第8話 老いた星辰

 ペレウスとマリアンは居間のコブリーツ氏にコーヒーを運んだ。

「お食事、とても美味しかったです。アンナさんに直接お礼が言えないのは残念ですが。」

「伝えておくよ。妹も喜ぶだろう。」

深く腰掛けたコブリーツは、ギリシャ人にもソファを勧めて、つい先日打ち明ける決心がついた秘密を話し始めた。

「実は「ズヴェスダ」に関して、2つほど君の耳に入れたいことがある。故意に隠していたわけでは無い、と言わせてくれ。まず1つ、儂は実際彼と親交があった。言わなかったのは、君がどうこうではなく、儂がある女性を勝手に気遣っただけのことだが。……儂は1986年に、「ミラ博士の思い出」の原稿を、確かに彼から直接受け取った。当時内容の信憑性は確かめようも無かった。儂があの記事を掲載したのは、偏にズヴェスダ個人への信頼に因る。」

マリアンとペレウスは黙って彼の話に耳を傾けた。

「「ズヴェスダ」はもちろんペンネームだ。本名はブラーエだったかな。大人しく変わった奴だったよ。酒場で本を読み耽るような。スロヴェニア語が解らないらしく、最初は何処かの亡命者かと。……いや、とにかく、ある日彼は下の本屋にやって来た。ドイツ語はできると言うので、話してみると、大変理知的で思索的な人間だったというわけさ。少なくともスロヴェニア人ではないが、独立を妨げる体制側の人間でもない。それが当時、儂らが彼に下した評価だった。」

 ズヴェスダはドイツ語以外にも、チェコ語・ハンガリー語・英語・ギリシャ語が堪能なのに加えて、イタリア語とフランス語の読み書きも出来たのだという。

「ギリシャ語も、ですか?」

マリアンが説明した。

「そうだよ、すごいだろ?でもどこでギリシャ語を学んだかは聞いてない。英語とドイツ語みたいに、系統が同じ言語を複数話せても、正直別に珍しい事じゃない。でも彼は全く共通点の無い言語を難なく使いこなした。もちろんスロヴェニア語も習得したんだ。正しく語学の天才だよ。」

 ある時ズヴェスダから、ドイツ語ができる助手を探していると聞いたコブリーツ氏は、本屋で働いていたエレナという女性を紹介した。彼は1987年に死去したが、それまでの20年弱は「竜の橋」近くのアパートに住んでいて、眼が不自由になってからは彼女が身辺の世話に当たったという。

「彼女を紹介したのは1982年頃かな。儂はその年に妻を喪ってから、倅の世話も碌にできなかった。それを見かねた2人は、時々マリアンを預かってくれたのじゃ。」

コブリーツ氏は壁に掛かった家族写真に目を遣った。彼は故コブリーツ夫人の話題を進んで出さないが、彼女が如何なる存在だったかは、埃一つない額縁に収まった彼女の写真を見れば瞭然である。

マリアンは気まずそうに言った。

「恥ずかしながら、僕はよく覚えていないんだ。エレナさんとはその後も会ったけど、ズヴェスダさんは―――。彼は大抵外出しているか、自室で仕事をしていたから。」

ペレウスはコブリーツ氏の許可を得て彼女の名前をメモし、続けてコブリーツ氏に訊ねた。

「彼女は今もリュブリャナにお住まいなのですか?」

「今は故郷で小さなロッジを営んでおる。サヴァ川は分かるよな?あれを遡るとイェセニツェという町があるが、そこから更に北西に進んだ山間の町さ。私ら以上にズヴェスダのことを知っているのは間違いないが、彼女は明るく見えて実際非常に繊細な性格でな。あれでよく接客業が務まるものだ。……君に隠していたのは意地が悪いと思われて仕方ない。だが私もマリアンも、ペレウス君に対し、君自身が想像する以上の好感を抱いておる。だから君が不用意に彼女を圧倒してしまうのは避けたかった。」

「お気になさらないでください。それにお話しいただいて嬉しかったです。私から彼女に不用意に接触することの無いよう努力します。」

コブリーツ氏は努力という言葉に思わず苦笑した。

「よろしく頼むよ。そしてもう1つ、今の話をしたのは、これを訊ねたかったからだ。2日前、君と同じくズヴェスダの記事について知りたいと、中国人の若者が私に会いに来た。君は何か知っているか?」

「いえ、初めて知りました。アジア人ですか?」

コブリーツ氏は神妙な顔で続けた。

「ああ。彼は留学生で、名前は「フェイトン・イエ」。ほら、このメールが市役所経由で届いたのさ。」

コブリーツ氏はプリントと名刺を取り出した。名刺にはオクスフォード某校のロゴと氏名、連絡先と滞在先が記されている。メールには自分が地理学専攻の大学院生で、ミラ博士について調べていること、そのため「ズヴェスダ」の記事について訊ねたい旨が、スロヴェニア語と英語とで併記されていた。自分以外にも記事に辿り着いた人物がいたことに、ペレウスは素直に驚いた。

「なるほど……。彼は何を訊ねに来たのでしょう?」

「それが良く分からんのだ。ズヴェスダについて聞きたいと言いつつ、「ズヴェスダ」が「星」を意味することも知らなかった。加えてアジア人と面と向かって話すのは初めてで、こちらも妙に警戒してな。近くのレストランに来て貰った。今週までは近くのユースホステルに泊っているらしい。本人の話によると。」

マリアンは父親に続けて言った。

「僕は父をレストランへ迎えに行くときちらりと見たが、レスリー・チャンぽかったような。髪型とかね。香港の映画俳優だよ。まあ特別東アジア系の顔の区別がつくわけでは無いのだけど。」

「映画には詳しくないが、レスリー・チャンなら知っているよ。弟がファンで、亡くなったニュースを見て落胆していたから。」

「弟さんが?面識は無いがちょっと意外。」

マリアンの言葉にペレウスは肩を竦めた。

「私も。まあ趣味があるのは結構なことさ。」

 ペレウスはその留学生と連絡を取るつもりだと伝えた。彼はその中国人に興味を抱きつつ、警戒もしていた。彼はどうやってズヴェスダまで辿り着いたのだろう。

帰り際、ペレウスは丁重にお礼を述べ、今度こそアテネへ招待したいと言い添えた。彼にとって父子は、単なるリュブリャナでの足がかりではない。ペレウスの陰気で自虐的な本質を知りつつも、歓迎し良好な関係を築こうとしてくれる2人、彼の年齢になるとそういう存在は得難いのだ。

 翌朝ペレウスは、件の留学生が滞在しているという宿泊施設に向かった。そこはコブリーツ邸から精々数百メートルの距離で、バーやクラブの並ぶ一角に埋もれるように立っている。外見は如何にもバックパッカー向けで、一見宿泊施設とはわからない。  

 彼は父子から拝借した名刺をフロントの女性に見せて、「フェイトン・イエ」の忘れ物を持ってきたので取り次いで欲しいと伝えた、だが彼女は怪訝な表情で、荷物は自分が預かると素っ気なく答えた。ペレウスは取り付く島もない応対に困惑したが、丁度その時彼女の目線で、アジア系の青年が階段を降りてくるのに気付いた。



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