嵐の前の逢瀬 1

 夏季休暇を終えて、早数週間が過ぎた。昼間はまだまだ残暑が厳しくも、夜風の涼しさに夏の終わりを感じる季節だ。


 今日も王立学院では、多くの学生が文武に励むのであろう。そんなとある朝、一人の銀髪の少女が気だるげに学院の廊下を歩いている。


 銀髪の少女ことリタ・アステライトには悩みがあった。それは、夏休みに想いを伝えた少女と、ここ最近すれ違っていることである。


「はぁ……、絶望的にタイミングが合わない件について」


 リタは、午前中の選択科目の教室へ向かって歩きながら、一人呟く。何故自分は錬金術の授業など履修することにしたのか。キリカは今頃、軍団指揮の授業に向かっていることだろう。


 脇に抱えた分厚い錬金術の入門書が、今日はやけに重く感じられた。今なら、この一冊で魔物を百体は屠れそうだ。


 キリカとは、アンバーが突然現れたあの日以来、学院以外で顔を合わせていない。


 因みに、アンバーはあの日の夜、また何処かへ行ってしまった。別れ際に、彼女が見せた表情は、確かに寂しさであった。だが、きっとまたすぐに会えるに違いない。リタのお下がりの服や靴をあげたが、そろそろボロボロにしている頃かもしれないな、とリタは思っていた。閑話休題。


 リタ自身、キリカが忙しいのは分かっている。流石に有名人の彼女と学院でいちゃつく訳にもいかない。そう考えると、多少は仕方ないとは思うも、リタの溜息は留まるところを知らなかった。


(だって、折角付き合い始めたばっかなのにさ……。まだ、恋人同士になってからはちゃんとしたデートもしてないし。――――あれ? そういえばちゃんと言ってないけど、私達って、付き合ってる……よね?)


 思わず自分の甲斐性の無さを自覚して、リタは頭を抱える。肝心な事を、確認していなかった。いや、彼女の様子を見るに、大丈夫なはずだ、多分。


「……ダメだ。考えれば考える程、集中できない。ええい! 今日はサボろ」


 リタは授業に出席することを諦めると、食堂に向かって歩き出した。だが、こんな時に限って誰かに見つかるのが人生というものだ。廊下を歩くロゼッタに見つかってしまったリタは、今日は体調が悪いと言い訳をしつつ、逃走を試みる。


 実際のところ、成功するとは思っていなかった。だが、ロゼッタは苦笑いで「そうか」とだけ発すると、そのまま何処かへ行ってしまう。


「えぇ……。生徒に無関心すぎじゃね……? いや、今日に限っては助かったけども」


 リタの口から洩れた呟きは、授業開始を告げる鐘の音に掻き消されることになった。そうしてリタは結局、午前中は食堂にて適当に買ったお菓子を摘まみながら、考え事をして過ごした。




「あら、今日は早いのね?」


 リタは、待ちわびた少女の声に顔を上げる。キリカは、ほんのり赤い顔で笑みを浮かべていた。とくん、と心臓が撥ねた気がする。急いで来てくれたのだろうか、微かに上気した肌から香ったキリカの匂いが、優しくリタの鼻腔を満たす。


 キリカの手が、リタの肩に添えられた。くすぐったくも、嬉しい感触だ。


「注文、まだよね? ほら、早く行きましょう?」


「うん!」


 さっさと昼食を注文しないと、これから人が増えてくる。あまり並ぶのは勘弁だ。リタは立ち上がると、すべすべとしたキリカの手をしっかりと握って歩き出す。せめてこれくらいは、許してくれるだろう。


 以前と異なり、指を搦めて繋がれた手と、触れ合う肩から伝わる体温にリタは幸せを感じた。キリカは、気恥ずかし気に視線を逸らしながらも、口元は緩んでいる。


 そんな表情を見ていれば、ツァイルンでの事を思い出して自然と鼓動が高鳴ってしまう。言葉を交わす、手を繋ぐ、それだけでも確かに嬉しい。でも、もうあの感触を知ってしまったから。どうしたって、今日も艶やかな彼女の唇に視線が吸い寄せられるのは仕方がない、とリタは思う。


(ああ無理! 可愛い! 死ぬ! ……キリカといると、馬鹿になりそう。今すぐキスしたいって言ったら、やっぱ引かれるかな? でもあれからご無沙汰だし……、いやいや、学院じゃ流石に)


 挙動不審なリタと、頬を赤らめるキリカの様子に、周囲からは生暖かい視線が注がれていた。無論、変わらず仲がいい友人同士を見守る視線である。普段は凛としている“黄金の剣姫”の珍しい表情と、それを向けられる“狂犬”は、最早学院の名物となりつつある。だが、お互いの事しか視界にない二人はそれにすら気付くことは無かった。


 とはいえ、学院では二人だけで過ごす時間など望めないのは、リタも分かっている。集まってきた妹やクラスメイト達と、賑やかな昼食時間を過ごしながら、楽しさと何処かやりきれない思いを抱えていた。




