目指すは煌都 2

 静けさを増していく夜に溶けるように、キリカの吐き出した白い吐息は霧散していく。時折聞こえるのは少女たちの声と、小さく火が爆ぜる音。


 吹き抜けた風に肩を震わせたキリカは、その白い両手を焚火に向けながら満点の星空を見上げた。幾ら魔道具が発達しているとはいえ、こうして火と星を眺める時間も悪くないと思いながら。


「それにしても、遅いわね」


 エリスがシャワーを浴びに女子寮に戻って数十分。キリカはそう小さく零した。


 あまりエリスは人を待たせるような性格ではない。ゆっくりしているはずも無いだろう。それを考えれば、何かあったのかと心配にもなるが、本当に何かあれば連絡してくるに違いない。


 キリカは視線を焚火に戻し、両手で頬杖をつく。考える時間があっても、嬉しいのか嬉しくないのか最早分からなかった。


 考えてしまうのは、勿論エリスの先日の言葉である。だが、これから数日間のことを思えば、気を引き締めないといけないということも分かっていた。


「聖女、か……」


 自らを姫君の生まれ変わりだと騙る人物。何者で、どんな目的があるのだろうか。もし、偽物は自分の方だとしたら――。心の奥底で浮かびかけた嫌な想像を振り払うように、キリカは短く息を吐くと傍らの長剣の鞘を掴んだ。


 そんな筈はないと分かっている。他でもない、リタ・アステライトがそう言うのだから。だが、未熟な己の精神が中々言うことを聞いてくれないのも事実。


 キリカは立ち上がり、剣を抜き放つ。構えを取れば、すぐに冷静な自分が戻ってくることを知っていたからだ。


 まだ見えぬ敵の影を切り裂くように。何度も何度も、キリカはただ剣を振り続けた。




 一方、女子寮に戻っていたエリスは丁度浴室を出たタイミングで、部屋の扉の外に複数の気配があることを察した。


 すぐに魔術で最低限の支度を整えつつ、息を殺し扉の傍へと移動する。どうやら、扉の外に居るのは三人の女子生徒のようだ。


 自分たちが現在エルファスティア共和連合に向け移動中であることは周知の事実である。訪ねてきたとは考えづらいし、そもそも様子がおかしい。


 はっきりと感じる悪意と、何かをしているのであろう物音。


 まさか、自分が聞き耳を立てているとは思わないだろうな、と苦笑を漏らしつつ聴覚を拡張したエリスの耳に入ったのは想像通りの会話であった。


 彼女たちは、どうやら第三学年の生徒達のようだ。自分は、ロゼッタに師事する立場であるし、今回の戦術大会では彼女たちの貴重な機会を奪ってしまったのかもしれない。


 だからエリスは、自分が恨まれ嫉妬されようと、至極当然だろうと納得できる。案の定、外の会話はそれを示唆していたし、正面切って何も出来ない人の気持ちも分からなくはない。


 自分だって今までの出会いが無ければ、もしくはリタの妹でなければ、本来はそんな性格であることに違いはないのだから。


 けれど、その悪意が自分以外にも向くのであれば話は別だった。外の会話は「姉妹」と言ったのだから。


「せめて私だけにしておけば、見ないふりしてあげたのに……」


 エリスは小さく呟くと、面倒事に巻き込まないよう隣の部屋に転移する。同じく風呂上がりだったのだろうか。ルームメイトのラキも居ないユミアは、一人の時間を満喫するように裸でベッドに転がっていた。


 こちらに気付いた彼女が叫び声を上げる前に、エリスはユミアの口を手で押さえる。エリスは涙目で何かを言おうとしているユミアを視線で黙らせると、何があっても暫く部屋の外に出るなと念押ししてから自室に戻った。


 先程から鼻をつくのは塗料の臭いだろうか。エリスは溜息を吐きつつ、そっと自室の扉を開けて廊下に出た。想像はしていたが、そこには惨状が広がっていた。


 そこかしこに、血のような赤色の塗料がぶちまけられ、罵詈雑言が書き連ねられている。そこにはエリスやリタは勿論、キリカのことを揶揄したようなものまであった。


 成程、魔術を使わなければ結界は発動しないし、彼女たちには丁度いい悪戯だったのだろうとエリスは変に納得してしまう。きっとこういうことがいつか起きるだろうという予感は以前よりあったのだ。


