第10話 殺人事件と追跡者
幸いロビーにはフロント1人だけだ。ペレウスは彼に紙幣を差し出し、このアジア人について口外しないで欲しいと頼んだ。相手は疑惑の表情も見せず紙幣を受け取る。その自然な応対に面食らいつつ、2人はエレベーターに乗って5階のボタンを押した。
フェイトンは震える手でくしゃくしゃになったプリントを差し出した。それは香港系新聞の速報で、死因は「刺殺による失血死」とある。
「これは……。何ということだ、本当に残念だよ。昨日君が言っていた尾行だが、ここに来るまではどうだった?」
「人がいる気配はありませんでした。多分。」
フェイトンは完全に顔色を失っている。
「そうか……。もう少し明るくなったら移動しよう。ここは人の出入りが激しい。」
「移動?何処へです……?」
「コブリーツさんの所、かな。中国大使館でもいいが、偽の訃報が気がかりだし。」
フェイトンは少し思案して、コブリーツ邸に行くことを了解した。
「あの訃報と無関係とは思えません。祖父を…殺害したのは、外務省の関係者なのでしょうか?」
「今の段階じゃ何とも言えないが、何か心当たりがあるのかな?」
「いいえ、本当にわかりません。元々祖父は出張が多い方ですが、最近は大体北京の自宅にいると聞いていました。先月委員会の用事でアテネに滞在した以外は……。」
フェイトンはそう説明しつつ俄かに涙ぐんだので、ペレウスは慌てて言った。
「そうか。ちょっと待ってて、コブリーツさんに電話するよ。」
ペレウスはマリアンの携帯にかけた。アジア人青年の正体と今の状況を簡単に述べると、マリアンはホテルまで迎えに来ると言う。
「20分弱で着くそうだ。」
「すみません、ありがとうございます。」
ペレウスは電気ケトルの電源を入れ、自分の荷物を整理し始めた。フェイトンは窓際に身を寄せてカーテンを半分開き、まだ雨がしとしと降る薄明の市街を眺めた。昨日より一段と薄暗い風景は、正しく絵に描いたような光景である。だが手ぶらでホテルから出てきた人影を見ると、彼は仰天してペレウスを呼んだ。
「フィデリオさん!下の彼、僕を追い駆けていた人です……!」
ペレウスは結露を拭ってその人物を見下ろした。雲の切れ間から差し込む朝日を反射する極めて白い肌と漆黒の髪は、ギリシャ人の目にも奇異に映る。
すると突然、その人物がこちらを振り向いたので、2人は思わず窓辺から後ずさった。ほぼ同時に備え付け電話の音が響く。ペレウスは動揺しながら受話器を取って安堵した。マリアンからだ。
「ペレウスか?近くに着いたよ。……え、例の不審者が外にいるだって?」
ペレウスはホテルの外にいる男について話した。
「ああ、僕にも見えた。何というか、東アジア系の男だろ?でも1人じゃないみたいだぞ。』
「そうなのか?」
フェイトンは少なくとも3日間は彼らに追い付かれなかった。あの男たちが今ここに来たのは、昨日自分が彼を連れだしてしまったからに違い無い。
「彼らと入口の間に停めるから、君たち思い切って出て来いよ。」
「だけど……。」
「そこに居ても仕方ないさ。それに車なら追い付かれないよ。幸い雨も酷くなりそうだし。」
2人は荷物を手に、ホテルを出てマリアンの車に駆け込んだ。案の定、ペレウスが助手席のドアを閉めた時には、声高な呼び声と共に先ほどの人影が走ってくるのが見えた。
「マリアン!!」
「分かってるよ、他に誰もいないんだから。僕はアジア系の言語に疎いが、どうやら僕らに向かって叫んでいるらしい。」
「ちょっ、悠長だな君は……。」
「そうでもない。僕の家までは近すぎるから、少し遠回りしても構わないよね。」
車は人気のない道路を急発進した。追手は追いつかないと分かると、どこからか走り寄って来た灰色のバンに乗ったらしい。勢いを増した雨と道路の両側に並ぶ車で見通しは最悪なのに、マリアンはスピードを緩める様子が全く無い。
「スピード出し過ぎだって!危ないだろ!!」
ペレウスは思わずアシストグリップを掴んで言った。
「大丈夫大丈夫。フェイトン君、後ろの写真を撮れるかな?車のナンバーとか。」
フェイトンは雨粒が打ち付ける窓ガラスに顔を近づけ、大分後方に置いていかれたバンに目を凝らしナンバーの一部を読み上げた。
「この辺のナンバーなのは確かだ。現地人には見えなかったけど。」
フェイトンは何枚か写真を撮り、再度運転席の人物に目を凝らしたが、やはり顔までは判別できない。
「恐らく中国系だと思います。さっきの呼び声が普通話だったので。でも彼らがこんな風に追い駆けて来たのは初めてです。まさか祖父と関係があるのかな……。」
マリアンは手をひらひらさせて答えた。
「まだ分からないよ。あまり悪い方に考えない方が良い。でも委員会と北京本部の関係者が2人も亡くなったことになるのか。」
「相次いで?」
「リゲル本部長さ。僕は君の前任者について考えていたんだ。何か関係があると思わないか?」
「彼女は病死だよ。」
ペレウスはむっとした顔で否定したが、マリアンの思い付きを否定する根拠があるわけでは無い。
マリアンの車は一旦南下して、リュブリャナ城下を通るトンネルを北上した。反時計回りに市街を一周したことになる。リュブリャニツァ川に架かる「竜の橋」が見えるころには、雨量も交通量も増えて、灰色のバンは完全に姿を消した。フェイトンはずっと後方を注視していたが、僅かに安堵の息を吐いた。
「さっきの車はいないみたいです。」
「ほらね、楽勝楽勝。じゃあ僕の家に行こう。」
コブリーツ家の前は遊歩道のため、マリアンは大通との交差点に近い駐車場を借りている。彼はそこに車を停めると、シャッターを閉めて2人を玄関へ案内した。コブリーツ氏が心配そうな顔で出迎えた。
「マリアン!お前の携帯電話はおもちゃなのか?何度もかけたのに、全く。」
時計を見ると、既に8時を回っている。マリアンは携帯を開いて間抜けた声を出した。
「本当だ、着信が沢山ある!すみません父さん。詳しくは中で。2人もどうぞ。」
悪びれる様子も無い息子に2、3苦言すると、コブリーツ氏はフェイトンに言った。
「フェイトン・イエ君、先日はどうも失礼しましたな。おじい様の話は儂もニュースで見たよ。本当にお気の毒なことだ。」
「お気遣いありがとうございます。僕の方こそ、突然申し訳ありません。」
「いやいや。ここは一先ず安全と思ってくれていい。とにかく今の状況について、詳しく話してくれたまえ。」
コブリーツ氏は非常に丁寧で、且つ威容を感じさせる物腰で諭した。その教育者然とした姿はフェイトンに祖父を思い起こさせたので、彼は再び涙を堪えなければならなかった。
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