第3話 ズヴェスダ
弟には嘘をついたことになるが、ペレウスは直接北京に行くつもりはなかった。彼はこの休暇を利用して、「提言」を上梓したミラ博士について調査するつもりなのだ。
博士はドイツ封建制度史の専門家で、その功績から国際連盟が所管する「国際知的協力委員会」の会員にも任命され、国際的な知名度を得るに至った。そのためスペイン内戦勃発時に、彼が記者として息子と渡西した事件は、多少の関心を集めることとなった。
バルセロナでの博士は、人民戦線の諸文書管理を行いながら、国外向けに内戦の現状を解説する記事を2,3本投稿していたが、1937年初頭に市街で戦死したらしい。問題の「提言」は死の直前に上梓されたもので、人民戦線の支援国だったソ連の機関紙にロシア語翻訳版が掲載された。しかし当初は「提言」自体が余りに抽象的な内容だったために、大きな注目を浴びなかった。2年後の1939年、このロシア語版「提言」に感銘を受けたソ連の教育学者オステルマンが、モスクワに「ソ連型委員会」を設立した時も、ソ連内外から関心を寄せられることは無かった。
ペレウスは職務の合間を縫って、博士の足跡を追いかけていた。博士はロシア語を解さず、モスクワにはロシア語に翻訳された提言が届いたという。とすれば、初めに博士が著した英語の原本があり、それが内戦に参加したロシア語話者によって翻訳された可能性が高い。しかしその原本は散逸してしまっている。
他に手掛かりとなり得るのは、彼の最期を看取った息子くらいだが、彼に関する情報は晩年の博士に輪をかけて乏しい。判明している事といえば、彼が1912年ミュンヘン生まれで、博士の死後バルセロナで消息が途絶えた2点だけなのだ。
ところが2年前、ペレウスの調査は大きな進展を見せることになった。彼が発見したのは「ズヴェスダ」なる人物が著した「ミラ博士の思い出」という記事で、1980年代後半にスロヴェニアの首都リュブリャナで刊行された、独立派知識人グループの雑誌に掲載されていた。スロヴェニア語で書かれたその記事は、博士が1936年12月に渡西してから凡そ4か月の間、文書管理以外にも人民戦線の諸施設の修繕や改築に従事しながら「提言」の執筆に当たった様子が詳細に記されていた。
この記事は時間と空間に大きな隔たりがあるにもかかわらず、博士の謎めいた晩年についてペレウスが見つけた記述の中では最も有力な資料だった。これまでもミラ博士に関する言説は存在したが、生存説のように比較的現実味のあるものから、フランコ政権に寝返った説、荒唐無稽な俗説まで雑多である。更に噂の出処も、彼の生涯に所縁あるミュンヘンやバルセロナ、ジュネーヴ、モスクワで散発的に発見されるのみだった。しかしズヴェスダは確実と分かる僅かな足跡を正確に記述した上で、当時の状況を詳細に記しているのだ。
彼がこの記事を信用したのは、執筆の意図が明確だったという理由もある。この雑誌『リュブリャニツァ』は、「スロヴェニア独立に関する知的交流」のために創刊された小規模な同人誌である。そのため投稿者・読者はリュブリャナ在住の教育者や文筆家で、他に掲載された記事も至って真剣な内容だった。つまりこの記事はその冒頭で述べられるように、「スロヴェニアが創設を主導した調査共有委員会、その基礎理念を示したミラ博士について見識を広める」ために上梓されたのだ。
ペレウスはまず編集者コブリーツ氏に連絡を取り、休暇を利用してリュブリャナへ調査に向かった。しかし「ズヴェスダ」の素性は不明だという。だが半世紀以上前の動向を詳細かつ正確に記したこの人物が、実際にバルセロナで博士親子と過ごした可能性は高く、ペレウスとしてもこの手掛かりを易々と手放すわけにはいかなかった。国際歴史記述調査共有委員会の基礎理念を「提言」したにもかかわらず、ミラ博士の足跡に関しては殆ど明らかにされていない。ペレウスは北京赴任に伴う10日の休暇を利用して、再びリュブリャナに赴いて「ズヴェスダ」の足跡を調べることにした。
翌日ペレウスは、アテネ空港からローマ経由でリュブリャナに向かった。2004年8月、盛夏のアテネはオリンピック・パラリンピックの開催によって空前の盛況を迎えている。ペレウスは里帰りした「平和の祭典」には我関せずで、自分が育ったこの街が、五輪で熱狂する前の落ち着きを取り戻すのを待ち遠しく思っていた。自分がそこにいないことに一抹の寂しさを覚えながら。
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