第11話 コブリーツ邸再訪
ペレウスとフェイトンは父子の今までの経緯を説明した。
「つまり追跡者と殺害事件の関係は不明とはいえ、事件が発覚した今日になって、君らは堂々と追い掛け回されたのか。」
マリアンは父に続けて言った。
「その通りです、父さん。ここは決して大都市ではないから、虱潰しに探されれば、見つかるのは時間の問題だと思う。勿論ここにいてくれて構わないけど。」
「しかし外務省が偽の訃報を送って来たなら、安直に通報するのも考えものだな。」
コブリーツ氏の言葉にフェイトンは頷いた。
「同感です。あの、委員会に相談するのはどうでしょう?僕はアテネ本部のインターンに参加する予定なので。」
マリアンはフェイトンの提案を即座に言い返した。
「どうかな。正直委員会が絶対安心とは思えないが。曄蔚文博士が無差別に殺されたはずない。じゃあ彼と関係深い委員会の面々こそ、怪しんで然るべきだと思うけど?」
コブリーツ氏は顔を顰めて息子を窘めた
「言い方に気をつけろ、マリアン。少しで良いから自重と思い遣りを持ちなさいよ。」
委員会に殺人犯がいるとは思いたくないが、ペレウスには気がかりな事があった。
「フェイトン君は、先月博士が委員会の仕事でアテネに滞在したと言ったよね。」
フェイトンは頷いた。
「些細な事ですが、今日彼から聞くまで、私はそれを知りませんでした。ですが今までの経験からして、アテネ本部に居ながら博士の来訪に気づかないとは考え難いのです。もちろん偶然だとは思いますし、博士が嘘を吐いたとも思いませんが、今の状況に置かれてみるとどこか釈然としません。」
マリアンが尋ねた。
「委員会の用事ってつまり何だろう?何か聞いたかい?」
「分かりません。留学してから話す機会も少なかったので。でも去年は改正条約の相談に乗っていると言っていました。」
「確かに改正条約なら内密にしていても不思議でないな。」
ペレウスが言うと、マリアンは即座に訊ねた。
「そうなのか?なんで?」
「私も詳しくは分からないが、何か改正条約に関して問題が起きたらしい。その調整に時間が掛かったから、改正条約公表も直前まで延ばされたとか。」
「それが20日の会見ってことか。」
「ああ。だから他に目的があったのかも。フェイトン君、委員会以外でお爺さんがアテネに来ることもあるよね?」
マリアンの質問に、フェイトンは首を傾げた。
「さあ……。思えば委員会以外の用事を聞いたことがありません。もし観光ならそう言うでしょうし。」
コブリーツ氏はフェイトンに訊ねた。
「ところで君の親御さんには連絡したのかね?」
「両親は他界しています。祖父と僕はずっと2人家族だったので、こういう時に連絡するべき親類は思いつきません。……あ、そういえば僕、朝5時ごろにインターネットでニュースを見てから、まだメールを確認していませんでした。」
「僕のノートパソコンでよければ、今ここで確認してみる?」
「いいのですか?すみません、お借りします。大学で提供されているメールなのですが、少し時間が掛かってしまうかも。偽訃報を受け取った時もなかなか読み込まなくて。」
その時ふとフェイトンは思い出した。あまりの緊急事態に、彼を完全に失念していたのだ。
「………ペレウスさん、李奇さんという方をご存知ですか?調査共有委員会の中国代表なのですが。」
「もちろん。引継ぎの時に何度かお会いしたよ。」
「彼に相談するのはどうでしょうか?小さい頃大変お世話になったので、赤の他人というわけでは無いはずです、多分。……だた僕は連絡先を知りませんが。」
フェイトンは自信無さげに言葉を濁す自分を馬鹿馬鹿しく思った。李奇は冷徹な印象を与える男だが、相談すれば助けの手を差し伸べてくれるだろう。あの日両親が搬送された病院まで自分の手を引いてくれたのも彼だったのだから。
ペレウスは納得して言った。
「李奇代表か、良い考えだ。連絡先は私が知っているから大丈夫。」
だがマリアンは再度食い下がった。
「おいおい、ちょっと待てよ。李奇代表こそ怪しいだろ。元は中国外務省の人間だろう?偽訃報の真相が分からないのに軽率過ぎるよ。」
「それはそうだが、彼の父は李魁博士なんだ。提唱の共同執筆者で、曄蔚文博士とは盟友と言われるほど親しかったとか。だよね、フェイトン君。」
「え、ええ。小さい頃は家族ぐるみでお世話になりました。」
だがコブリーツ氏も険しい表情を見せた。
「倅の言い方には難があるが、一応理解はできる。問題は博士が亡くなる前に訃報が届いた事、そして追跡東洋人の存在だ。それらに李奇代表が無関係だという証拠はまだ無い。李魁博士と李奇代表は、当然ながら別人だと考えなければ。」
