その少女の名は

 グランヴィル王国の暦が、地の月の中旬に差し掛かろうかというある夜のこと。王国の中で、恐らく最も贅を凝らした建造物である王城の一室にて、一人のダークエルフが大男を前に跪いていた。


「――――よしてくれ、師よ」


 威厳のある低い声の中に、確かに困惑を滲ませた声色で大男はそう発した。男にとって、目の前で傅くロゼッタは、学生時代の恩師であったからだ。そして今は、彼の四男の担任でもある。


 そんな声に、ロゼッタは小さく「すまないな」と言いながら立ち上がる。王城の他の人間が見ていたら、その不敬な態度に卒倒してもおかしくない所業であった。


 何故ならば、ロゼッタの前にいる男の名こそ、イグニシアス・フレイア・ルヴェル・フォン・グランヴィル。――グランヴィル王国の現国王であったのだから。


「また老けたな? イグニシアス」


 ロゼッタは、何処か懐かしいものを思い出すような笑みを浮かべている。数十年前、まだイグニシアスが少年だった頃の面影を探しているのかもしれない。


 そんなロゼッタの不敵な様子に、イグニシアスも肩の緊張を解く。立場上仕方が無いとはいえ、師と仰ぎ、心より尊敬する人を傅かせることは、心地の良いものではなかった。


 そもそも、ロゼッタを跪かせることのできる人間など、世界中を見渡しても数名しか存在しない。


 永きを生き、多大な国家への貢献を果たしてきたロゼッタである。人間種が殆どを占める王国においては、王宮からの微妙な感情こそあれ、歴代の国王とは悪くない関係を築いてきた。だからこそ、お互いに今があるとも言えるだろう。


「師は相変わらず美しい。全く羨ましい事だ」


 このやり取りも何度目だろうか。そして、残りの人生で後何度繰り返すことが出来るだろうか。イグニシアスは、長く伸びた髭を撫でながら、皺が増えた顔を綻ばせた。


「早速ですまないが、イグニシアス。無理を通して貰いたい件がある」


「うむ、他でもない我が師の頼みだ。勿論、余が叶えられる範囲で聞こうとも。丁度、こちらも師に頼みたいと思っていたことがあったのだ」


 イグニシアスはそう言うと、唇の端を吊り上げた。ロゼッタもまた、視線を細めている。そうして始まった、二人の会談は夜遅くまで続いたという。




 王立メルカヴァル魔導戦術学院、第一学年、特別魔導戦術クラス――。その教壇に立つのは勿論、学院長であり、この選抜クラスの担任を務めるロゼッタ・ウォルト・メルカヴァルである。


 胸元の空いた、黒と赤のドレスを纏う彼女は、その美しい顔に若干の疲れを滲ませながら、目の前の生徒達に話し始めた。


「さて、早いもので地の月も下旬となった。来月の戦術大会のことを気にしている者も多いが、先に伝達事項を二点、話しておこう。まず、一点目。リタ・アステライトだが、一身上の都合により、本日より暫く休学することになった」


 ロゼッタの言葉に、教室はざわめきに包まれることになった。そして、誰もが後方の席に座るエリスの方に視線を向けるも、彼女はただ苦笑いで「たいしたことじゃないから」と言うだけだ。ラキやモニカからの訝しげな視線は、キリカにも及ぶことになったが、キリカも軽く肩をすくめるだけであった。


 そんな中、最後列の席で、椅子から転げ落ちそうになっていたアレクの脳裏には、先日のリタの言葉が過っていた。そう、大貴族の弱みになりそうなことを知っていたら教えて欲しいというアレである。


(リタの奴、いきなり休学とか何かあったのか? 大貴族の弱みを握りたいとかアホなこと言ってたが、まさかトラブルに巻き込まれてたりしないよな? いや、妹の様子を見るに、大丈夫なんだろうが……。後で聞いてみるか)


 どちらにせよ、自分が考えたところで、答えなど分からないだろう。正直、妹の方は苦手なのだが、表面上は婚約者であるキリカよりは幾分マシだ。


 そんなことを考えていたアレクだが、ロゼッタの咳払いで、その意識を現実に引き戻されることになった。同じく、即座に静けさを取り戻すクラスメイト達を視界に収めながら、しっかりと椅子に座りなおす。


 だが、ロゼッタの次の言葉で、アレクはもう一度椅子から転げ落ちそうになるのであった。


「――二点目だが、本日よりこのに編入する生徒がいる」


 教室は、正しく喧噪に包まれたと言ってもいいだろう。この中途半端な時期に、編入生を迎える? しかも、この学級に? 誰もがそんな疑問を抱き、友人と顔を見合わせる中、アレクはただじっとロゼッタの次の言葉を待っていた。


 この学級で過ごしたのは半年程度であるが、中々濃い面子が揃っている、とアレクは感じていた。人間性は勿論のこと、特に武力という点において、である。


 アレク自身、自分が入学する年に特戦クラスが開設され、あまつさえ自身がその一員になるということの特別さは、よく知っているつもりだった。……もしかしたら、自分には立場上多少の忖度があったかもしれないが。だからこそ、武闘大会を経て勝ち取ったクラスメイト達が不憫に思えてならなかったのだ。


