第7話 コブリーツ父子

 その後話題は、来月7日の改正条約締結に移った。コブリーツ氏は大国の加盟によって、委員会でスロヴェニアが占める役割の縮小を案じているようだ。

「今の話ではないが、大国の影響というのは馬鹿にならん。調印式典が終われば、スロヴェニアの位置づけも変化せざるを得まい。」

マリアンが父の後に続けた。

「新聞のインタビューで、ズメルノスト本部長が改正条約を滅茶苦茶に批判していたな。実際僕の同僚にも、批判的な立場を取る人は結構いるんだ。」

ペレウスは現スロヴェニア本部長の姿を思い浮かべた。コブリーツ氏は苦笑ながら言った。

「儂も20日の会見を見た時、正直奇妙に感じたぞ。モデラ委員長はロシアの批准拒否をまるで無視したじゃないか。改正条約についてだけなら、儂はロシアの指摘に一理あると思うが。」

 ロシアの主張は主に2点、至って明快である。まず1つに、経済軍事大国が続々と加入すれば、否応なく彼らの意向が運営に影響し、元来非同盟諸国やミドルパワーを中心としてきた委員会の勢力バランスに支障を来たすという指摘である。更にロシアは、以前より委員会はあくまで曄蔚文の「提唱」に依拠する機関に過ぎず、真の意味でミラ博士の「提言」を理解し実践したのは、「ソ連型委員会」だと主張してきた。そして今回、ロシアは博士の理念を守るために「必要な措置を取る」と宣言したのだ。

 マリアンは怪訝な顔で言った。

「つまり「ソ連型委員会」の復活だろ?今度は歴史的態度の「陣取り」が始まるのか。……ロシアはもちろんだが、僕は寧ろ中国が正式加盟する方が気になるよ。この王朝の正史が何とかって報道を見て思ったんだ。何というか「記述された過去」への認識が違うと思ったな。まあ僕は中国と台湾が抱える問題を理解できているわけでは無いけど。でも実際、委員会の基礎理念を発表した2人が中国人というのも、なるべくしてなったと思わないこともない。」

 中国は委員会の中でも特異な加盟国だ。「提唱」者の出身国として、当時の中国首脳陣は、1980年代初頭に委員会加盟を発表した。しかし国内からは内政干渉を招くと強烈な批判が巻き起こった。結果中国は唯一の「準加盟国」に収まり、政府が容認した「総論」の内容のみ国内に適用されることになった。今回正式加盟するという事は、相当な転換点があったに違いない。

 コブリーツ氏が神妙そうに言った。

「当然北京本部長たる君の責任も増大するのだな。前任者は、リゲルだったか?彼女が亡くなったとは知らなかった。」

「私も驚きました。死因は過労だと言う人も。リゲル本部長も中国の専門家ではありませんが、それ以前に委員会でも指折りの実力者だったので、ますます私が後任の理由がわかりません。私を推薦したのは、彼女の前任者だった中国人上級委員なのですが―――。」


 食事が終わると、コブリーツ氏は先に居間へ戻り、マリアンとペレウスは台所で鍋や皿を片付けた。

「北京か、まあ僕には縁が無い場所だな。そういえば次の五輪の開催地だよね。僕もこの夏アテネに行きたいと思ったんだが、飛行機もホテルも高すぎて断念したよ。」

「そうなのか?でも正直言って君、嬉々としてスポーツ観戦するタイプに見えないんだけど。」

「違うよ、君にアテネの遺跡を案内させようと思ったんだ。でも予算オーバーで早々に諦めて、じゃあ冬にするかと思ったら、突然中国赴任って言うじゃないか。あーあ、がっかりだなあ。」

「私のアパートでよければ、宿泊費分は節約できたのに。でもそういう目的なら、今は避けるのが正解だよ。人が多すぎて本当うんざりするし、揃って迷惑な奴ばかりだ。」

「つまり観客とトラブルになったと。」

「まあ色々。弟なんか、父から借りたクルーザーに落書きされたとかで、私まで掃除を手伝わされた。こんなこと一度も無かったのに。」

「それはご愁傷様。君らの細やかな労働も、渾沌たるアテネの整美に貢献したはずだよ!」

「腹立つ言い方だなあ。もしマリアンがアテネに来てれば、作業も3分の1で済んだのに。」

「僕が手伝う前提かよ。というか、君は弟さんを煙たがる割に、そんな時には手伝ってあげるじゃないか。色々言いつつ優しいお兄ちゃんだな。」

マリアンは食器を片付けながら言った。

「別に煙たがってないよ。お互い関心が無いだけ。」

「寂しいこと言わないで、お兄ちゃん~。」

「じゃあ自称弟君に、残りの食器全部洗ってもらおうかな。お兄ちゃんはコーヒーを淹れるから。」

「なんでだ!」

ペレウスは棚からコーヒードリッパーを取り出した。マリアンは明るく面倒見の良い反面、言葉の端々に戯言やからかいを込め、その都度厳格な父親から注意されていた。彼はペレウスと同い年で、今は地元大学で言語学の非常勤講師をする傍ら、種々の事務翻訳で生計を立てている。本人曰くその気楽さこそが重要らしいが、善良で単純な市民を自負する父親にしてみれば、息子の軽薄で信念に乏しく見える人生的態度は嘆きの種だった。


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