ペレウスはやや思案して頷いた。
「そうですね、確かに。軽率でした。ですが誰かに追跡集団の事を連絡しないと。フェイトン君が更なる犯罪に巻き込まれることは避けたい。」
フェイトンは漸く表示された受信箱に安堵したのも束の間、3人へ向けて気まずい表情で言った。
「誰からも連絡は来ていません。」
「え、そうなのか?」
拍子抜けするペレウスをよそに、マリアンは再度主張した。
「じゃあ猶更不自然だよ。アテネ本部にしろ李奇にしろ、曄蔚文の訃報を真っ先に伝えるべきなのに、なぜ誰もフェイトン君に連絡を寄越さないんだ?これはつまり彼らが事件に――――――。」
「マリアン!よく考えて発言するか、できないなら黙りなさい!」
マリアンは父親の叱咤に口を噤んだ。その様子を見てペレウスは一層不可解に思った。彼は常々政治家や警察、役人などを毛嫌いしている。独立前後の混乱を活動家の傍で過ごした彼が、公権力に対し漠然かつ絶対的な不信感を持つのも頷ける。だが彼は明確な根拠なく疑惑を捲し立てる人間ではない。
「連絡が無いのは、警察の都合に従っているからだと思う。重大事件だ、仕方ないよ。」
そう言いつつ、ペレウスは李奇より寧ろモデラ委員長の方が不可解だった。モデラがイレクトロを連れてロンドンを訪れたのは、彼が曄蔚文を恩師と慕っているからだ。加えてフェイトンとも面識がある。イレクの話に基づけば、彼こそ個人的にフェイトンへ連絡を試みて然るべきなのだ。
ペレウスは今一気が進まないものの、今の時点で有用な選択肢が弟しかないという結論に至った。
「マリアンも誰かの助力を仰ぐべきとは分かっているのだろう?フェイトン君の安全確保が最優先だから。」
「それはもちろん。」
「じゃあ弟のイレクトロに相談しよう。もちろん委員会の人間だけど、それは私も同じ条件だし。それにフェイトン君と面識があって、中国外務省とは無関係だ。追手と曄蔚文博士の事件が無関係と分かれば相談のしようもある。委員会は間違いなく中国警察と連絡を取るから、弟ならその辺りの情報も得られるかも。あのアジア人たちのことが分かるまで、私がフェイトン君を送っていくよ。1人よりはましだと思うから。」
フェイトンは慌てて恐縮した。
「そんな、これ以上お手を煩わすことはできません。」
「いや、そうさせて欲しい。本当に心配なんだ。」
「なら僕もついていこう。」
ペレウスは恐縮して彼の申し出を断った。
「それは申し訳ないよ。君が来てくれたらもちろん心強いけど。……それに車を見られてしまっただろ?留学生を追い掛け回すような集団だ、この家まで嗅ぎつけたりしたら、コブリーツさんにもご迷惑が掛かってしまう。」
「車は大丈夫。一緒に行っていいだろ?」
コブリーツ氏は溜息を吐きつつ息子に助け舟を出した。
「邪魔でなければ、倅も同行させてくれ。」
「本当ですか?ありがとうございます!お父さん。」
「お前……。はあ、緊張感に欠ける放蕩息子で申し訳ない。だが荷物持ちくらいにはなるだろう。もし腹が立ったらその辺に放り投げてくれ。」
「なんだか辛辣だなあ。」
父親の言葉にマリアンは首を竦めた。そして顔色の悪いフェイトンに、出発準備が終わるまで客間で休むよう勧めた。
客間から戻ったマリアンと共に、ペレウスはアテネに行くまでの計画を立てた。
「今一ついい便が無いな。ローマで8時間待たないといけないが、一番早くて明日の午後、あとは明々後日の午後か。」
「それなんだが、トリエステはどうかな。」
「え?」
「トリエステならアテネへの直行便がある筈だよ。僕が車で送ればいい。」
「それなら願ったり叶ったりだけど、本当に大丈夫なのか?」
「ああ。」
ペレウスはトリエステ=アテネ便を調べた。確かに直行便がある。
「一番早くて明日の午後だ。」
「それでいいんじゃないか?到着時刻はローマ経由よりずっと早いよ。飛行機代は幾ら?折半しよう。」
「いや、払わせてよ。ずっとお世話になりっぱなしだから、これくらいは。」
「そうか?じゃあ遠慮なくお言葉に甘えて。ああ、荷物をホテルに置きっぱなしだろ?僕が代わりに取って来よう。」
「それは大丈夫だ。フェイトン君もある程度の荷造りは済んでいると思う。2人部屋と言っていたし。荷物を郵送して貰うよ。とりあえずアテネのアパート宛で。」
マリアンは驚いて聞き返した。
「君のアパート?まだ借りていたのか?」
「ああ。契約解除するはずが、住まないなら極割安で貸してくれると引き下がられて。古くて治安も良くないから、借り手が無いらしい。尤も私も荷物が多いから、悪い提案ではないし。」