 だが、ロゼッタはそんな教室の様子は無視して、一際疲れを滲ませる顔で「入れ」と短く発した。既に、件の編入生は教室の外で待っていたようだ。


 教室は一瞬にして沈黙に包まれ、誰もが扉に注目している。扉に嵌めこまれた擦りガラスに映る小柄な影。

 そして、その扉は勢いよく開け放たれた。


 誰かが、固唾を飲んだ音が聞こえた気がした。そこに居たのは、金髪碧眼の少女。学級には見目麗しい子女が多いとはいえ、確かに息を飲む美しさだ。よく手入れされていることが伺える艶やかな長髪を二つに結び、それぞれが綺麗に巻かれている。


 教室には、ただ少女が歩く足音だけが響いていた。そして、教壇に立った少女は、その自信に満ち溢れた両目で教室を見渡すと、笑みを浮かべて優雅な礼を見せる。


 手入れが大変な髪型に、さり気なく手首に嵌められた上品な腕輪。そして、若干作り物っぽさはあるが、気品のある所作。よっぽど裕福な家庭で育ったのだろうと、アレクは考えていた。だが、そんな考えは、次の言葉で覆される。


「皆さま、お初にお目にかかります。わたくし、アリサ・ユーヴェリアと申します」


「ユ、ユーヴェリア……だと……ッ?」


 アレクが思わず漏らした呟きは、他の誰かの似たような声に掻き消されていく。それは、王国に暮らす人間にとって、特別な意味を持つ名前のひとつ。


 ユーヴェリアの名で、誰もが思い浮かべる人物は、ダニエル・ド・ユーヴェリア辺境伯であろう。


 曰く、七千の兵卒を率い、二万の敵軍の侵攻を凌ぎ切った名将。

 曰く、自身も武術を極め、常に最前線に立つ武人。

 曰く、目下戦争継続中のダルヴァン帝国との国境周辺の広大な領地を治める人物。


 ――多くの王国民にとってのユーヴェリア辺境伯は、そんな人物である。


 今現在、既に齢は七十を超えているが現役であり、王政への影響も大きい男だ。そして、アレクとは少しばかり縁のある人物でもあった。


 だが、彼は少なくとも数か月前までは独身だったはず。ということは、目の前にいる少女は養子なのか? そんなアレクの疑問に答える訳ではないだろうが、アリサと名乗った少女は胸に手を当て口を開く。


「皆さまの疑問は、ごもっともですわ。ええ、ご想像通り、ユーヴェリアですわ。わたくし、養女となりましたの。――それ以前の出自等に関する質問には一切お答えできませんので、どうぞご容赦くださいまし? どうしても聞きたいのであれば、、父まで」


 アレクは絶句していた。少なくとも、アリサは大貴族の養子として迎えられた人物だ。王宮の名を出すことの意味を理解していないはずがない。そんな少女が、自らの出自は明かさないと明言し、何か文句があれば王宮を通せと言っているのだ。


 その言葉が意味することは、明白である――。

 アレクは、自らが至った結論に寒々しい怖さを感じながらも、その視線は自然とアリサに吸い寄せられていく。


(というか、あのアリサってやつ、なんであんなに胸張ってんだ? いや、確かに立派なものをお持ちなようだが)


 アレクという人間は、幼いころから王宮で育ったこともあり、他人を観察する術には長けている。だが、残念なことに、それを生かすほどの知能を持ち合わせていなかった。しかし、それが彼にとって不幸であったかと言えば、否と答える人間も多いだろう。


 アレクは、教壇で笑みを浮かべているアリサに、どことなくちぐはぐな印象を感じていた。そして同時に、不思議な親近感を抱くも、その正体を掴めずにいたのだ。


 しばらく考え事に没頭していたアレクであったが、顔を上げれば何かロゼッタが補足している。どうやら、アリサは件の戦術大会の選手として内定しているらしい。クラスメイト達の微妙な空気を感じ取ったのか、アリサは不敵な笑みを浮かべて告げる。


「皆さま、さぞご不満かと思いますけれど、わたくしの実力を目の当たりにすれば、理解できるはずですわ。……大した自信だとお思いでして? いいえ。これは単なる事実、ですわ」


 腰に手を当て、ふふん、と鼻を鳴らすアリサに、アレクは思わず今日から休学している友人の姿を重ねてしまった。丁度身長も近い気がする。何より、あの獰猛な両目である。……とある部分のボリュームは天と地の差だが。


 勿論、アリサからそんな言葉を掛けられれば、教室の雰囲気は一変するというもの。ロゼッタが、「仕方が無い」と棒読みで言いながら、午後の授業の休講と、訓練場を貸切っておく旨を話せば、更に熱気が高まっていく。


「せめて少しくらいは、楽しませてくれることを期待していますわ。万が一、ですが……。わたくしの背を地につけることが出来た人には、この身の全てを捧げてもよろしくてよ?」


 そう言って、凶暴な笑みを浮かべたアリサに、特に男子生徒の熱気は最高潮に達する。だが、「ただし――」と続けたアリサの底冷えするような視線で、教室は静まり返る。


「数秒と持たず、無様に這いつくばるような弱者は、分かっていまして? 今後一生、わたくしを――――」


 一度言葉を切ったアリサに、教室中の視線が突き刺さる。そんな緊張感すら楽しむように、アリサはこう発した。


「アリサお嬢様とお呼びッ!!」


「また頭のやべー奴が来やがった……」


 アレクの口から漏れた言葉は、静まり返る教室にやけに大きく響いた。

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