出逢ってしまったから

 翌日のこと。いつもであれば既に学院へ赴いている時間だが、キリカは未だに自宅の私室で寛いでいた。


 もうすっかり、窓の外は明るくなっている。レースカーテン越しに部屋を照らすのは、冬が来るのを拒むような陽光。その最後の抵抗がくれた微かな暖かさを感じながら、キリカは熱い珈琲を口に含んだ。


 途端に広がる芳醇な香りと、強烈な苦み。思わず顔を顰めたキリカは、舌を突き出す。


「にっが……」


 誰も居ないと分かっていても周囲を見渡してしまうのは、自分の悪い癖だ。角砂糖をカップに投入しながら、次は違う豆を買おうと決意する。


 リタ曰く、飲んだことは無いが地球にも似たような飲み物があったらしい。女神の好物だと観測者が言っていたこともある。恐らく本当に同じようなものなのだろう。


 頭がすっきりすると聞いたが、本当だろうか? キリカは首を傾げつつ、甘ったるい液体に口をつけた。普段は飲まないが、たまには悪くない。


 何せ、予想外の休日である。どうやら、リタに観測者からの贈り物が届いたらしいのだ。今朝、苦しげな声でそう伝えてきた。今頃は凄まじい頭痛に苛まれているだろう。


 実際のところ、観測者との邂逅以降、キリカ自身もかなり根を詰め過ぎていた。今頃リタが苦しんでいるのだと考えると、いてもたってもいられない気持ちにはなるが、彼女は折角だから休めと言ったのであった。


 きっとリタは、自分が無理をしていることにも気付いていたのだろう。訓練の強度を上げ過ぎたのか、生理も止まってしまった。


 将来のことは分からないが、は残っていた方がいいに決まっている。休息と食事にも気を遣わないといけないな、と反省しつつ桃色の妄想を追い出した。




 資料を軽く眺めてみるも、特に頭の冴えは感じられない。溜息をついたキリカは、表紙に『デルタ計画』と記された紙束を無造作にテーブルに置いて、ソファに深く座りなおした。


 部屋を満たす心地よい香りに導かれるように、少し冷めた珈琲を口に含み目を閉じる。


 頭の中で繰り返されるのは、昨日のエリスの台詞。キリカは思わず左手で眉間を揉んだ。リタが何かあったのかと心配していたが、結局誤魔化してしまったことを思い出しながら。


 どうすべきだったのは分からない。けれど、エリスの口からはっきりと聞くまで、自分が口を開くべきではないと思ったのだ。……若干手遅れな気がしなくはないが。


 キリカがエリスの気持ちには気付いたのは、実はつい最近のことである。決定的だったのは、やはり観測者との一件だったのだが、思考を整理していく中でようやく腑に落ちたのが少し前だ。


 きっと血の繋がった姉妹だからという思い込みが、思考に蓋をしていたのだろう。気付いてしまえば、全てが繋がった。それが、これまでに何度か感じた違和感の正体だ。


 そういえば、リタと想いを伝えあったあの日って……。キリカは、宝石を散りばめたような夜空で、唇を重ねあった記憶を呼びおこす。最初こそ緊張はあったものの、やけに慣れた様子でリタが舌を絡ませてきて……。


 手元で聞こえたピキリという音で我に返ったキリカは、慌てて取手にひびの入ったティーカップをソーサーの上に戻す。いつしか、エリスの部屋で起きた惨劇を繰り返さないために。


「……やってくれるじゃない」


 思わず声に出てしまった自分を恥じつつ、キリカは考える。あの姉妹が、行為云々は置いておいて、既にそういう関係だとは考えにくい。


 リタ・アステライトは良くも悪くも隠し事が下手だ。観測者がそれを踏まえてわざと情報を制限しているのではないか、と思えるほどに。


 それは前世と同じで、彼女の本質なのかもしれないとキリカは思う。芯が強くて、正直で。でもちょっぴり涙脆かったり、何かに強く執着したり。そんな人間らしいところに、自分も惹かれたのだ。


 だからきっと、リタにとってエリスはまだ双子の妹であり、姉妹という関係性のうちと認識しているはずだ。それが世間の真実なのかどうかはさておき――。


 とはいえ、エリスのことは仕方ないと思う部分もある。誰かを好きになるのは、きっと理屈じゃない。敢えて理由付けするのであれば『出逢ってしまったから』であろうか。


 自分だってそうだった。リタの正体を知る前から、同性だからだとかそんな常識を超えて惹かれていたのだから。一緒に暮らしていたエリスが、そうならない理由なんてないだろう。


