母にバレて辞めろと言われたけど、家庭にはお金が必要だった。

「お願いだから、頼むから辞めて、ね?」

 母は私の肩をつかむ。だんだん力が入っていくのが分かった。

「わかった。」

 そう告げると、急に力が抜かれ、肩から手が滑り落ちた。

「お母さん、寝るね。」

「うん、おやすみ。」


 水道水をコップに注いで、背もたれが私の背中に合わない木の椅子に座った。一度飲み、吐き気が混じったため息をついた。

 バイトを止めるつもりはない。母がこの家を一人で支えているのに、好きな事をするわけにはいかない。せめて片手だけでも添えたい、と深夜の飲食店で働き始めたのだった。母はそんな私を嘘をついてまで説得したのだった。

 テーブルに水がまだ半分くらい残っているコップを音を立てないよう置いた。そして、下を向いて自分自身の影を見ながら考え込んだ。

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