気まずそうに答えるペレウスへ、マリアンは更に訊ねた。
「ふーん。でも荷物だけなら、実家に置かせて貰えば?同じ市内なんだから。」
フィデリオ夫妻は80年代初頭までに事業拠点を故郷テッサロニキからアテネに移した。加えて10年ほど前からは、海運業に加えてアテネのマリンスポーツ関係事業や外国人向け観光事業に着手している。2人は海外赴任する長男の荷物を快く預かってくれるに違いないが。
「まあ、何というか、荷物を置くのに気が引ける程度の関係ってこと。」
「なるほどね、僕と一緒というわけか。」
「一緒ってことは無いだろ、コブリーツさんと君は。」
「隣の畑はよく見えるか。僕は基本的に信用が無いからね、現に父は大事な本屋を僕に継がせなかった。」
「それは君が別の道を歩んだだけだよ。」
フィデリオ夫妻も息子たちに事業を継承させることを諦めている。尤も自分が後を継いだとして、両親と同じように手腕を振るえるとは思えない。そこでふと、ペレウスは昨日から抱いてきた疑問を思い出した。
「あれ、じゃあエレナさんは元々コブリーツさんの下で働いていたのか?」
「いや。エレナさんがいたのは先々代の時。僕は良く知らないが、父の先輩教師だったらしい。20年位前、父が店を継いで家の1階に移転したんだ。『リュブリャニツァ』の刊行を始めたのも同じ時だよ。」
「てっきりコブリーツさんが起業したのかと思っていた。」
「いや。でも輸入書籍の品揃えを拡充したのは父だよ。なんだか彼女に話を聴きたくて仕方ないって感じだな。」
マリアンはケロリとした表情で答えた。
「ただ聞いただけ。……というか、やっぱり「ズヴェスダ」と知人だったじゃないか。」
「それは本当に悪かったよ。悪意を持って隠したつもりはない。エレナさんは彼の死後かなり落ち込んでいたから、彼女の前で思い出話はしないと決めたんだ。僕らが基本的に母の話題を出さないようにね。でも君が彼女の存在に辿り着いたら、ちゃんと話すつもりだった。本当だよ。」
つまり故夫人の話を聴かないのは、父子が彼女の死を大いに悲しんでいるからだ。その事実はペレウスを何となく気落ちさせた。
「いや、別にいいんだ。理由があるなら。私こそ気を遣わせてしまって申し訳ない。」
結局3人は明朝トリエステに向けて出発し、夕方の飛行機に搭乗することにした。マリアンはまるで本心ではそう提案したくないとでも言わんばかりに、気まずそうな口調で言訊ねた。
「なあ、弟さんに相談するのは、もう少し様子を見てからの方がよくないか?」
「私も進んで相談したいわけじゃないよ。だが君は様子がおかしいよな。まさか何か―――。」
言葉の続きはマリアンにかき消された。
「いやいや。ただ繰り返しになるが、委員会が絶対に信用できるのか、僕には疑問なんだ。君の前で言うのも気が引けるけど。」
「それはよく分かってる。君が不信感を持つのも尤もだ。でも偽訃報を送って来た外務省に比べればまだましだよ。」
マリアンの釈然としない表情を無視して、ペレウスは予約を完了させた。
コブリーツ邸の客間は玄関を挟んで居間の反対側に位置する。フェイトンは質素だが材質の良い椅子に腰かけて、一刻も早く祖父を弔わなければと焦っていた。だが現状打開の方法は、漠然とすら閃かない。彼は再び溢れそうになる涙をハンカチで強く拭った。彼にとって祖父はたった1人の家族だ。それは祖父にとっても同じだった。ペレウスの言葉が正しいとして、祖父は何故行き先を誤魔化したのだろう。彼はふと電子アルバムが電池切れだと思い出した。
「アルバム」とは祖父がそう呼ぶだけで、取り扱い説明書もないこの機械は、液晶画面で操作できる点でタブレットパソコンに似ている。主要機能は電子ファイルの送受信のみだが、驚嘆すべきはその通信能力だ。理屈は分からないものの、これまで携帯電話が圏外になるような場所でも、この機械は支障なく動作してきたのだ。祖父は工学部の知人による試作品だと説明したが、フェイトンは性能の高さを知るにつれその言葉を訝しんだ。
多少充電できたところでアルバムを起動すると、彼は思わず飛び起きた。そこには「新着ファイル」の文字が表示されていたのだ。この機械にファイルを送れるのは祖父と自分だけ、送信時刻には北京時間で昨日の22時3分とある。フェイトンは散々逡巡した挙句、彼は不意に開封ボタンを押してしまった。
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