 だって、私の恋人は世界一だから――。そんな恥ずかしい台詞を浮かべた自分の頭を、キリカは軽く叩いた。色々な感情が絶え間なく脳内を駆け巡っている。


 だが、考えても仕方が無い。何かを決めるのは、リタなのだから。

 キリカはただ、一番で在り続けるという覚悟を魂に刻むだけだ。


 このままでは、休めと言われたのに心が休まらない。頭が納得するのと、心が納得するのはきっと別なのだ。一息吐いて立ち上がったキリカは、備え付けの本棚へと向かう。


 重厚な装丁の本の裏側に隠された、所謂『徒花本』を手に取ったキリカは、その足で部屋の扉の鍵を閉めた。徒花――実を結ばない花――は、王国では同性愛を表す隠語である。


 一部の大貴族の間では、その責務のひとつである子孫を残すことを放棄した人間を揶揄する意味合いで使われることもある。自分も近いうちに、陰でそう言われるようになるだろうか。


 誰からどう言われようが興味は湧かないのだが、リタはきっと心配してくれる。それだけで、十分すぎる程に幸せだ。


 夕方になったら、リタの様子でも見に行こうとキリカは決意する。魔力を暴走させ部屋を荒らしたリタは、エリスから部屋を追い出されたらしい。


(どうせ、なのよね? 昨日の今日だからって、気を遣ったんでしょうけど。……って、これじゃ本当に埒が明かないわね)


 不敵な笑みを浮かべるエリスの顔が脳裏を過り、キリカは思わず天を仰いだ。


 気分転換とばかりに、すっかり冷めた珈琲を飲み干す。底に溜まっていたのであろう大量の砂糖が喉を通る感触は、あまり心地よいものではなかった。


 しかし、思考をリセットすることには成功したようだ。キリカは、今度こそ休日を満喫すべく本を開く。そして、空想上の少女たちの物語に没頭していく。


「えっと、これは流石に私たちには早いわね……。え? 女の子同士で、こんなことまで……っ!?」


 真っ赤な顔で本に熱中する少女の心が、本当に休まったのかどうかは定かではない――――。




「――――して、ヌシはいつまでここにおるつもりなのじゃ?」


 不機嫌そうに頬杖をついたアンバーの声に、リタは頬を掻いた。元より手入れをしていなかったことは明白だが、アンバーの長い赤髪は縮れており幼さの残る顔も煤まみれだ。


「いやぁ、帰りたいのは山々なんだけどさ。決死の覚悟で来たのに、思ったより早く終わったから戻りづらいというか?」


 遂に今朝、観測者から例の情報が送られてきたのだが、事前に言われていた通り、頭が割れるような苦痛をリタにもたらした。


 あまりの痛みに魔力の制御が効かず、触れたものを片っ端から壊す自分の姿に、エリスも流石に呆れたのだろう。


 エリスに手を掴まれたかと思えば、聖剣ミストルティン(仮)と一緒に王都郊外に転移させられていた。あまりの頭痛に魔法が使える訳もなく、必死の思いでここまで走ってきたのだ。


 実際のところ、リタには戻りづらい理由がもうひとつあったのだが、彼女はそれを認めることは出来なかった。昨日のエリスとキリカとの一件を聞いても、両方にはぐらかされたから拗ねているなんてことは。


 ここは、王都より数十キロ離れた山林の一角。山頂付近にあるこの場所は、巨大な窪みのようになっており、周囲を高い岩壁が囲っている。


 ここまでの道のりは非常に険しく、人間が通りかかることはまず無いと言ってもいいだろう。だからこそ、リタとアンバーにとっては都合がよく、魔力譲渡をいつもここで行っていたのだ。


 そんな窪みの中央付近はまるで竜巻が通り過ぎた後のような有様で、なぎ倒された木々が散乱していた。


 魔力が暴走し続ける限り、何処にも行けない。とりあえずアンバーに魔力を吸わせよう。そう思って来たのは良かったのだが、彼女の寝床である洞窟を崩落させてしまった。


 それにキレた竜形態のアンバーとじゃれ合っているうちにこの有様である。ようやく頭痛も治まってきたところだ。情報の整理でもしながら、前より立派な寝床でも作ってやろう。


