嫌いになれたら、もっと簡単だったのに

 リタに促され、虚数領域と彼女が呼んでいた場所から帰還したキリカは、姉妹の寝室にいた。リビングには何度も足を運んだことがあるが、最初に家具を運んだ時を除けば、寝室に入るのは今夜が初めてである。仄かに香る甘い香りは、姉妹のどちらのものだろうか。何となくそわそわした気持ちを抱きながら、キリカはリタの寝顔を眺めていた。


「遅いわね、リタ」


 キリカは、エリスから受け取った清潔なタオルで自分の顔を拭いつつ、そう漏らした。もう窓の外の空は白み始めている。あまり遅くなるようなら、先に家に帰らないと面倒なことになるに違いない。キリカはそう思いつつも、せめてリタの帰還を確認するまでは隣に居たいと思っていた。


 キリカとエリスは、ベッドに寝かされているリタを挟んで、それぞれ両側で椅子に腰かけている格好だ。キリカは、そう言えばエリスと二人きりで話す機会は、あまり設けてこなかったなと思う。彼女の姉と、恋人同士になってからは特にそうだ。どうしても気恥ずかしさや、よく分からない感情が渦巻いてしまうのだ。キリカはそんなことを考えながら、その視線を上げた。


「そうだね」


 エリスはそう短く返事を返しながら、リタの顔を綺麗に拭いている。キリカは、ほんの少しの居心地の悪さを誤魔化すように、天井を見上げると口を開いた。


「やっぱり、先ほどエリスさんが見せてくれた算術式らしきものは、あの観測者からのメッセージだったのかしら?」


「今のところ他に考えられないし、そうじゃない? とりあえず、キリカちゃんの記憶はとても役に立ったよ。ありがとう」


 そう言ってエリスは優しく微笑む。エリスとキリカの虚数領域への次元跳躍を可能にしたのは、エリスがノートに書き写していた何らかの文字列らしきものであった。キリカの微かな記憶を頼りに読み解いた結果、示されていたのは虚数解。虚数という概念を思い出したキリカが導いた座標こそ、件の領域であったのだ。


「私にもう少しはっきりとした記憶があれば良かったのだけれど……。そうすればきっと、さっきの話だってちゃんと聞けたはずよね」


 自嘲気味に話すキリカを見て、エリスは複雑そうな表情を浮かべた。キリカはその表情の意味を計りかねていたが、少なくともあまり心地よい雰囲気ではなかった。もしかしたら、疎外感を感じているのかもしれない。


 エリスもそんな微妙な空気に気付いたのか「とりあえず、お茶淹れるね」と言うと、立ち上がって台所の方へ向かっていった。


「……ごめんなさい。エリスさんだって、大切な友人だけれど……。初めて出来た恋人の妹にどう接したらいいかなんて、私にはまだ分かりそうに無いわ」


 キリカはエリスに聞こえないようにそう呟きながら、リタの左手をそっと握った。




 すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干したキリカは、手で口を覆い隠しながら欠伸を噛み殺す。公爵令嬢としてははしたない姿かもしれないが、こんな姿を見せられるほどには、エリスとは仲良くなったと思っている。とはいえ、とりあえず今日の所は、早くリタに目を覚ましてほしい。キリカは続く沈黙の中、強くそう願っていた。


(けれど、こんな機会もあまり無いし……。色々聞きたいことがあるのは確かなのだけれど)


 キリカは、意を決して魔導書を眺めているエリスに声を掛けた。


「あの、エリスさん。少し、いいかしら? その……」


 キリカの歯切れ悪い問い掛けに、エリスは本から視線を上げると首を傾げた。キリカの胸中には、このまま誤魔化そうかという考えも過る。だが、キリカはそれを許容することなど出来なかった。一番大切な人が、大切に思っている存在だ。蔑ろになんかしたくない。少なくとも、あの日エリスがくれた祝福の言葉は、本音だったという確信もあった。


「私と、リタのこと……、どう思ってる?」


「どういう意味?」


 細められたエリスの視線を受け止めつつ、キリカは口を開く。何だか、眠たいのか眠たくないのかも分からない。どこか思考に靄がかかったかのような、そんな感覚だ。だからこそ、キリカは普段の彼女であれば察したであろうことも察せなかった。


