第9話 中国の不思議な留学生
コブリーツ氏によるとイエの背丈は彼とほぼ同じらしい。レスリー・チャンに似ているかはともかく、身長170センチ程のその人物に、ペレウスは女性の制止の声を無視して駆け寄った。
「失礼、君がフェイトン・イエ君ですか?」
青年はぎくりとしてペレウスの顔を見上げた。そして後を追ってきた女性と小声で2,3会話し、彼女が溜息をついてフロントへ戻るのを見届けると、流暢かつ丁寧な英語で訊ねた。
「僕に忘れ物を届けに来てくれた方だそうですね、ありがとうございます。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
印象良く振舞おうとする外国人らしい言葉の中に、強い警戒心を察知したペレウスは、自分の名刺を差し出して言った。
「私はペレウス・フィデリオと言います。君が先日お会いしたコブリーツさんの知人で、国際歴史記述調査共有委員会の職員です。コブリーツさんから、君がミラ博士の記事を調べていると聞きました。お時間のある時に、少しお話を伺えませんか?……突然で申し訳ないのですが。」
ペレウスは青年が抱えたバックパックを見て付け加えた。フェイトンは驚きの表情を浮かべた。
「え、そうなのですか?僕は―――。いや、鞄はいつも持ち歩いているだけです。2人部屋なので。もし差し支えなければ、僕は今からでも構いません。ここはちょっと賑やかすぎるので、近くの喫茶店に行きましょうか。」
ペレウスが頷くと、フェイトンは彼を伴って会館を出た。2人はリュブリャニツァ川沿いにある若者向けのカフェに入った。この人物が職員なのは疑いようも無い。あの上級委員と同じ姓を名乗るこの男性は、改正条約会見で司会進行をしていた人だ。
2人が一番奥のテーブルに着くと、フェイトンは頭の中に浮かんだ話を一息で話し出した。
「あなたはもしかして、以前ウィーン本部に所属していた、上級委員のイレクトロ・フィデリオさんのお兄様ではありませんか?ご存じないかもしれませんが、祖父と僕は去年ロンドンで彼と彼の奥様、そしてモデラ委員長にお会いしたのです。祖父はモデラ委員長と懇意にしていただいているので。」
ペレウスは馴染深い名前が相手の口から出たことに驚いた。
「じゃあ君は曄蔚文名誉委員長のお孫さんなのですか?失礼しました、お孫さんの名前は存知なかったもので。」
「大丈夫、分からなくて当然です。よくある名前ですから。お恥ずかしい話、あの時祖父は僕の留学準備を手伝うためにロンドンに来ていました。両親が亡くなった後、祖父が独りで僕を養育してくれたので。」
フェイトンは漢字とアルファベットで名前を書いて説明した。ペレウスは話を聴きながら、初対面の青年に淡々と両親の死を説明させたことを気まずく感じた。
「そうだったのか、申し訳ない。君の話は弟から教えてもらいました。」
「イレクトロさんも同じ大学のキャンパスなので、色々お話を伺いました。」
「弟は放っておくと永遠に話し続けるから大変だったでしょう。それはともかく、なぜミラ博士について調べているのか教えて貰えるだろうか?」
「弟さんが仰っていたのです。貴方がミラ博士に関する記事を発見したと。僕は9月からアテネ本部でインターンに参加するので、この機会に調べてみようと思って。」
ペレウスは安堵しつつ、イレクの軽口振りに溜息を吐いた。対するフェイトンは、自分の行動が相手の気に障ったのではと動揺し、旅が順調に進まなかったことを強調して言い加えた。
「ですが結局、これといった収穫はありません。やはり無謀な挑戦でした。」
「そんなことは無いよ。因みにコブリーツ邸以外にはどこかに行ったのかな。」
「とりあえず国立大学図書館に。『リュブリャニツァ』のような地元の独立関係雑誌で、関係ありそうな部分を探そうかと。明後日にはこの街を出るので、詳しい内容はアテネに到着してから確認するつもりです。」
「そうか。……ああそうだ、もしよければその時に作った目録を貸そうか。コピーするなり写真を撮るなりしてくれたら助かる。尤も参考になるかは分からないが。」
「本当ですか?ありがとうございます!ご迷惑をおかけしてしまいすみません。」
フェイトンは努めて明るい調子で彼に謝意を示した。そして相手が外見に反して親身だと察した彼は、ふと自分の悩みを打ち明ける気になった。
「初対面のフィデリオさんに申し上げるのも憚られるのですが、実はここ数日不可解な出来事が……。」
フェイトンの話に、ペレウスは首を傾げざるを得なかった。彼は鉄道を乗換ええてリュブリャナに来たが、その間何度も同じアジア系の集団を見かけた。どうやら彼は彼らにずっと尾行されているらしい。そしてウィーンの宿泊先でメールを確認すると、ロンドンの在英中国大使館からの依頼で、現在の滞在先を記して至急返信せよとのメールが届いていた。フェイトンは慌てて返信したが、その後何も返信が無かったという。
すると昨日中国外務省から、祖父曄蔚文が死去したため至急連絡せよという内容のメールが送られてきた。彼は仰天して北京にある祖父の自宅に国際電話をかけたが、祖父本人は何事もなく電話に出たという。不気味に思ったフェイトンは、国際会館のスタッフに自分を訪ねる人がいても取り合わないよう頼んだのだ。
「それは気味の悪い話だな。中国大使館や外務省と名乗ったのか。まさか偽物のアドレスということはないよね。」
「何度も確かめましたが間違いありません。外務省のアドレスから発信された事は間違いないと思います。」
「リュブリャナに来てからも、その集団を見かけたのかな。」
ペレウスはこの地ですれ違ったアジア人の姿を思い出つつ訊ねた。
「駅で見かけてから、ここ2日はまだ……。尤も僕の勘違いだとは思いますが……。」
「勘違いならそれに越したことは無いが、曄蔚文博士に関するメールは不謹慎としか言いようがない。単なる悪戯ならいいけど。君は要人の孫、成人とはいえ誘拐などのターゲットにされる可能性は十分あるから。」
2人は店を出ると、来た道を戻り始めた。ペレウスは会館が見える交差点で止まり、自分の名刺と滞在先のホテルを記した紙片を相手に手渡した。
「今日はありがとう。突然のことで申し訳なかったね。私はこのホテルに宿泊しているから、目録も含め、何かあれば連絡して欲しい。」
「ありがとうございます。」
ペレウスはフェイトンと別れると、ホテルに向かいながら今後の予定を整理した。コブリーツ氏の話によれば、ズヴェスダは外国人だ。80年代の外国人滞在者に関する資料があるか、市役所に尋ねよう。加えてエレナに関しても情報が欲しい所だ。
一方ペレウスは、フェイトンの話を彼の勘違いだと思っていた。だが過剰に真剣な様子が気がかりでもあった。アジア系集団、中国外交部のアドレス、そして曄蔚文の偽訃報……。ふと道路の向かい側に目を遣ると、3、4人のアジア系男性が、立ち止まって会話しているのが見える。ペレウスは何となく、その場を足早に通り過ぎることにした。
果たしてその夜、曄蔚文は北京の自宅で死去したのだ。委員会発足を主導したスロヴェニアでは、「提唱」者の死も他国に先んじて大々的に報じられた。早朝フロントからの電話でペレウスがロビーに出向くと、顔面蒼白のフェイトンが立ち尽くしていた。
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