 昼休みも終わりに近づいた頃、午後の実技の授業の準備のためリタはキリカと共に、訓練場へと歩いていた。仲のいい女子生徒たちの中では、二人だけが剣術の専門課程を履修していた為だ。


 手を繋いで、校舎の隙間を抜けるように歩きながら、リタの鼓動は高鳴っていた。周囲にはちらほらと生徒の姿が見える。きょろきょろと周囲を見渡しながら歩くリタの姿に、キリカは訝し気な視線を向けるも、いつものことだと微笑んでいた。


 そうしてリタの視界に入ったのは、人気のない非常階段の裏であった。


「キリカ、ちょっとこっちに……」


 リタはキリカの手を引いて、足早に非常階段の裏にある空間へと向かった。少し薄暗く、周囲からは見られない死角にキリカを連れ込んだリタの心臓は、破裂しそうなほどに鼓動を重ねている。自分でも呼吸が荒くなっているのが分かる。


(ここなら、大丈夫だよね? あああ、もう何も考えられない。キリカは引くかな? ダメかな? いや、もう無理――――)


「えっと、どうし――――んんッ!」


 首を傾げるキリカを強く抱きしめると、リタは口を開きかけた彼女に口づけた。キリカは、驚いたように目を見開いていたが、やがてゆっくりと瞼を閉じる。


 学院でという背徳感もある。心臓が壊れたんじゃないかと思うほど、鼓動がうるさく感じられる。だが、確かに伝わってくるのは彼女の温もり。急速に心が満たされていくのをリタは感じていた。


 ただ無心で唇を重ねたリタは、息苦しさで我に返ると、ゆっくりと身体を離す。糸を引くお互いの唾液を拭いながら、ジト目でこちらを見るキリカから目を逸らした。


「ごめん、キリカ。どうしても我慢できなくて」


「もう! 誰かに見られたらどうするの?」


 抗議するような視線を向けるキリカであったが、唇の端が上がっている。だが、折角綺麗に塗られていたキリカの口紅が、少し取れてしまったようだ。キリカは胸元のポケットからハンカチを取り出すと、リタの唇と自分の唇を拭った。


「……ありがと」


 とりあえず、キリカが怒っていないようで良かった。リタは安堵の息を吐く。とはいえ、無理にしてしまった罪悪感やら恥ずかしさやらで、キリカと目を合わせられない。


「全く、強引なんだから……。ほら、こっちを向いて?」


 リタは、キリカの言葉に渋々ながら彼女の顔を見た。気付けば至近距離にあった顔に驚きつつ、見惚れてしまう。


 そうして、次はキリカから優しく唇を重ねられた。リタは目を閉じて、ただその感触に集中する。


(やば……めちゃくちゃドキドキする。そう言えば、アニメでも言ってたもんね。背徳感も恋のスパイスだって。――そっか、今更だけどこれが恋なんだ。多分)


 離れていく薄桃色の唇に名残惜しさを感じつつも、リタがそれを口に出すことは無かった。分かっていたからだ。これ以上は、マズいと。きっと止まらなくなる。


「本当はね、私もずっと……貴方とこうしたいって思ってた」


 だが、そう言ったキリカの表情があまりにも魅力的で、リタは衝動を抑えるのに非常に苦労した。理性など、きっと彼女の前には無力だ。


「キリカ――――」


 リタは思わず彼女に伸びそうになる両手をどうにか下げた。今の自分はどんな表情をしているだろうか。きっと情けない顔を晒しているに違いない。


 笑いを堪えたような顔のキリカが、耳元で囁く。


「続きは放課後に、ね?」


 リタは一瞬、耳元で聞こえた艶っぽい声の意味を認識出来なかった。キリカは確か今日、習い事があると言っていたはずだが。そんなリタの様子に気付いたのか、彼女は悪戯っぽい笑顔で続けた。


「――――本当は、驚かせようかなって思ってたから、放課後に言うつもりだったんだけど……。今日、学院で用事あるから習い事休むって言っちゃったの」


「えっと、つまり?」


 これは期待してもいいんだろうか? いや、きっと話の流れ的にいいんだろう。だが、それでも聞き返してしまう自分がいた。意地が悪いと思われるかもしれない。だけど、キリカの口から聞きたかったのだ。


「今日は、その……、久しぶりに貴方と過ごしたいなって。――――もう、言わせないでくれる?」


「ごめんごめん、一応ね」


 リタは恥ずかし気に目を逸らすキリカに笑いかけた。だが、キリカは溜息をつくと、ジト目でこちらを見た。何か間違っただろうか。


「それで? 返事は?」


「勿論いいに決まってるじゃん! 今日はエリス、先生と魔術の特訓の日だからさ」


 そう言うリタの言葉に重なるように、午後の授業開始を告げる鐘の音が学院に鳴り響いた。思わず顔を見合わせて硬直する二人。リタは思わず天を仰ぐ。


「あ、やば」


「と、とりあえず、急ぎましょうか」


 二人は軽く笑い合うと、手を繋いで走り始めた。

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