煌めく都市と偽者の姫君 5
「……て。――――起きて、ロイド!」
ニコラの声と、揺さぶられる感覚に気付いたロイドの意識は、泥のような闇から急速に浮上した。背中に感じているのは冷たくざらついた地面。
目を開けたロイドの視界に飛び込んできたのは、満天の星空と心配そうなニコラの表情であった。周囲の静けさを鑑みれば、深夜に近い時間帯かもしれない。
気を失っていたことを察したロイドは、瞬時に最後の記憶を辿った。アリサ・ユーヴェリアを対象として、魔眼の権能を発動し、その視界を焼かれたのだ。
一瞬にして脳内にフラッシュバックした光景は、ロイドに恐怖を呼び起こす。飛び起きて、思わず周囲を見渡したロイドの肩に、ニコラが優しく手を置いた。
もうアリサは去ったのだろう。……冷静に考えれば、自分に何かするつもりがあれば、いくらでも機会はあったはずだ。それに、彼女の力量であれば、そもそも機会を選ぶ必要すらない。
ロイドは心拍を落ち着けるように、大きく息を吐いた。
そして、服の袖を引っ張られる感触に顔を向ければ、しゃがみこんだニコラが怯えたような声を出した。
「何だか、嫌な予感がする。早く帰ろ?」
ニコラの声色に、ロイドはすぐに立ち上がった。ピクピクと警戒するように動くニコラの猫耳。ニコラの危機察知能力を信頼しているロイドはすぐに行動を開始した。
こんな時間まで気絶していた自分が情けない。だけどニコラも、もう少し早く叩き起こしてくれれば良かったのに。
ロイドはそう思いながら、もうすっかり冷たくなった食べ物の残りを回収する。他の皆にも分けてあげようと思ってのことだ。
そして二人は、早足で歩き出した。
ロイドとニコラの住居は、街の外れにある、教団が買い取った住宅のひとつだ。他の同じ境遇の子供達と共同で暮らしている。
まだ明るさの残る大通りを抜けた二人は、徐々に暗さを増す通りを歩いていた。
周囲には人影はないが、どうしても小声になってしまうのは仕方がないと言えるのかもしれない。ロイドは、ここまでの道程でニコラに自分が見たものを説明していた。
――――アリサ・ユーヴェリアは〝本物〟だと。
「あれは……、あんなのは人間じゃない」
思わず震えてしまった声に、ニコラが心配そうにロイドの手に触れた。情けないが、今は取り繕うことなど出来そうにない。
ロイドには、魔眼があった。そして、同じスラム出身の同年代の中では、恐らく一番魔術の才能があった。
だからこそ、教団に尽くし今の生活を抜け出せたのなら、勉強し、魔術師として生計を立てることを望んでいたのだ。そう、今日までは。
「僕、多分魔術師にはなれない」
無理だ、とロイドは思った。だから、そう口に出してしまった。どんな努力をもってしても、決して辿り着けない領域を知ってしまったから。
あんな力の前に、人はあまりにも無力だ。自分の魔術など、無意味なのだ。彼女の機嫌次第で、自分たちのような弱者は……。そう考えていたロイドに、ニコラは意外な言葉を掛けた。
「ロイド? アリサお姉ちゃんは、
お前が何を知っているんだと、言いたくなったロイドをニコラは優しく諭す。「ええとね、ロイドを運んできたアリサお姉ちゃんの表情を見たんだけど。すごく、その……。苦しそうに見えたんだ」
ロイドの胸に去来したのは罪悪感だった。彼女は自分に危害を加えなかったし、きっと守ってくれていたのだ。だが、自分は勝手に見極めようなんて思いで魔眼を発動してしまった。
「ロイドは逆に、アリサお姉ちゃんが人間であることに感謝すべきなんだよ。アリサお姉ちゃんがさ、明らかに異形の姿をしてたら、ああ人間じゃないから追いつくのは無理なんだ、って思うじゃない? でもね、人間だから。ロイドが死ぬほど頑張って頑張って、努力し続けたら、いつかは届くかもしれないよ? ……まぁ、流石に無理だと思うけど」
そう言って小さく笑ったニコラに、ロイドは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。下手な励ましだが、ありがたいことには違いない。
境遇のせいか、年齢の割に達観している部分もあるロイドだが、まだ子供であることには違いない。幼馴染なんかに、こんな気持にさせられたことが悔しくなったロイドは、冗談めかして笑う。
「でも、そう考えると〝魔法詠唱者〟って奴の魔力は、どれだけ凄いんだろう?」
「ね、ロイド。やっぱり私の勘が正しいとしたらどう思う?」
ニコラの言う勘とは、キリカの方がお姫様の生まれ変わりなんじゃないかというアレだろう。件の二人には一蹴されていたが。