 分かっていたし、覚悟はしていたつもりだった。それでもやはり、胸が痛むのは避けられないらしい。


 だが、逆に今で良かったとエリスは思う。彼女たちは幸運に違いないだろう。ここに立っているのが、リタ・アステライトだったならば――、全く別の結末を迎えることになっただろうから。


「こんばんは、先輩方。色々と質問があるとは思いますが、先に私からいいでしょうか?」


 エリスは引き攣った顔で固まる女生徒に、微笑みを投げかけた。




「だっはぁ……つっかれたぁ……」


「何だらしねー声出してんだ」


 肩を落として見張りの交代へと向かうリタを、隣を歩くラキが窘める。エリスもキリカも居ない中で、どうにか演技を続行してきたが最早心身ともに限界であった。


 どうやら早々にラキがやらかしたようで、いつの間にかこちらの正体を知っていたモニカがフォローしてくれたのは良かったのだが……。中々うまくいかないものだ。


 特にクラリス・フラハという名のクラスメイトに、アリサ・ユーヴェリアは大層嫌われているらしい。そもそも、リタ自身クラリスにはあまり好かれていない自覚はあったので、今更ではあるのだが。


 隣で大きな欠伸をしているラキに軽く肘鉄を食らわせながら歩けば、すぐに目的の場所へと到着する。今夜の野営地はすぐ近くに低い丘があり、その丘こそがリタ達の見張りの場所であった。


 キリカとエリスが何かを小声で囁き合っている。仲がいいのか悪いのか分からないが、恐らく悪くはないのだろうなとリタは思う。だからこそ先日の件は気になるが、聞き出すのはもう諦めていた。


「お待たせー。見張りはうっかり口を滑らせることに定評のあるラキが引き継ぐから、二人とも楽にしていいよ」


「分かったって! オレが悪かったから何度も言わないでもいいだろ!?」


 ぶつくさ文句を垂れるラキの肩を叩くと、リタはそそくさと魔法を解除し元の姿に戻った。詰め物とコルセットは既に歩きながら外していたが、更に身体が軽くなった気分だ。


 軽く肩を回すと、何かに釣られたのか急に空腹感を感じてきた。魔力とエネルギーを早急に補給せよと脳が指令を出しているのだろう。


「あ、そうだ。せっかくだし、肉でも焼かない? ちょっと王都に戻って買ってくるからさ」


 何故だか、キリカとエリスから微妙な笑みを向けられている気がするが、何かしただろうか。夕食から三時間は経っているし、別におかしくはないだろう。首を傾げるリタであったが、今は気にしてもしょうがないと切り替える。


 こういう時に気にしないからこそキリカやエリスが苦労しているとも言えるが、彼女たちもリタにそれを期待してはいないだろう。


 そうして楽しい時間を過ごした彼女たちであったが、もう一度シャワーを浴びなければならなくなった二人は翌朝少しだけ眠そうにしていたのかもしれない。




 夜闇に紛れ、音もなく疾走する一人の女。奇妙な仮面で顔を隠した女は、エルファスティア共和連合の首都である煌都ルーファ・ディメリアの郊外を駆け抜けていく。


 常軌を逸した速度で駆けているにも関わらず、女の息が上がることはない。そして女は、間もなく一台の装飾の施された馬車の近くへと到達した。


 馬車にはセレスト皇国および統一教会の旗が掲げられており、白を基調とした美しい装飾からは、搭乗する人間がいかに重要な人物であるかを連想させる。


 女は岩陰に身を隠すと、周囲の状況を探る。馬車は完全に停車しており、御者の姿は見えない。更には、他の馬車の姿も見えず、警護の人間すら周囲には居ないようであった。


 女は、これはまるで誘われているようだと訝った。しかし、選択肢などありはしない。丁度馬車から、長身の男が降りてくるのが見えたからだ。


 女はゆっくりと立ち上がると正面から男と相対した。


「夜分にすまない。突然で申し訳ないが、聖女に会わせてくれないか? 失礼は重々承知している」


 女はあくまで目的を果たせればそれで良く、荒事にする必要はないと思っていた。しかし、男は慇懃に礼をすると首を静かに横に振った。


「申し訳ございません。教皇猊下より、聖女様には誰一人近づけるなと仰せつかっておりますので」


 男の言葉に、女は思わず苦笑を浮かべた。この警備状況でそれを言うのか、と。目の前にいる男の正体を鑑みるに、何らかの目的があって聖女が単独行動をしているのは容易に想像できる。


