第4話 曄蔚文と曄子寧
利害を異にする集団を如何に団結させるか、その答えに「共有」を挙げる者がいる。例えば敵の「共有」は、より単純で具体的な選択肢だといえる。だがそれは敵という第3者がいて初めて成立するのであり、団結も離反も第3者の存在抜きには考えられない。それに対し民族や宗教・文化・国家・思想・歴史などの共有は、内部崩壊する恐れはあれ、否応なき外的要因の存在を免れ得る可能性が高い。
例えば国家が制定した歴史教育は、1つの国家の国民を同じ歴史的文脈・同じ歴史観の中に共存させて、「○○人(国民)」という集団への所属を明確に認識させることに意義がある。そして「○○人」という自己認識は、内部共有される分には確かに主観的だが、同時に世間的常識として客観的に共有され得る属性でもある。それらの概念を「共有」する人々は、自らを「○○人(国民、民族、教徒)」と認識し、それを根拠に内部団結し、他者との対立も躊躇わないのだ。
ならばその枠組み自体を広げ、国同士を同じ歴史的文脈の中に位置づけ、同じ歴史を共有する同類であり仲間であると認識させれば、一定のレベルで国際的な協調と平和の促進に寄与できるのではないか。ミラ博士が「提言」し曄蔚文らが「提唱」したのは、そのような理想主義ともいえる理念だった。
1967年、北京の大学で臨時研究員として働いていた曄蔚文は、2歳年少の同僚李魁と連名で、「世界史における歴史認識の共有とその重要性に関する提唱」と題した論考を、英語圏の小規模な学術雑誌に発表した。それは当時の政権への批判とは捉えようの無い代物で、だからこそ文化大革命中の中国国内では、「幸いにも」注目を浴びることが無かった。一方で思いもよらなかったことに、彼らの主張に呼応する国が現れた。それがギリシャとスロヴェニアだった。
当時スロヴェニアはユーゴスラヴィア連邦の構成国だったが、諸政策を巡って連邦中枢との不和が露呈し始めていた。そこで連邦は、委員会を非同盟諸国の新生国際機関と位置づけ、スロヴェニアに創設の主導を委ねることにした。一時的な不満感情の捌け口を用意したのだ。だが皮肉なことに、委員会を軌道に乗せた経験は、「スロヴェニア」人の自己認識に大きな影響を与えることになった。複数の現代史研究者によると、委員会関連者の中には、モチュア初代委員長をはじめ、独立運動の思想的支柱として重要な役割を果たした者が何人も見て取れるのだという。
一方ギリシャにおける委員会設立の動きは、当時の軍事政権に対抗する反体制派によって始まった。ギリシャの意図は不明だが、何にせよ「西側」と位置づけられたこの国の呼びかけが、欧州の「西側寄り」国家にとって条約加盟の契機となったのは間違いない。こうして初期委員会は、主にユーゴスラヴィア・アフリカ・アジアの一部の国と、ギリシャ及び中東欧の若干の国々によって構成されることになった。
加盟国数は今日まで微増しているが、ロシアやアメリカなどの大国が依然未加盟の状況は変わらなかった。更にユーゴなど複数国における加盟実態の形骸化が問題視され始めた。そこで名誉委員長としてアテネに滞在していた曄蔚文は、委員会への支持と参加国拡大のために各都市を遊説して回った。しかし1989年に交通事故で息子夫婦が死去すると、帰郷して1人遺された孫の曄子寧を養育することにした。
曄子寧は昨年北京大学の碩士課程を卒業後、オクスフォード大学の博士課程に進学した。普段は「フェイトン・イエ」という英名を用いていることもあり、教授や特に親しい学生を除けば、祖父が曄蔚文だとは知られていない。
彼は9月から1年間休学して、調査共有委員会でインターンに参加することになっている。五輪特需により欧州各都市とアテネ間における交通利便性はここ数年で格段に向上しているが、彼は敢えて列車や船を乗り継いで向かう計画を立てた。パリとウィーンで列車を乗換え、スロヴェニアに陸路で入国するというやや煩雑なルートだ。首都リュブリャナのユースホステルに滞在した後、8月27日にスロヴェニア南西端の港町コペルからアテネ行の船に乗る予定である。
曄子寧がパリやウィーンなど名だたる都市を素通りして、リュブリャナをアテネ出立前の最終目的地とした理由は、昨年彼と祖父を訪ねてきた委員会職員の言葉だった。フィデリオという名の職員は、義父のモデラ委員長と共にロンドンにやってきた。モデラと祖父が歓談している間、フィデリオは話の種とばかりに、リュブリャナでミラ博士に関する記事が発見されたと零した。そこで彼はこの機会に、自分の眼で確かめてみたいと思ったのだ。
曄子寧はスロヴェニア人留学生を探し、彼の助けを借りて当該記事の出典を当たった。記事を掲載した雑誌『リュブリャニツァ』の責任者コブリーツ氏がリュブリャナ健在と知ると、彼はその留学生を通して取材を申し込んだ。
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