アリサは自ら名乗り、その魔力を魔眼でも確認したのだ。ニコラの質問に首を傾げるロイドに、ニコラは「本物のお姫様を守るために姿を偽って、脅威を排除してたりなんかして」と耳打ちした。
何故だろうか。ストンという音が聞こえるくらいに、不思議とその言葉は腑に落ちた。キリカという名の少女はあの状況で動かなかったし、確かにアリサは
これは昔からなのだが、時々危機察知とは別の方向でも、ニコラの勘が異常に冴え渡る時がある。
だが、それが真実だった時――――。
その後、決まって悪いことが起きるのだ。
そう、こんな風に。
「君たち、面白そうな話をシてるね。ワタシ、面白いことダぁい好き。詳しく聞かセて?」
後ろから聞こえた聴き馴染みのない声に、ロイドは肩を震わせた。ニコラの猫耳の毛が逆立つのを察する。
同時に振り返ると、そこには青白い肌をした十五歳くらいの少女が立っていた。まるで生気を感じさせず、ぎこちない動きでこちらに手を振るその姿に背筋が凍る。
まずい、とロイドは直感した。少女は下手な笑みを浮かべているが、得体のしれない気持ち悪い気配を発している。
一瞬で全身に恐怖が広がった。あまりにも、油断し過ぎていたのだ。誰もが欲しがる情報を、口に出して話していたことに今更ながら気付く。
アリサの魔力にアテられ、一度死の恐怖から開放されたことにより、何となくふわふわした状態になっていたからかもしれない。
ただ自分の夢が揺らぎ、足元が覚束ない恐怖を紛らわすためだけにニコラに話をしてしまっていた。ニコラは嫌な予感がすると、言っていたはずなのに。
ニコラはきっと、自分の不甲斐ない様子に気を遣って話をしてくれていただけだ。家に戻って、誰にも聞かれない状態で話すべきだったのだ。
脳内を埋め尽くそうとする後悔を何とか押し退け、ロイドは状況の把握と逃走経路の確認を急ぐ。相手の素性は不明、大通り側を塞がれている以上、逃げるならスラム方面だ。
だが、相手が一人だとは限らないし、逃げ切れる保証もない。魔術で追い払えるのならいいが、あいにく詠唱時間を与えてくれそうにはない。
そして同時に、既に魔眼を使用してしまっていることを後悔する。今はまだ再使用が出来ない。相手の魔力が分かれば、少なくとも魔術的な素養は把握出来たというのに。
「教えテよ。誰ノこと話しテた?」
件の少女は、まるで感情の籠もっていない声でそう言った。辺境の出身なのか、その言葉はどこか違和感のあるイントネーションだ。
ロイドの心拍が一段階早くなる。恐怖に息苦しさを感じつつも、地の利ならあるかもしれないという結論に達した。
ロイドはニコラの手を握ると、二回強く握りこんだ。昔から使っている「逃げるぞ」の合図だ。二人はすぐにスラムの方へと駆け出した。
「アッは! 追いかけっこ? ソレ面白い? 面白いんだヨねぇ!?」
後ろから聞こえたのはそんな嬉しそうな声であった。遠くなる声に、初動で距離を取ることに成功したことを知る。
握ったニコラの手は強張っていた。その手を離さなかったのは、果たして彼女ためか、自分のためか。
二人は、両側に背の高い雑草が生い茂る小道を駆け抜け、廃墟が並ぶ区画に到達した。そして、一つの小さな廃墟に身を潜めると、荒い息を押し殺し周囲の気配を伺う。
物音はなく、気配も感じない。可能であれば魔術の詠唱をしておきたいところだが、あいにくロイドが使える魔術は限定されており、どれも夜闇では目立つ。
散乱する瓦礫から、武器になりそうな棒切れを拾ったロイドは、ニコラに動くなと告げる。そしてロイドが周囲の様子を見ようと、割れた窓の方へ向かった時であった。
「ツまらナい」
「――――ッ!?」
真横から聞こえた声に、ロイドは心臓が止まるかと思った。転がるように飛び退いたせいだろう。廃墟に散乱していた瓦礫で背中と両腕に鋭い痛みが走った。
「お話の方ガ面白いでショ? 続きヲ聞かせて?」
少女は相変わらず生気のない顔で、そう問いかけた。首を傾げる仕草さえ不気味に感じる。
「えっと、何の話でしょうか?」
ロイドが選んだのは時間稼ぎだった。だが、それが悪手であったことは少女の様子を鑑みるに明白だ。
「ツまらナいのはキライ」
少女はそう言うと、自分の右手の爪を噛む。力加減がおかしいのか、爪は砕け粘度の高い血が滴り落ちていった。
少女は唇の端から垂れる血を拭おうともせず、虚空を眺め不気味な笑みを浮かべた。そして、ニコラの方へ足を踏み出す。
「やめて!」
「邪魔」
静止しようとしたロイドであったが、少女に振り払われ壁に背中を打ち付けることになった。あの枯れ木のような細腕で、こんな力が出せるのかと驚愕する。
恐怖、痛み、自分の弱さに対する憤慨――。それらが混じり合った感情を飲み込み、立ち上がろうとしたロイドであったが、打ちどころが悪かったのか、身体に力が入らない。