 リタはそんなことを考えながら立ち上がると、大きく伸びをして身体をほぐした。そうして、アンバーに寝床を作ってやることを伝えると、彼女は胡散臭そうな視線を向けてくる。


 事実、アンバーには不安しかなかった。だが、そんなことはリタにはどうでも良かったのだ。今、彼女の心は万能感に満ちていた。


 多少の頭痛はあったが、こんなに簡単に専門知識が頭に入るとは……。今更ながら、もっと沢山要求しておけばよかったとリタは強く後悔する。


 だが、それでも、この世界にとっては余りにも最先端で凄まじい知識を自分が持っていることには違い無い。思わずだらしなく頬が緩む。


「ぐへへ! 遂に超天才完璧美少女になってしまった!」


「ひっ!? ヌシ、顔面が崩壊しておるぞ!?」


 おっといけない。リタはアンバーの声で少しだけ表情を引き締めると、垂れそうになっていた涎を服の袖で乱雑に拭った。


 そして、まるで昔から存在している記憶を思い出すような感覚で情報を呼び出す。観測者から送られてきたのは、惑星魔法を構築するために必要な軌道計算関連の基礎知識や観測のための知識だ。


 ――――おかしい。


 最初に感じたのは違和感だった。違和感はすぐに恐怖に変わる。リタは思わず頬が引き攣るのを感じた。


 例えるなら、何かを始めようとした初心者が、見るだけで吐き気を催すような分厚い専門書を手渡されたような絶望。目の前に辞書があるのに、そもそも何をどう引けばいいのかすら分からないという感覚。


「もしかして、お勉強しなきゃ……ダメ、なの……?」


 全身から急激に力が抜けていく。リタはそのまま膝から崩れ落ち、仰向けに倒れ込んだ。


 視界にあるのは、大きな空。

 その向こうに在るはずの星の海は、果てしなく遠い。


「はは……。はははは…………」


 乾いた笑い声を響かせ絶望に暮れるリタの姿に、アンバーはただ首を傾げることしか出来なかった。




「あの童貞クソ野郎! ぶっ殺してやる!!」


 それから暫くの時間を置いて、ようやく再起動を果たしたリタは岩壁を殴りつけていた。一発一発に観測者への殺意を込めながら、岩壁を砕いていく。


「絶対許さん。わざとだろ? わざとなんだろ!? 何とか言ってみろオイ!」


 無論、岩が喋る訳もない。アンバーは頬を引き攣らせながら、怒れる背中に声を掛けてみた。


「おーい、小娘? ぼちぼち、例の装甲車を襲撃する話をしておきたいんじゃが……」


 アンバーの声はどうやら届いていないようで、リタは一心不乱に拳を振り抜いている。一応あれでも、寝床を作っているつもりらしい。


 周囲の岩壁にも大きくひびが入っており、今にも崩落しそうだ。例え立派なものが完成しても、あそこでは寝ないようにしようとアンバーは決意する。


「それにしても……。あんなのがまともに生活できておるとは、人間とは本当におおらかで恐ろしい生き物なのじゃ」


 そんな時であった。アンバーの鋭敏な感覚器官が微かな魔力場の乱れを感知する。人化していてもその鋭さは決して鈍らないのだ。


 リタの方も、相変わらず人間離れした感覚で察知したようだ。二人が同時に視線を向けた先に、予想通りの人物が現れる。


「あら? もう頭痛は治まったのね?」


 そう声を発したのは、アンバーが人類の中で最も恐れる人物のひとり、キリカであった。途端に照れたような笑みを浮かべたリタが頷く。


 変な笑みを浮かべたかと思えば絶望に暮れ、突如激昂し岩壁を殴っていた少女と同一人物とは思えない。思わずアンバーは呆れたような声を漏らす。


「のうリタ? ヌシ、余りにも情緒が不安定過ぎんかの?」


 聞こえるのはリタの抗議の声と、キリカの諌める声。それに続いたのは、自分の腹の音だ。せめて美味しい物でも食べさせてもらわないと、今日のことは割に合わない。


 さっきから、キリカの荷物からいい匂いがしているのだ。空は、もう間もなく茜色に染まり始めるだろう。


 こちらを見て、分かってますよと微笑むキリカと、その隣でニヤニヤと下品な笑みを浮かべるリタ。そんな二人に肩をすくめつつも、アンバーは自然に頬が緩むのを感じていた。

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