「お、女の子同士で、恋愛とか……、そういうの」


「キリカちゃん? 逆に聞くけど、私が何か言ったところで、二人の関係性が変わることがあるの?」


 真っすぐにこちらに向けられた視線の意味を理解したキリカは、ばつが悪くなって視線を下げた。自分は今、彼女を慮るふりをして自らに都合のいい言葉を求めようとしていたのだと気付いたのだ。


 色々なことがありすぎておかしくなっていたのか、刻限が迫っていることを知って急ぎ足になっていたのか……。分からないが、言わなければならない言葉は知っていた。


「……ごめんなさい」


 罪悪感と羞恥に塗れた顔で頭を下げるキリカに、エリスは優しく声を掛ける。


「いいよ、キリカちゃんの気持ちは……、よく分かるからね。――――そんなこと言ったら、私なんて……」


 エリスの言葉は尻すぼみになって、後半は聞き取れなかった。だが、キリカは聞き返すことなど出来る筈もなく、床を眺め続ける。そんなキリカの様子を気遣ってか、エリスは明るい声色で続けた。


「私はね、この人が幸せなら、それだけでいいんだ。どんなことだって受け入れるし、お姉ちゃんの選択の全てを肯定してあげたい。……勿論、もうちょっと常識は覚えて欲しいなって思うから、駄目なとこは言うけどね? まぁ、こういうことを言ったら、皆シスコンだーって私のこと言うんだけど……。でもね、多分私も、キリカちゃんと同じ。――私には、二人みたいに、前世の記憶なんてないよ? それでも、この人に救われたから、今の私があるんだ。だからこそ今、こうやって生きて、笑っていられる」


 一度言葉を切ったエリスに、キリカは頷いた。エリスが自分のことをこんなに話してくれるのは初めてかもしれない。リタに救われたから、今がある。その言葉が意味するところを、キリカは知らない。それでも、彼女の語る想いを、しっかりと自分の胸に刻んでおきたいと、そう思った。


「――きっとこれからお姉ちゃんは、どんな壁も、障害も、なぎ倒して進んでいくんだと思う。でも、お姉ちゃんだって一人の人間だから……多分。いつか、悩んだりとか、止まったりすることがあるかもしれない。そんな時に、背中を押せたり、寄り添えたり、窘めたり、あるいは力になれるような人が居て欲しいって思うんだ。その中で、お姉ちゃんが一番に必要とするのは間違いなくキリカちゃん。その次に、私の両親なのかな。……私はね、私もその一員になりたいって思うんだ。傲慢だって、思うかな? ただ救われて、生かされている立場の私がこんな考えを抱くなんて」


 エリスの問い掛けに、キリカは静かに首を横に振った。自分だけは、その問いかけに対して、首を縦に振ることは出来ないと、痛いほどに理解していたのだ。


「いいえ。さっきエリスさんが言ったように、私も同じよ。リタとの未来を、望んでしまった身なのだから」


 胸に手を当てて、真っ直ぐな視線でそう話すキリカ。その言葉に宿ったキリカの感情を受け止めながら、エリスは口を開く。


「……ありがとう。お姉ちゃんがね、以前私に、好きに生きろって、言ってくれたんだ。多分、私の考えはお姉ちゃんが言いたかったこととは違う。でも、ずっと決めてたから。この人の為に、私がそう生きたいんだって。……ごめん。なんか、恥ずかしくなってきちゃった。また、そのうち話そう? たまには、お姉ちゃん抜きでね。――だから、うん、結論! キリカちゃん、これからもお姉ちゃんをよろしくね。それが、お姉ちゃんにとっての一番だから。……ずっと、ずっと、だよ?」


「言われるまでもないわ」


 キリカはエリスの言葉に力強く頷いた。


 もし、誰からも受け入れられないとしても、キリカやリタが自分の道を違えることなどないだろう。


 歪な生まれで、目的のためなら人々の信仰する神でさえ殺すと誓った、あまりにも罪深き二人だ。一人じゃない、孤独じゃないという幸せだけを噛み締めながら生きていくのだと、そう思っていた。


 だが、この世界には、そんな自分たちを受け入れ、応援し、共に歩もうとしてくれる人がいるのだ。それが、どれだけ心を奮い立たせるのか。リタも、家族に全てを打ち明けた時、これに近しい気持ちを抱いていたのだろうか。