その間にも件の少女は、ニコラの猫耳を掴んで立ち上がらせた。ニコラの小さな悲鳴が、ロイドの胸を抉る。
「話す?」
耳元で囁かれた少女の声にニコラは怯えながらも、首を横に振った。どうして、とロイドは思った。話せば、生きていられるかもしれないのに。
いいから話せ、と言おうとした。それが卑怯であっても、罪であっても、ここで死ぬよりはマシだ。それに、きっとアリサならこの程度の襲撃者、ものともしないはずだ。
しかし、ロイドの喉は声を発することも出来なかった。這いずるように、どうにか立ち上がろうとするも、身体は言うことを聞かない。
ロイドは既に冷静さを失っていた。襲撃者は一人だとしか考えていなかったし、喫緊の脅威から逃れることしか考えられなかった。
「言ったヨね? ツまラなイのはキらイだって」
そう言うと少女は怖気のするような笑みを浮かべた。そしてロイドの方に近寄ると、しゃがみ込んで問いかけてくる。
「オ前、あの女のコ大事?」
その問いに、ロイドは頷く。声が出せるようになったら、全部話すから。ニコラだけでも逃して欲しい。伝わるわけもない言葉を、その視線に込めた。
ロイドが頷いたことで、少女は満足そうな表情になる。嫌な予感がした。ロイドは微かに動いた右手で鋭い石を握った。こんなものでも無いよりはマシだ。
少女は楽しそうにニコラの手をとると、ロイドの目の前に連れてくる。混乱した表情を浮かべつつも、少女に逆らうことは悪手だと悟っていたニコラは従順にそれに続いた。
そして少女はロイドに、満面の笑みを向けてこう告げる。
「コいツを犯セ」
一瞬、その言葉の意味を理解することが出来なかった。しかし、少女がニコラの着ていた服を引き裂いたことで、ロイドは強制的に理解させられることになる。
驚きや怯え、そして寒さに震えながら、露出した乳房を細腕で隠すニコラ。あまりにも痛々しいその顔をロイドは見ていられなかった。
ニコラが自分に好意を寄せているということは、何となく分かっていた。ロイド自身、憎からず思っていたしずっと二人で育ってきた。
きっと、大人になれば自然に結ばれ、そういう関係になるんだろうと漠然と考えていた。だから、ニコラの服の下を想像したことが無いと言えば嘘になる。
そして、現実のニコラは、想像より綺麗だった。だが、この状況で劣情を催せというのはあまりにも難しい話だ。
そもそも、こんな表情の彼女を抱くことが出来るほど鬼畜ではないし、大人でもない。だから……。ロイドはぐっと右手の石を握り込む。少しずつ力が入るようになってきていた。
「ほラ早く? ワタシを楽しマセてよ。乱暴に、激シく、壊レるマで!」
そう言って少女はロイドの髪の毛を掴んだ。今しかないと思ったロイドは、右手に握った石の先を、少女の腕に全力で叩きつけた。
冷静な考えじゃないことは分かっていた。
それでも、こうすべきだと思ったのだ。
自分たちの命に価値はない。
きっと全部話しても殺される。
スラムで生まれ育った二人には死は身近なものだった。居なくなっても、誰からも気にされず、忘れ去られる。それが常だ。
今日の失敗は――、いや、この人生の失敗はアリサに魔眼を発動してしまったことだろう。
だからせめて、ニコラだけは――――。
石じゃどうしようもないことを悟ったロイドは、少女の冷たい右腕を両手で掴み叫ぶ。
「――げ、ろッ。……逃げろッ、ニコラ!」
やっと、声が出せた。ロイドはそのまま、少女の腕に渾身の力で噛み付いた。ぐじゅり、という嫌な感触と共に、苦く冷たい液体が口の中に広がっていく。
吐き気を催す匂いと味、そして死の恐怖も我慢する。ロイドが涙目で見つめた先には、刹那の逡巡を見せるニコラ。せめてもと、ニコラが着ていた服だった布切れを足蹴にして、少女を引き倒そうとする。
しかし、少女はびくともしないどころか、痛みを感じないような声色で「あーあ」と漏らした。そして、少女が反対の手の人差し指を向けた先には、ニコラの後ろ姿がある。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。頭の中にそんな後悔の声がけたたましく響く。必死に手を伸ばすも、間に合わない。
「あ――――」
それは、自分とニコラ、どちらの声だっただろうか。
少女の指先が伸び、ニコラの背中から胸を貫く。
飛び散った血液。
宙に舞う布切れ。
声にならない叫び。
ゆっくりと崩れてゆくニコラ。
そして、力なく地に横たわった大切な人の姿を認識し、時間は止まった――。
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