イカれ女と生存本能 2
アリサことリタが、アレクに向けて殺気を放っていた頃。客席では、第四王子親衛隊長のエドガーが思わず腰の剣に手を掛ける一幕があった。
的が絞られた純粋な殺気である。恐らく、他の親衛隊員たちでは、その異常さに気付くことはないだろう。
流石に万が一のことがあっては困る。エドガーが腰を落とし、今にも飛び出そうとしたその瞬間のことであった。
「――やめておけ、若造」
一瞬でもタイミングがずれていたなら、きっとそのまま後方に斬りかかっていただろう。後ろから聞こえたのは、一人の男の低い声であった。
エドガーは、短く息を吐いて跳ね上がった心拍を落ち着けると、振り向かずに口を開く。
「ご機嫌はいかがですかな? ユーヴェリア辺境伯閣下」
「無論、絶好調じゃとも」
おどけたような響きのその声に気付いたのであろう。周囲の親衛隊員たちが慌てて、姿勢を正すのが視界に入った。
動きが遅い、後で説教だな。そう思いながらも、エドガーはあくまで冷静な声を発する。
「昔から言ってますが、気配を隠して後ろに立つのはやめて貰ってもいいですかい? 危うく斬り殺しちまうとこでしたぜ?」
「フォッフォ! 若造が、言うようになったもんじゃ。それは楽しみじゃわい!」
機嫌の良さそうな声に、緊張は感じられない。恐らく、
一度アリサから視線を外したエドガーが振り向いた先に居たのは、ダニエル・ド・ユーヴェリア辺境伯その人であった。
既に髪や髭の殆どは白く染まりつつあり、顔にはいくつもの深い皺が刻まれている。だが、その顔に漲る生気とその眼光に、衰えという言葉は無縁にも感じた。
少なくとも、先日まで病により死の淵に居たはずの人間とは思えない顔である。病が治ったからだということを差し引いても、明らかに以前より若々しい。
エドガーはそんなダニエルに、軽い笑みを浮かべて会釈をする。無礼には違いないが、彼はそれを許す男なのだ。アレクが辺境伯の領地で修行していた当時のことを思い出すと、今でも頬が引き攣る。
エドガーは、何故かダニエルに気に入られ、アレクよりも壮絶にしごかれたのである。勿論、当時のアレクが子供であったことを考えれば、エドガーの方が厳しい修行を課されるのは至極当然ではあるのだが。
そうは言っても、当時のダニエルの顔を思い出すに、退屈凌ぎにおもちゃにされていた感は否めない。
今となっては、真面目に修行に打ち込んで良かったとは思っているが、当時は毎日が地獄であった。何度職を辞そうと思ったことか――。
エドガーは、次々に浮かび上がる苦々しい思い出を無理やり振り払うと、あくまで冷静な笑みを顔に張り付けて口を開く。
「閣下も訓練のご見学ですかな? それにしても、お嬢さんの殺気は何ですかい? 何と恐ろしい」
「恐ろしい? 美しい、の間違いじゃろうて。あれ程までに純粋で真っすぐな殺意を持てる人間など、儂の人生でも片手で数えられる程しか会ったことが無いわい」
そう言い切るなり、髭を撫でながら不思議な笑みを漏らすダニエルに、エドガーは苦笑を返した。
確かに、鍛えられた武人であっても、本当に純粋な殺意を持つことは難しい。基本的に、人は誰かに殺意を覚えるときには、何処かに感情や理由が混じってしまうものだ。
それは、エドガーにもよく分かっている。だからこそ、あそこまで研ぎ澄ますことが出来る異常性が恐ろしかったのだ。
黙考していたエドガーであったが、更に一段階強まる殺気を感じ、その視線を訓練場の中央で向き合う少年少女に戻した。そんな大男の姿に、ダニエルが小さく零す。
「相変わらず過保護じゃのう」
「こちとら、それで飯食わして貰ってる立場ですんでね。お嬢様にも、あんまり俺たちの心臓に悪いやり方はしねえで欲しいんですが、陛下がご許可を?」
「さぁ、どうかのう?」
ダニエルは、笑いを噛み殺したような声でそう返した。振り返らずとも、その表情が容易に想像できる声であった。
だが、「さて、顔も見れたことじゃ。老人は退散するとしようかの」と続いたダニエルの言葉に、結局エドガーは振り返ることにはなったのだが……。
視界に入るのは、踵を返したダニエルの後姿。濃緑色のローブに、後ろで結ばれた白髪が揺れている。相変わらず背筋の伸びた背中に、エドガーは問い掛ける。
「見届けなくていいんですかい?」
敢えて「何を」とは言わなかった。それでも、彼の男には通じるだろうという確信があったのだ。だが、ダニエルは肩をすくめると、首を横に振りつつ呆れた声を返した。
「……まだまだよのう。丁度、終わったとこじゃわい」
「――なっ!?」
慌てて振り返るエドガーの耳に、衝撃音が届いた。既に訓練場の中央から二人の姿は消え失せており、慌てて視線を音の方向に向ける。
その目に飛び込んだのは、訓練場の石壁に埋もれるアレクと、彼の胸を金属棒で刺し貫いているアリサの姿であった。遠目ではよく分からないが、間違いなく致命傷である。
エドガーは声にならぬ叫びを上げ、即座に走り始めた。ダニエルの様子を鑑みるに大丈夫だとは思いたい。だが、即死もあり得る位置と深さである。理屈ではなく、身体が動いていた。
客席から大きく跳躍し訓練場に降り立つエドガーの背中に、ダニエルは溜息と共に届くはずがない言葉を掛ける。
「あんまり心配し過ぎるとハゲるぞい? まだ、ほんの始まりに過ぎんというのに。……のう? ジ・エンド様」
