第12話 于焔
于焔たちの任務は、曄子寧の追跡と動向の報告である。元北京本部長でもある楊何業は、
だが于焔たちは順調とは程遠かった。ウィーン駅では早々に存在を感づかれ、スロヴェニア駅では彼の姿を完全に見失ってしまった。仕方なく4人で分担して町を捜索していると、幸運なことに昨日の昼偶然川沿いの道で彼を発見できた。失態を重ねないで済むと一息ついたところへ、曄蔚文の訃報が飛び込んできたのだ。
そもそもこの任務には奇妙な点が多い。まず、楊何業も李奇も曄子寧に直接連絡を取った様子がない。彼はアテネ本部のインターン参加者、連絡はすぐに取れる。疑惑があるならあるなりに、適当な理由をつけて探りを入れればいいものを。加えてその疑惑の重大さである。幾ら提唱者の孫の追尾とはいえ、合理的な上司2人にしては行動が余りにも回りくどい。楊何業に至っては直属の部下全員を追跡班に動員している。改正条約調印式典を控えた今、2人とも猫の手も借りたいほど働き詰めなのに。
極めつけは博士の殺人事件だ。追跡任務と無関係とは思えないが、今持つ情報から事態の全体像を描き出すのは難しい。だから彼らの相次ぐ不手際は、不本意ながら一応仕方のないことではあった。何をどうすればいいか戸惑っているのだ。
于焔はフィデリオの件を李奇にメールすると、仲間の2人と車を「竜の橋」近くに残し、残りの1人と共に行動拠点のホテルへ引き返した。部屋にはリュブリャナ出身のデジューが到着していた。彼女はスロヴェニア本部の若手職員で、追跡組の
于焔は妖艶ともいえる表情を浮かべ、癖の強い英語で挨拶した。
「デジューさんですね、僕は于焔といいます。助っ人がきれいな方で何よりです。僕意外は皆むさ苦しい人ばかりだから、てっきりまたゴリラみたいな方が来てくださると思っていました。」
デジューは馬鹿げた挨拶に苦笑した。彼女はスロヴェニア本部には珍しい楊何業支持者で、追跡の子細を訊ねることなく応援要請を快諾してくれたという。
「同僚の方々をそんな風に言っていいのですか?」
「いやいや、僕は同僚じゃありません。僕は李奇代表の補佐です。」
「中国代表の?ああ、だから貴方だけ臨時職員とあったのですね。」
「ええ。李奇をご存知ですか?」
「もちろんです。お目にかかったことはありませんが、「提唱」の共同執筆者のご子息ですので。」
デジューは明朗かつ怜悧に答えた。
「そうそう。彼は元もと外務省の人間ですが、父親が李魁博士という理由で代表に。おかげさまで僕も糊口を凌げています。」
またも間抜けた調子で言う于焔に、デジューはリュブリャナ市街の地図を手渡した。
「ここが例のホテルです。どの方角に行ったか分かりますか?」
「そうですねえ……、やや大きい道に出た後、南に行って?トンネルで見失いました。」
「トンネルですか?じゃあリュブリャナ城の下を通って、市街地の北側に戻って来たのでしょう。その先にある竜の橋を渡ったかまでは分かりませんよね。」
「その通りです、不甲斐ない。僕ら以外の2人は竜の橋に置いてきました。観光スポットなのでアジア人も目立たないかと思って。……そうだ、メールで送った車のナンバーはどうでした?」
デジューは困惑した表情で言った。
「それが、番号自体が登録されていないそうです。」
「本当ですか?つまり僕が見間違えたのかな。」
だが物理的に読めないならともかく、于焔は単純な字列を読み違える人間ではないと自負している。
「まさか何かのトラブルに巻き込まれたとか……?曄蔚文博士の事件もあったことですし。」
デジューの問いに、于焔は両手を振って否定した。
「いやいや、それはないと思います。そんな大事なら、すぐさま警察に通報するはずです。楊何業と李奇の些細な事情ですよ。デジューさんもそうお聞きになったでしょう?」
「ええ、まあ……。」
