水平線は遥か 3

 リタが目を覚ましたのは、深夜と思われる時間帯であった。既に部屋の照明は落とされ、隣のベッドからはエリスのものと思われる寝息が聞こえている。


 意識がクリアになるにつれて、大浴場での醜態を思い出し羞恥心に苛まれる。キリカに気持ち悪いと思われていないだろうか。そればかりが胸を満たす。きっとエリスとキリカが介抱してくれたのだろう、しっかりと寝間着に着替えていた。自分の裸を見られたであろうことは、この際どうでも良かった。


(そうは言っても、謝るのもどうなの? めちゃくちゃ意識してますって白状してるようなものじゃん)


 リタは、頭を抱えつつもキリカと話したい気分だった。部屋のベランダには、頼りないランプの明かりが灯っている。きっと彼女だろう。リタは意を決してベランダへと足を踏み出した。


 案の定キリカは、ベランダに設えられた椅子に座り夜の海を眺めていた。上着も必要ないくらいに、夜でも暑さを感じる風に、その金髪を靡かせる彼女はこちらを見て微笑んだ。


「起きたのね、リタ」


 キリカの声は穏やかであった。宿の周囲はすっかり人の声は聞こえない。チリチリとランプの芯が燃える音と、王国とは違う虫の声だけが夜闇を満たしていた。


「うん、なんかごめんね」


 リタは、つまらない言葉しか発せない自分を呪いながら、キリカの隣に腰掛ける。仄かに香った、キリカの柔らかな香りを感じながら、リタは彼女に倣って海の方へと視線を向けた。階段のように佇む建物たちと、その先にあるであろう今は真っ暗な海。水平線だけが、星明りに輝いているようにも思えた。


 そのまま二人の間には、沈黙が流れる。宿からは距離があるというのに、耳を澄ませば波音さえ聞こえてきそうな感覚を覚えながら、リタはそっと口を開いた。


「ねえ、キリカ。今日は、ごめんね。私、こんなんだからさ。気持ち悪いよね」


 どうしても自嘲気味になってしまう声色に、リタは思わず辟易してしまう。決してキリカに同情して欲しいとか、受け入れて欲しいなんて言うつもりはなかった。


「……ううん。そんな事は無いわ。他でも無い、貴方だもの」


 リタの右手に、キリカの左手が上から重ねられるように触れた。彼女の薬指の指輪が手の甲に触れる感覚が、どうしてだろうか、とても暖かく感じた。


「あのさ、キリカが私に恩を感じてるのは知ってるし、嬉しいんだけどね。だからって、私に気を遣う必要なんて無いんだよ? 色々、嫌だったら嫌って言って欲しいし、全部を私に合わせる必要なんて無いんだ」


 リタは、そんなキリカに自らが感じていることを吐露した。


 私たちは、前世に縛られている。


 それは勿論、自分としては望むところだ。だが、キリカの気持ちや夢まで縛ってしまいたくは無かった。


「私はね、リタ。確かに、貴方にとても大きな恩を感じているわ。だから、何度も言うけれど私の生きる目的や誓いが揺らぐことは無い。それは、貴方も同じでしょう? ――――でもね、私が今こうやって貴方と一緒に旅をしたり、同じ時間を過ごすのは、私が心からそうしたいと思っているからよ。……それだけは、知っていて欲しい」


 キリカはこちらを向いて、真っすぐな目でそう言った。彼女の真っすぐさは、いつも本当に眩しい。リタは、その視線を受け止めながら、もう自分の気持ちは誤魔化しようが無いなと思う。


「ありがとう、キリカ。この旅の最後の夜、少し時間をくれないかな? ――――君に、伝えたいことがあるんだ」


 リタは、高鳴る鼓動を抑えつけるように、言葉を絞り出した。まだ何も大切なことなど告げていないというのに、キリカの返事までの時間は、リタには数十秒にも感じられた。


「ええ、いいわよ」


 キリカは、リタの言葉に優しく微笑む。リタは、もう一度水平線に目を向けて、覚悟を決めるのであった。




 リタとキリカがベランダで、海を眺めていた頃。そっと瞼を開いたエリスは、ベランダから聞こえる声が穏やかであったことに安堵の息を漏らす。


「頑張ってね、お姉ちゃん」


 エリスは静かにそう呟くと、左手を天井に向けて伸ばす。薬指に輝く指輪が、窓から射しこんだ月明りを反射して煌めいた。エリスは左手を胸元に当てると、右手で愛おしそうに指輪を撫でる。