小さく笑いを漏らしながら、ダニエルは虚空に声を投げる。返答を期待しての言葉ではない。近くに居るのではないかという気がしただけだ。
ちらりと養女のほうに視線を向ければ、こちらを向いて小さく頷いていた。やはり、心配するだけ無駄というものだ。
ダニエルは満足そうな笑みを浮かべると、慌てふためく親衛隊員たちを尻目に、今度こそ訓練場を去って行った。
石壁に埋もれるアレクは、どうにか片目を開くことに成功していた。訓練場の壁は、衝撃を吸収できるよう多少崩れやすく設計されているが、それでも壁の染みになる結果を免れただけの話だ。
視界はぼやけているが、近くにあるアリサの顔と、その後ろにいるであろうエドガーらしき姿はどうにか認識できていた。
胸に刺さった金属棒は、筆舌に尽くしがたい痛みをもたらしている。全身から力が抜けていく感触と強い悪寒を感じながらも、アレクは唇の端を微かに吊り上げた。
もう力が入らない右手から滑り落ちていくのは、ボロボロに刃こぼれした愛用の長剣。散らばる石材の間を転がり落ちるそれが発した金属音は、やけに澄んだ音色に聞こえた。
アリサの突きは、確実に死に至るであろう一撃であったのだ。心臓を破裂させ、この命を奪うための。
だが、アレクの心臓は弱々しくも未だに鼓動を刻み続けている。金属棒は微かに心臓を逸れた位置に刺さっていた。
何も覚えていないが、どうやら生き残ったらしい。何か変な音を聞いたような気もするが、よく分からない。凌ぎ切ったと言うと語弊があるだろうが、少なくとも即死は免れたようだ。
身体が動かないのは情けないし、放っておいたら数分で死ぬだろう。だが、心は晴れやかだった。まだ魂は諦めていないのだと、知れたからなのかもしれない。
とりあえず誰か治療してくれ、と言いたかった。だが、口から漏れるのは気泡だらけの血液と、耳障りな呼吸音だけだ。
周囲の音が遠くなっていく。皮膚が数十倍の厚さになったのかと思うほど、感覚も鈍い。おぼろげに視界に映るのは、きっと笑みを浮かべているのであろう少女の顔。
「ほら、やればできんじゃん! アレク」
「――リ、タ…………?」
意識が朦朧としているせいだろう。ここには居ないはずの少女の声を聞いた気がして、アレクの口からはそんな声が漏れた。
アリサの慌てたような声が聞こえる気がするが、最早何を言っているのか分からなかった。ようやくこっちが重症だってことに気付いたのかもしれない。
それにしても、また勘違いされるような言動をしてしまった気がする。こんなだから、意識してるってエドガーにからかわれるのだろう。
ああ、起きたら何て言い訳しようか。いや、触れない方がいいだろうか。このまま死ぬかもしれないのに、こんなことを考えてるから俺は馬鹿なんだろうな……。
アレクは、ただ眠りに落ちるような感覚に身を任せ、その意識を手放した
「予定は狂ったけど、ひとまずこの段階はクリアっと」
リタは、寝かされたアレクに回復魔術を掛けているエリスの背中を眺めながら呟いた。今回は、かなり短期間で鍛え上げなければならない。多少手荒な真似は仕方が無いとは思っている。
(一応、アレクが普通に本気出したとしても殺せる速度で踏み込んだから、半分賭けだったんだけどね)
周囲にばれないように、胸を撫でおろしたのは言うまでもない。だが、アレクは自身の限界を超えて見せたのだ。
ほんの一瞬ではあるが、アレクは肉体性能だけでは決して到達できない領域に達していた。血のなせる業か、それとも――。
「
ぶつぶつと呟きながら思考に耽るリタであったが、近寄る気配を感じその口を閉じた。やがてリタの足元に、大きな影が落ちる。
「嬢ちゃん、少し話がある」
リタは、影の主エドガーの言葉に頷くと、訓練場の端へ向かって歩き始めた。彼もこちらの意図を察してくれたようで、黙って付いてくる。
そうして周囲の人間から十分に距離をとったところで、リタは頭を下げた。あくまでアリサとして、優雅に自信を崩さず。
「ご心配をおかけしましたことは、お詫びしますわ。ごめんあそばせ?」
「さっき殿下と打ち合った時、何か見なかったか?」
リタの謝罪の言葉を歯牙にもかけず、エドガーは石壁にもたれると真剣な顔でそう発した。
(前と違う態度で来られるのもやりずらいなぁ。こっちが知ってるってことは悟られない方がいいのかな? んー、でもあの状況で見逃す訳もないもんね)
「ええ、見ましたわ。あの一瞬、殿下の身体を覆うような光を。説明は…………いただけませんのね。理解しましたわ。口外もいたしません」
「話が分かるようで助かる。くれぐれも、頼む。後の二人にも伝えておいてくれ。邪魔して悪かった」
エドガーはそれだけ言うと、ひらひらと手を振りながら歩き去っていった。リタは小さくため息を吐きつつ、ダニエルが顔を見せてくれたことに感謝していた。
おかげで若干ではあるが、親衛隊員からの不信感が払拭できた気がするのだ。勿論、実力を見せて尚且つギリギリのところを攻めて成功させたということも大きいのだろうが。
「クライオベルン、か――――。アレクの奴、知った時に変に考えて思い詰めなきゃいいけど。ま、それは流石にお節介か」
ダニエルから聞いてもいないのに聞かされた情報を反芻しながら、リタは目を覚ましたらしい少年の方へ歩き始めた。
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