于焔は地図を眺めて曄子寧の滞在目的を考えた。曄子寧の専門は国際都市交通。北京とヨーロッパを陸路で結ぶ壮大な構想である。リュブリャナは交通の要衝だから、研究目的の滞在もありえなくはない。だが彼は同様に重要性が高いパリやウィーンをほぼ素通りしている。
「彼を探し出すには、やはりこの街に立ち寄った目的が分からないと。ここでしかできないことがあったはずです。楊何業と李奇が揃って捜索している以上、委員会に関係あるのは確かでしょう。曄蔚文や委員会と関係がある人、この街で誰か思い当たりますか?」
「委員会ならスロヴェニア本部の人間でしょうか。でも今朝確認しましたが、フェイトンさんが建物に出入りした記録はありません。後はモチュア博士の記念館とか?」
プレシェレン広場の東には、初代委員長モチュア博士の生家を改装した記念館がある。だがそこはあくまで家屋の保存が目的で、委員会関連資料はもちろん研究業績も殆ど収蔵されていない。彼女は暫く思案して、ふとある話題を思い出した。
「……そう言えば、関係はありませんが、暫く前にこの街でミラ博士に関する資料が発見されたとか。」
地図に視線を落としていた于焔は、即座に顔を挙げて聞き返した。
「ミラ博士?」
もう1人もデジューを注視している。彼女は慌てて付け加えた。
「あ、いいえ、詳しくは知りません。」
「初耳だなあ。ミラ博士の資料って本当に少ないですよね。でもリュブリャナにそんな資料があるとは聞いたことがありません。」
「未発見資料です。私が聞いたところでは、同僚何人かでその資料を探そうという話にはなったとか。でも結局見つからなかったそうです……。」
「へえ、興味深い話ですね。でも未発見資料の噂ってどうやって発生するんだろう。いつ頃お聞きになったのです?」
「去年の4月、私が就職した時に先輩職員から聞きました。電話で聞いてみましょうか?」
「ぜひ、お願いします。噂の元も分かればいいな。」
于焔は再び考えた。ミラ博士の記事か。フィデリオは記録保管室の職員だから、博士に関する資料を収集しても不自然ではない。だが事実、記事は「発見されなかった」。そんな資料を離任間際のペレウスが捜すだろうか?
だが于焔には、記事が全くの作り話とも思えなかった。博士に所縁あるバルセロナやミュンヘンではなく、委員会と関わり深いリュブリャナというのも妙に気になる。もし本当に記事が実在していたら、それは資料環境に恵まれたオクスフォードの学生や調査共有委員会の職員でも、実際に足を運ばなければならない場所にあるのだ。」
デジューは通話相手の返事を聞いて落胆を隠さなかった。
「本当に風の噂だったみたいで、噂の元も分からないそうです。あまり本気にしないよう釘を刺されてしまいました。でも一応他の同僚にも聞いてみますね。」
「すみません、ありがとうございます。」
于焔は自分にはお手上げと言わんばかりにソファへ踏ん反り返り、もう1人のメンバーと早口の母語で喋った。相手が「竜の橋」待機組と連絡を取りに行くのを見届けると、于焔は再度デジューに向き直って訊ねた。
「フェイトン君の宿泊先周辺で、地元の資料が沢山所蔵されている場所と言えばどこですか?」
「郷土資料館、国立大学図書館、リュブリャナ博物館、あとはリュブリャナ大学文学部でしょうか。」
于焔は彼女の耳に顔を寄せて囁いた。
「……その4か所で、こういう人物が資料を閲覧したか確認できます?アテネ本部の職員ですが、そう名乗ってないかも。」
差し出された手帳には、ペレウス・フィデリオと書かれている。デジューは困惑した。
「どうでしょう。完全に個人情報ですし、そもそも入館記録をどこまで保存しているか分かりません。」
「確かに。でも何とかなりませんか?」
「資料館と博物館には友人がいるので、こっそり調べて貰えるか聞いてみます。難しいと思いますが。」
「ありがとうございます。やっぱり地元の方がいると心強いなあ。」
デジューが電話を掛けると、資料館の受付事務を担当する友人は、さほど時間を要さずして返事を寄越した。戻って来た仲間には特段説明もせず、于焔はさもそれらが曄子寧の記録であるように言った。
「独立前後のリュブリャナ関連資料を閲覧していたのか。一番古い記録は2002年10月、閲覧したのはリュブリャニ……?」
「『リュブリャニツァ』です。あれ?もしかして、スロヴェニア語が読めるのですか?」
「いや適当です。この雑誌をご存知ですか?」
「いいえ、初めて聞きました。書誌情報が載っています。編集者はコブリーツという方で、刊行期間は1983年から1991年まで、各号3、40ページほどの小冊子だそうです。」
「彼が閲覧した第14号を見たいです。」
「もちろん。直接行った方が早いと思います。ここから歩いて15分も掛かりませんから。閉架資料らしいので、先に連絡しておきますね。」
「ありがとうございます。閉架資料か。最初に14号を閲覧していることからして、事前に資料の存在を知っていたのは間違いなさそうだ。……まあいいか、行きましょう。」
3人はホテルを出て資料館に向かった。歩きがてら于焔は、怠惰な口調でデジューに頼んだ。
「さっきの人のこと、他の面子には内緒にしてくれませんか?秘密と言う程では無いのですが、僕がぺらぺら喋ったと知れたら李奇に怒られるので。」
「ええ、構いません。」
資料館の受付には、既に雑誌が用意されていた。デジューは目録に目を通して驚いた。
「これかも。ずばり「ミラ博士の思い出」という題名の記事が。」
于焔たちは身を屈ませてテーブルに広げられた目録を見た。
「閲覧記録だけでこんなに簡単に見つかるとは、ちょっと拍子抜けだなあ。僕は読めないけど、内容は分かりますか?」
「ざっと見る限り、バルセロナでの言行録みたいです。」
寧ろなぜスロヴェニア本部の職員は見つけられなかったのだろう。于焔は読めない記事をペラペラ捲って訊ねた。
「ここ数日、フェイトン・イエが此方を訪ねていないか、聞いていただけますか?」
デジューの友人はその場で入館記録を調べてくれた。
「確かに利用したそうです。この雑誌も利用申し込みをしたとか。」
曄子寧とペレウスを結ぶ手掛かりが、ミラ博士の未発見記事だったのは大きな進展である。
「編集者に関する情報はありますか?」
デジューは携帯電話に文字を打ち込みながら答えた。
「奥付に連絡先兼投稿先として電話番号と住所が記載されていますね。……この住所、今は本屋になっています。外国書籍や専門書を置いている有名な店です。」
「すぐわかるのですか?」
「私の実家が同じ通りにあるので。私も何度も行ったことがあります。」
デジューは于焔が手にしていた地図に、本屋の場所をマークした。
「へえ、すごい偶然。……立地も分かり易いから、僕たちだけで大丈夫です。すみませんが、デジューさんはここに残って、他の閲覧記録も調べてくれますか?僕らじゃ何も読めませんから。」
于焔たちが去ると、デジューはフィデリオの名前も検索して納得した。つまり彼は記録保管室の業務でこの資料を閲覧したのか。だが于焔も言う通り、ミラ博士の個人的事跡に関する資料は極めて少ないのだから、スロヴェニア本部にも資料の存在を教示してくれて良いだろうに。だが確かに本部の入館記録には彼の名前も無く、彼女の職場では博士の未発見資料の話題は無かった。
デジューはスロヴェニア本部とアテネ本部の関係が芳しくないのを漠然と理解している。だからアテネ本部の人間が、敢えてこの重要資料の調査に自分たちを介入させまいとしている可能性も否定できない。だがそれなら―――。彼女は于焔の名刺を思い出した。そもそも于焔が李奇を通してフィデリオに連絡を取ればいいはずだ。李奇がフィデリオと顔見知りで無い筈がない。数日後北京本部長に就任する人物こそ、他ならぬフィデリオなのだから。
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