 キリカは改めて、リタと自分が良き縁に恵まれ生きていることに、深い感慨と感謝を覚えずにいられなかった。


「――――でも、私がこんなこと言ってたって、お姉ちゃんには絶対言わないでね?」


 そうはにかんだ笑みを見せながらリタの頭を優しく撫でるエリスに、キリカはただ、掠れた声で「ありがとう」と、深い礼を返すことしか出来なかった。潤んでしまった瞳を、隠したかった意味もあるだろう。


 とはいえ、エリスは聡明だ。きっと、キリカがその言葉に込めた、いくつもの意味を理解したに違いない。


「ふふ……。お姉ちゃんは多分、キリカちゃんのそういう素直で真っ直ぐなところとか、色々察してくれるとこも、好きなんだと思う。ちょっとだけ、ムカつくなぁ」


 そう言いながら、唇を尖らせるエリスを見て、キリカは少しだけ二人の仲が深まったような気がしていた。キリカは大きく息を吐くと、自らの頬を両手で叩き立ち上がる。


「先ほどは、失礼したわ。――未熟者ですが、これからもよろしくお願いします」


 公爵令嬢らしい美しい礼を見せたキリカに苦笑いを零しつつ、エリスもまた立ち上がる。


「これはこれはご丁寧にどうも。こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます」


 エリスは、そう言いながらキリカに貴族の礼を返す。もうすぐ夜明けだというのに、他に誰もいない部屋で何をやっているのか。どちらともなく笑い合う二人。


「まるで、結婚のご挨拶にお越しになったかのようですね、キリカ様?」


 おどけた笑みを浮かべてキリカをからかったエリスであったが、キリカの反応にはげんなりすることとなった。


「け、けけけけ結婚ッ!? ……いや、その……、それは……。いえ、私だって、そういうことはね、色々と……うん。でも、私たちって――――」


 キリカは両手を頬にあてて、真っ赤な顔で何かを呟き続けている。公爵令嬢のこんな様子を見れただけでも、儲けものということにしておきたいが、こんな調子でこれから大丈夫なんだろうか……。


 エリスの咳払いに気付いたキリカは、どうやら正気を取り戻したらしい。からかわれたことに気付いた様子で、これ以上赤くなるのかとエリスを感心させるほど盛大に赤面しつつ、顔を両手で覆っている。そんな様子に、思わず声を出して笑ってしまうエリスだった。


「うん? お姉ちゃん?」


 そんな時であった。リタの両瞼がピクリと動いた気がして、エリスが口を開く。その声を聞いたキリカは、先ほどのやり取りがよっぽど恥ずかしかったのか、エリスの方を見ないようにしながら、リタの側に駆け寄った。そのままキリカはベッド脇に立つと、リタに覆いかぶさるように腰をかがめて、リタの両肩を揺すり始める。


「リタ!? 起きて!!」


 そんなキリカの声が届いたのかどうかは分からない。だが、確かにリタは大きく目を見開いて、勢いよく起き上がったのだ。


「あんの野ろ――ッ! あいたァ!?」


 リタの声は、途中で悲鳴に変わった。何故なら、その額をすさまじい勢いでキリカの額にぶつけたからだ。響き渡るのは、到底人間の額が出したとは思えない鈍い音。ひざから崩れ落ち、倒れていくキリカを見て、エリスは思わず額に手を当てる。


(ああ、あれは痛い。お姉ちゃん、石頭だから……。可哀そう……)


「いったぁぁぁぁぁい!!」


 涙目で、額を押さえてのたうち回るキリカと、状況が掴めず額をさすりながら周囲を見渡して呆けているリタ。エリスは、そんな二人の様子を見ながら大きなため息を吐くと、姉にお茶でも淹れようと台所へ向かう。


 後ろからは、何やら言い争うような声が聞こえ始めた。きっと姉が、状況を掴めず配慮に欠けることでも言ったに違いない。早朝だというのに、騒がしいことだ。


 窓の外に目をやれば、すっかり明るくなっている。エリスは少しだけ窓を開けて、朝の空気を吸い込んだ。秋の香りを纏う湿り気のある冷たい空気は、火照った頬を冷ましてくれる。エリスは、他の寮生の迷惑にならないよう窓を閉めると、ゆっくりと歩みを再開した。


「――全く。何やってんだろ、私。キリカちゃんのこと、嫌いになれたら、もっとずっと簡単だったのにね? ……ふふ。まあでも、こういうのも悪くないんじゃないかな」


 微笑みを浮かべたエリスの呟きは、誰に聞かれることもない。けれど、その足取りは、いつもより軽やかであった。

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