切れない鎖 1
ベッドに横たわるリタの寝息は荒い。時折、苦しそうに身をよじる姉の身体を冷やしながら、エリスは片時も離れることなくベッド脇に座っていた。
時刻はとうに深夜。下手をすれば、間もなく朝陽を拝むことになるだろう。少しずつ、落ち着きを取り戻しているようにも思えるリタの様子に、エリスが安堵の息を漏らし掛けた、そんな時であった。
リタの鼻から、一筋の鼻血が垂れたのだ。エリスはそれを清潔なタオルで拭いながら、昔はよく姉は鼻血を出していたな、と懐かしい気持ちになっていた。少なくとも、熱を出して倒れるようなリタの姿をエリスは知らなかったし、どうにかそういう方向に思い込もうとしていたと言い換えることも出来るだろう。
「お姉ちゃんは、またえっちな夢でも見てるのかな……? そうだったら、いいのにね」
エリスは、静かにそんなことを呟く。そして、右手から魔術で冷気を出しながら優しくリタの頭を撫でた。それで何かが改善するという事もない。既に、回復魔術も試したが、何の効果も得られなかった。それでも、エリスの目には、ほんの少しだけリタの苦悶の表情が和らいだような気がしていた。
だが、エリスのそんな努力も虚しく、リタの身体が強張るのが分かった。止まらない鼻血はその量を増やしていく。
「これは……!?」
思わずエリスは唇を噛んだ。リタの固く閉じられた双眸から流れ落ちる血液に気付いたのだ。エリスは、即座に回復魔術を連続行使しつつ、立ち上がる。
キリカちゃんに、伝えないと―――――。
そんな時であった。壁に掛けられた、姉のミスリルの長剣が明滅していることに気付いたのだ。エリスの視線は、その輝きに吸い寄せられる。
(お姉ちゃんの鼓動と呼応してる? 何故気付かなかったんだろう。いや、状況が変わった、のかな?)
エリスは瞬時に、脳内であらゆる可能性を検討する。あの長剣の正体を鑑みるに、例の観測者とやらが姉にコンタクトを取っているという可能性が最も高いのでは無いだろうか。
だが、リタの様子は尋常ではない。まだ見ぬ敵の可能性もあるはずだ。エリスは思わず、最初にその考えに至らなかった自らの無能さを呪い、拳をテーブルに叩きつけた。
エリスは、敵だという可能性は限りなく低いとは思っている。リタは普段から、敵に関する備えだけは怠ったことはない。その状況で、彼女を出し抜ける存在がどれだけいるというのか。それに、どちらにせよ姉が苦しんでいるのだ。下らない自分の感情は殺すべきだ。エリスは、即座にオメガ・アルス・マグナの一部機能を解放した。
それから暫く、エリスは持てる知識を総動員して現状の解析を試みていたが、あまり結果は芳しくはない。長剣とリタの間に見えない回路のようなものが繋がっている気もするが、それが何なのか分からないのだ。目に見えないのは勿論、魔力的な探査でも反応を示さない。
しかし、確かに何かが存在している。エリスはその直感を元に、リタの周囲を歩きながら注意深く周囲を観察していく。
キリカへの連絡も控えめに試みたが、反応が無い。恐らく就寝中であろう。こんなことになるのであれば、先に状況を伝えておくべきだったかもしれない。更に悪化するようであれば、緊急通報機能を使用して強制的に起こすつもりであるが、それにはまだ早いと感じていた。もしくは、エリスの中で燻る感情がそうさせていたのかもしれない。
(何となく、だけど……。お姉ちゃんは、この部屋じゃない何処かにいる気がする)
実際、エリスのその予感は正しかった。だが、それを知る術の無い彼女は、いたずらに過ぎる時間と自らの無能を呪うことしか出来なかったのだ。
やはり、自分は何も姉の為にしてやれないのだろうか。
私は、あの人と同じ場所で、同じ景色を見ることすら許されないのか。
エリスの思考がそんな風に沈みかけた時であった。視界の端に、黒髪の女性の姿が過った気がして、エリスは即座に構えを取った。けれども、誰も居ない。
エリスは思わず眼を擦る。だが、何度見渡しても部屋には姉と自分だけだ。少なくとも、他の誰かの魔力反応は感じない。
「これくらいの夜更かしで、変なものを幻視するなんてね。あーあ、私も――――」
しかし、エリスの独り言がそれ以上続くことは無かった。何故なら、空中に浮かぶ白く輝く何かを見つけたからだ。
エリスは瞬時に転移し、リタを庇うように位置どる。障壁を全開で張りつつ、周囲を見渡すがやはり誰の姿も無い。空中に浮かぶ記号のようなものは、見たことの無い記号が羅列されているようにも感じるが、どこか既視感を覚えずにはいられなかった。
(さっき見た女の人と関係が――――? いや、流石にあれは見間違いだと思うけど……)