「少しだけでも構わない。どうにか頼めないか?」


 女はそう言って頭を下げるも、男の返事は女の望んだものではなかった。女は溜息を吐くと、腰の剣に手を掛ける。


「ならば退け、さもなくば斬る。――“狂信者”、ジェイド・ナスタファよ」


 女の問い掛けに、ジェイドは口の端を歪めながら腰を落とす。


「これはこれは……。噂の“剣聖”オリヴィア・カーマンハイトが、ここまでせっかちだとは。少々期待外れですよ?」


 ふむ、一目でこちらの正体を看破するとは中々のものだ。顔は仮面で隠しているし、大きめのマントで身体も覆っているというのに。


 オリヴィアは、警戒レベルを引き上げつつ臨戦態勢に入る。裏の世界では有名人であるジェイドであるが、実際の戦闘スタイルをオリヴィアは知らない。


 最初の一撃で意識を刈り取らなければ、後が面倒になるだろう。殺すなんてもっての外だ。薄ら笑いを浮かべているジェイドは、何をしてくるか分からない気味の悪さがある。


 こちらの正体を気取られている以上、魔眼に頼るのは危険だ。オリヴィアが、初撃に向け踵を浮かせたその瞬間であった。


「お二方、申し訳ないが一旦納めていただきたい」


 転移魔術にて現れた闖入者により、オリヴィアとジェイドは一旦距離を取る羽目になった。現れた優男は、オリヴィアが良く知る人物、ダグラス・マインレルゼである。


 オリヴィアとダグラスを交互に見たジェイドは、いかにも人好きのする笑みを浮かべながら冷たい声で発する。


「ほう……。今はそっちに居るのか」


 ダグラスに向けられているのであろうその言葉に返事をすることもなく、ダグラスはオリヴィアに囁く。


「今夜は退きますよ」


「待て――」


 聖女とコンタクトできる機会など早々ない。そして、既にこちらの正体が向こうに露呈しているという状況だ。退くなんて冗談じゃない。


 生半可な意志で止めようというのなら、仲間であろうとこの場で斬るしかあるまい。心の中で噴き上がるのは、正しく激情。千年以上の時を経て尚、オリヴィアを突き動かす後悔だった。


「すみません、団長」


「……」


 そう真剣な眼差しで発したダグラスの声に、オリヴィアは刹那の逡巡を経て剣を収めることに決めた。彼の冷静さにこれまで何度も救われてきたからだ。


「おやおや、お帰りですか? 残念です。またお会いしましょう、ルミアスの亡霊たち」


 そんなジェイドの軽口にオリヴィアが応えるより早く、ダグラスの転移魔術が発動し、オリヴィアは森の中に転移していた。


「どういうつもりだ?」


 開口一番、オリヴィアは自身の腕を掴む男にそう問いかけた。ダグラスは、一歩下がると大きなため息を吐く。


「それはこっちの台詞ですよ。あれだけ大人しくしていて欲しいと言いましたよね?」


 オリヴィアは一瞬口ごもる。事実、ダグラスから聖女降臨の報を聞いた際、そう念押しされていたのは事実だからだ。だが、そう言われたところで、自身の目で確かめねばならないとオリヴィアは思っていた。


 他でもない、自分であれば真実を見抜くことが出来るのだから。


「いやしかし、そうは言っても――」


 オリヴィアの言葉を、ダグラスは手で制した。昔であれば、叱っていただろうが今は状況が異なる。ダグラスは、呆れたような声で発した。


「団長も感じたでしょう? 多分、あれは罠ですよ。それに、心配しなくとも必ず相まみえる時が来ます」


 何かを知った風に話すダグラスの態度が気になったオリヴィアは、ダグラスに「何か隠していることがあるのか」と問い掛けるも、ダグラスの答えは「確証が持てない」の一点張りであった。


 自分に焦りがあったのは認めよう。それ程までに、あの時の出来事は自分たちにとって大きなことだったのだから。


 長い時間が過ぎて尚、決して忘れることの出来ない日々。そしてそれは、目の前の男も同じはずなのだ。


「ダグラス」


 目を細めてオリヴィアはその名を呼ぶ。思いのほか低い声になってしまった。ダグラスはその声に、真っすぐな視線を返した。


 ……自分が馬鹿だった。彼は大丈夫だ。オリヴィアが緊張を解くと、ダグラスがおどけたように問い掛ける。


「そういえば、団長はあの山頂からずっと走ってきたんですか?」


「ああ」


 オリヴィアの返事に、ダグラスは大袈裟に肩をすくめた。分かっていて聞いているのだ。ある意味で空気を作るのが上手い男でもある。先程の謝罪の意を込めて、という訳でもないが乗ってやろうとオリヴィアは思う。


 そもそも、精霊術が使えず里を追放された自分だ。六百年も練習したのに、転移術式を使うことは出来なかった。残念ながら魔術の才能は全くないと言ってもいいだろう。


 だからオリヴィアは自身の住んでいる庵から、ここまで走ってきたのだ。一番自由で一番速い移動方法である。


 何だか、気が抜けてしまったな……。オリヴィアは顔を覆っていた仮面を外す。表には色とりどりの装飾が施され、賑やかで楽しい気持ちにさせてくれる面である。オリヴィアはそれを、大事に懐の皮袋に仕舞った。


「えっと……、それ仕舞うんですか?」


 ダグラスの言葉に、オリヴィアは首を傾げる。


「当たり前だ。先日、購入したばかりだぞ?」


「えっそれ、買ったんですか!? そんなデザインの仮面売ってるとこあります!?」


 そりゃ売っていたのだからあるだろう。もしかして欲しいのだろうか。だが、購入した店のことはよく覚えていない。道中で急いでいたのもある。


「ああ、すまない。ダグラスも欲しかったか? ここから東北東に二日くらい走ったところの集落だ。一目ぼれして買ったんだが、あいにく店の名前は憶えていなくてな」


「あ……いや……。大丈夫です」




 何とも微妙な沈黙が二人の間を支配し、木の葉が寒風に揺れる音がやけに大きく響く。


 ダグラスは先の仮面のやりとりで、千年と少し前の出来事を思い出していた。そういえば、この人はそうだった。千年以上、同じ服――正確には同じ服を何着も職人に作らせている――しか着ていないから忘れていたのだ。


 ダグラスはきっと、あの日のノルエルタージュの表情を生涯忘れないだろう。ダグラスは、オリヴィアが初めて私服で登城した時のことを思い出し、思わず笑みを漏らす。


 そういえばあの服も、元々はシルクヴァネア様が職人に仕立てさせたんだったな……。あの日の団長は傑作だった。


 思わず吹き出しそうになったダグラスは、気取られないよう木々の隙間から覗く夜空に視線を向けるも、上手くいかなかったようだ。


「おい、何か失礼なことを考えていないか?」


「黙秘します」


 オリヴィアの魔眼の前に、偽りの言葉は意味を成さない。これでは、どちらにせよ意味がないだろうが。隣から向けられる強い視線を無視しつつダグラスはもう一度幸せな思い出に浸る。


「思い出してたんですよ、昔のこと。団長だけですよ、姫様をあんなに笑わせられたのは」


「そ、そうか……?」


 少し照れたような声色に、ダグラスは丸く収まったかなと胸を撫でおろす。あんなに笑い転げたノルエルタージュをダグラスが見たのはあの日だけだったのだ。


 オリヴィア・カーマンハイト――――。誠実、清廉で実直。過去には騎士団長として多くの人間から尊敬を集めていた一方、ノルエルタージュに『世界一私服がダサい女』と言わしめた人物である。

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