「キリカちゃんも、ちゃんと素直になれるかな……?」


 他でも無い自分が、何故あの二人の心配をしなければいけないのか。それもこれも、もどかしい二人が悪い。思わずため息が漏れた。


「はぁ、何で私が……。まあ、千年も待ったんだもんね。仕方無いか」


 エリスは、ベランダから聞こえる声が耳に入らないように、多少の暑苦しさを感じながら布団に頭を埋める。


「――――でもね、キリカちゃん? 譲ってあげるのは先手だけだよ」


 そう呟きつつ、エリスは自らの唇を撫でた。そう言えば、こっちは先に貰ってしまったが、姉妹だから仕方ないだろう。


 それに例え、本当の意味でこの想いが実らなくとも――――。

 姉妹であれば、その絆は一生消えることは無いのだ。そう考えれば、多少は気が楽になる。


 とはいえ、夏季休暇明けから更に計画を推し進めなければ。

 エリスもまた、そんな気持ちを胸に眠りにつくのであった。




 翌朝、宿の食堂で朝食を終えた三人は、宿のロビーで顔を突き合わせていた。


「ビーチが閉鎖とか、マジ勘弁なんですけど!」


 リタはそう言いながら頭を抱えた。宿の女将に、遊んだり寛げる海岸はあるかと聞いたところ、そんな答えが返ってきたのだ。どうやら、今年は海辺でケンヒルという魔物が大量発生しているらしく、駆除が間に合っていないという事だ。


 冒険者たちも、船の発着する港を優先せねばならず、中々手が回っていないらしい。ケンヒル自体は、リタ的に言えば大きくて凶暴なイカみたいな魔物である。因みに、昨日リタが食した魔物肉とは異なり、臭みが強く非常にまずいらしい。尚、ケンヒルは陸に上がってくることが殆ど無いため、ビーチは完全に後回しという訳だ。


「まあまあ、仕方ないじゃない」


 キリカは何処か安心した顔で笑っている。今朝、彼女に特注の水着を見せたところ、人前でこんな格好は出来ないと完全拒否だったのだ。


「仕方が無い! 私が殲滅――――」


「お姉ちゃん、ダメだよ?」


 リタは今日の計画を話そうとしたが、エリスに出鼻を挫かれた。


「ええ~。海で遊びたいよ! ちゃんと綺麗にするから~」


 頬を膨らませるリタに、他の二人から生暖かい視線が向けられる。自分だって、子供っぽいとは分かっているが、仕方無いじゃないかと思う。


(前世のアニメでも、水着回は必須って聞いてるのに!)


「きっと綺麗な海を眺めるだけで、素敵よ。折角だから、海沿いを歩きましょう?」


 そうして、キリカの提案に渋々頷いたリタは、自室で身の回り品を鞄に詰めて宿を出るのであった。




「えっと、何これ……? ヤバくない?」


「近くで見ると、気持ち悪いわね」


 リタの言葉に、キリカの言葉が続いた。街中の港の方の海は綺麗だった。昨日も丘の上から見た通りの美しい青さであった。しかし、街の外れの方にあるビーチの方まで足を延ばしてみれば、水面からいくつも伸びる薄紫色のうねうねとした触手と、ぬめぬめとしたケンヒルの頭部が突き出している。


「これじゃ、観光客も寄り付かないかもね」


 エリスもそう言って、引き攣った笑みを浮かべていた。リタはその言葉に頷きつつ、冒険者組合で駆除依頼を受けようかと提案するも、あっさりと断られて俯くしかなかった。


「ちょっとだけ! ちょっとだけ見てくるから!」


 リタはそう言うと、エリスから制止の言葉が出る前に駆け出した。普段は王都から出ないリタは、相変わらず、初めて見る魔物には毎回興味深々なのである。


(うわー。マジでデカいイカじゃん。いや、頭部は丸いけども。気持ち悪ッ!)


 リタはこちらに伸びてこようとする触手をひらりと躱す。前世で見ていた大人向けのアニメでは、美少女たるもの触手に絡めとられて当然と言いたいところであるが、流石に自分がそうなるのは御免被りたかった。


「近くで見ると、グロさ倍増……。ついでに生臭い」


 発した声を認識したのか分からないが、リタに向かって何本もの触手が伸びて来た。とはいえ、所詮放置される程度の魔物だ。捕まる訳も無い。触手の先から白濁した液体を噴出された時には驚いたが、一滴たりとも服にかからないよう、リタは障壁を張って防いだ。


(えぇ……。マジでこの液体が身体にかからなくて良かった。コイツ、存在がダメな奴じゃん。エリスの教育に悪いし、キリカにも触れさせたくない)


 そうして二人の下まで走って戻ったリタは、今日は退散しようと二人に告げるのであった。

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