空中に浮かぶ記号のようなもが薄れていくのを見て、エリスは慌てて近くに置いていた紙にそれを書き写した。どこか、以前姉が語っていた算術式に似ている気がしなくもない。
もしかしたら、これは姉からの何らかのメッセージなのだろうか。暗号化しなければならない程の情報かもしれない。少なくとも、今この時間に自分に見えるように存在するこれの正体が、リタやエリスに無関係な事柄である可能性は限りなく低いであろう。
(うーん。でも、これが文字だとしたら、お姉ちゃんってもっと字は汚いんだよね……)
エリスは、魔力障壁を維持しながら唸る。リタの様子は若干先ほどよりも落ち着いたように感じていた。そうして、エリスはキリカに連絡を試みつつ、どこか既視感のある文字列の解析に挑むのであった。
その頃、虚数領域にある亜空間にて、リタは改めて観測者に向き合っていた。薄ら笑いを消した表情は、これから話すことの重要性を物語っていたのだ。とはいえ、自分にとって一番大切なものが変わることは無い。
「お前が提示した条件である質問には答えた。不十分だったかもしれないが、少なくとも取引に応じる気はあると思っていいな?」
「それは、君がこれから話す内容次第だけど……。そうだね、私としてはキリカとの未来を手に入れる可能性を少しでも高めたいという気持ちはあるよ」
リタの返答に、微かに満足げな表情を浮かべた観測者は取引の内容を話し始めた。先程の会話の中で、先延ばしにしていたこともあってか、凡そリタの予想通りの内容であったといってもいいだろう。
「オリジン、本当は俺もお前にだけは頼みたくないんだが、それでも頼む――――。“マザー”を、救ってくれ」
そう言って、観測者は思い切り頭を下げた。その様子に、思わずリタは面食らってしまう。先程までと余りに様相が異なっていたからだ。顔を上げた観測者は静かに話す。
「……彼女は、未来観測実験の被験者だった。元々、超光速人造異相粒子マギナ・タキオネーヴァは、お前が
「えっと、待って」
今の観測者の言葉をそのまま理解するとすれば、自分以外にも地球で魔素を知覚し干渉できる人間が存在していたということである。リタは慌てて口を開く。だが、観測者は手でそれを制して続けた。
「まぁ先に聞け。先に事の発端を話す。――人は現在という時間における事象を認識する際に、最も速度の速い光子を基準としていると言えるよな? だが、もし――――世界に光より速い粒子が存在していれば、それを用いて観測される事象は、未来だと言えると思わないか?」
「いや、それは……、でも知覚できないよね?」
それくらいのことはリタでも分かる。人間が光を用いて認識できる現在は、要するに視覚で認識した現実である。視認する範囲の事象についての情報を、光より速く得ることが出来るとして、それが未来だと認識することなど出来ないだろう。光と同じような特性であれば、例えば数光年などと表現されるような遠距離であれば変わってくるのかもしれないが。
だが、確かに先ほど、目の前の男はやってのけたのだ。それは即ち、何か違う方法があるという事を示している。
「ああ、そうだ。だが、お前も知っているはずだ。魔素はその空間だけに影響を及ぼすものではない。彼女の理論では、並行して存在するはずの位相の異なる領域と、観測したい地点に同時に件の粒子を照射。そして返される反射波の揺らぎを観測することで得られる定数を――――」
「ごめん、訳わかんないから。簡潔に要点を話してくれないかな?」
リタの言葉に、それまで少し得意げな様子で語っていた観測者は不機嫌な表情を返した。きっとリタが理解できないことを語ることは、心地よいものだったのであろう。だが、わざわざ労力を割いて語るという事は、これからやることに関係しているのかもしれない。
「興味が持てないなら、先に教えておいてやろう。これを聞けば、お前も本気にならざるを得ないだろうからな。彼女……“マザー”は、エミュレイアの筆頭科学者であり創始者。そして、エミュレイアの法則や関連する関数、人造異相粒子の理論の発案者でもある、正に世紀の天才科学者だと言えるだろう。ついでに言えば、俺の生みの親でもあるな。……その
そう言いながら、観測者はリタを睨みつけた。
今、コイツは何と言った?
魔素を認識し干渉出来る科学者で、前世の自分の遺伝子情報を持っていてもおかしくない人物。いや、まさか、そんなことが……?
爆発的に高まる心拍数。胸が苦しく、呼吸もままならない。リタは掠れた声を振り絞る。
「有り得、ない……! 嘘――。嘘だ、嘘だッ!!」
「お前がどう思おうと自由だ。だが、告げておく。彼女の本名は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます