今はまだ、すれ違う二人 3

「じゃ、そろそろ……」


 リタはそう言って、エリスのベッドから立ち上がった。


「お姉ちゃん、今夜も?」


「うん、一応ね」


 エリスの心配そうな視線を背中に受けながら、リタはエリスの部屋を出て行った。武闘大会の開幕を明日に控えた夜、まだ早い時間ではあるが廊下には誰の姿も見えず、静まり返っている。


 リタは、その壁に背をもたれて、深いため息をついた。


 やっぱり、無理矢理でも、彼女に会いに行くべきだったのではないか。

 だが、自分が楽になるために彼女に会いに行くのは許されるのか。


 もう何度も繰り返した自問自答が、頭をかき混ぜるように渦巻く。


 リタは、意を決して、キリカの首飾りに繋ぐための魔力を紡いだ。これまでも、毎日何度も繰り返してきた。だが、決して彼女が応じることは無かったのだ。どうせ今夜だって――。リタにそんな諦めがあったのは事実。


「え――――?」


 だから、驚いたような、失敗したことを嘆くような、キリカの声が聞こえた時、リタの心臓は大きく撥ねた。思わず、畳みかけそうになる言葉を抑える。本当は、分かり切っていたが、やはり名目上は彼女の体調を気遣う言葉を選ぶべきだろう。


「キリカ……。久しぶり。――大丈夫?」


 リタは、早足で廊下からテラスに移動する。今は、誰にも邪魔をされたくない。


「…………う、うん」


 その問いに応えることを、彼女は迷ったのだろう。そんな逡巡が伝わる声色であった。だが、まだ彼女は会話に応じてくれる。だから、この機会を逃したくはない。


「ねぇ、キリカ? ごめんね。私の、せい、だよね?」


 リタは、絞り出すような声で、彼女にそう伝えた。頭の中での会話では無く、自分の声で伝えたかったからだ。テラスに出たリタを、湿った夜の空気が出迎えた。雨は止んでいたが、まだ地面は濡れている。


「……いいの、私が、悪かった……から」


 キリカは震える声で、そう話した。その声に、リタの胸は強く締め付けられる。


「違う――! ごめん、大きな声出しちゃって……。でも、違うんだ、キリカ。君に、ちゃんと話さなかった私が――――」


「いいのよ……。もう、いいの、全部。だって、だって――――!」


 そのまま、彼女の声は途切れた。すすり泣くような声が、聞こえる。


「キリカ……泣いてるの?」


 やっぱり、私は最低だ。

 結局、彼女を泣かせたのだ。


「泣いて……な゛い」


 少しずつ、嗚咽に変わりそうな声で、キリカはそう言った。

 どうして、私は、こんな所に居るんだろう。


「キリカ、今からそっちに行く」


「ダメ――! 来ないで!!」


 彼女の叫び声の前半はリタの脳内で響き、後半は自分の耳が拾っていた。


「どう――して……?」


 部屋の隅から、小さな声がした。

 キリカの部屋は真っ暗だった。リタは、そっと明かりを灯す。


 散らかった部屋の隅にいる、数日ぶりに会う少女は、まるで別人のようだった。


 乱れた髪に、落ち窪んだ頬。泣きはらした目の下には、殆ど寝ていないのだろう大きな隈がある。血の気を失ったような顔に、ひび割れた唇。そして、痛々しく全身に刻まれた、ひっかき傷。


 あれから、一度も着替えて無いのだろうか。埃と皺に塗れた、制服を着ている。


 彼女を、こうしてしまったのは自分だ。

 自分に腹が立ってたまらない。


 結果論でしか無い。

 そんなのは分かっている。

 それでも、こうなる前に来るべきだった。


 だが、今はやらなければならないことがある。


 リタは、真っすぐにキリカの方に歩く。


「――来ないで」


 キリカは怯えるように、そう言った。


「嫌だ」


 リタは、真っすぐにキリカの目を見て、そう告げた。


 これから、私のことを嫌ってもいい。

 大声で助けを求めて、護衛に連行させてもいいだろう。


 分かってる、これは私の自己満足で、我儘だ。


 それでも、私は、今の君を一人にしたくない。

 今の君を抱きしめないような人間に、なりたくないんだ――――。


「お願い! 来ないでッ――!!」


 懇願するような声で、そう言ったキリカは、逃げるようにリタから遠ざかろうとした。そんな彼女の、か細い腕を、リタの右手が掴んだ。


「嫌だッ!」


 そのまま、リタはキリカを自分の元に引き寄せる。抵抗するように、キリカの拳が、何度も、何度も、リタの胸を叩く。


 それは、直接リタの心を抉るような痛みだった。だが、今この手を離せば、彼女はもっと遠くへ行ってしまうかもしれない。


「離して!」


「だから、嫌なんだって!」


 リタは、キリカの冷え切った身体を温めるように、無理矢理強く抱きしめた。最初はもがくように、抵抗していたキリカであったが、徐々に彼女の身体から力が抜けていく。


 キリカは震えていた。

 目を合わせようとせず、ずっと下を向いている。


 噛み殺していた嗚咽は、やがて大きくなり、彼女はあふれる涙を零す。


「ごめん……。ごめんね、キリカ」


 いつの間にか、リタの頬にも涙が伝っていた。それらは、キリカの乱れた金髪に落ちていく。


 こんなにも惨めで、最低な気分になったのは初めてだった。何もかも、自分のせいだと言うのに。こんな時に、ただ抱きしめることしか出来ないなんて。


 胸が軋むように痛い。


 いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、リタは何も考えられなくなっていた。

 ただ、キリカが泣き止んで、今夜こそ安らかに眠れればいい。それだけが、今は望みだった。


 それから暫く、キリカの頭を自分の胸に抱いて、リタはただ静かに、彼女が泣き止むのを待っていた。


「どう、して……?」


 キリカが、小さく呟いた言葉は、自分に向けてのものだろうか。リタには分からなかった。それでも、リタは彼女の問いに答えた。


「こうしたかったから、かな。――最低だよね? 分かってる。君をこんなにしておいて、私は、自分の我儘で自己満足な感情を押し付けてるだけだ。だからね、キリカ? 私のことを嫌っても、憎んでも、恨んでくれてもいい。それで君が、安らかに眠れて、明日から笑顔で過ごせるなら」


 キリカは、俯いたままだ。その感情をくみ取ることは出来ない。


「……何で、貴方は、そんなに……」


 続く言葉は無かった。リタは、いくら待っても吐き出されない、その先を一旦忘れることにした。


 そろそろ、潮時かな――。

 リタは、彼女に告げる決意を固めた。


 今、語るのは卑怯だろうか。

 彼女は、ただの言い訳だと受け取るだろうか。

 そうだとしても、明日、君が笑える可能性があるのなら。


 私には、それだけで十分だ。


「ねぇ、キリカ? 君に、聞いて欲しいことがあ――――」


「――ッ! 嫌、嫌、嫌、嫌ぁぁぁぁぁ!」


 突如として、頭を抱えて痙攣し始めたキリカの様子に、リタは慌てて彼女の両肩を持って揺さぶる。その尋常じゃない様子に、リタの心臓も早鐘を打つ。


「キリカ! キリカ! キリ……カ――――?」


 急に静かになって、目を見開いた彼女の両眼は、黄金に輝いていた。


 まるでドロドロに溶けた純金のような、深く、美しく、どこか恐ろしい金色であった。微かに、彼女の身体が発光しているようにも感じた。髪の色も、薄くなっている気がする。


 その雰囲気に、リタは思わず後ずさってしまった。


「――――君は……誰?」


 リタは、目の前の存在に声を掛けた。

 少女は、無表情だ。完全に、生気を失った顔で、直立している。


「――――」


 目の前の少女の唇が、微かに動いた。

 声は発しなかった。


 それでも、リタには確かに、「ごめんなさい」と聞こえたのだ。


 そして、そのまま少女は、意識を失ったように倒れ込む。リタは慌ててその身体を支えた。微かに一度、弱々しく目を見開いた少女の瞳は、真紅であった。それを確認し、リタは安堵の息を吐く。


(さっきのは一体……?)


 そのままリタは、寝息を立て始めた彼女の身体を抱きかかえると、いつの日か一緒に寝たベッドに横たえた。


(もう、いい時間か。明日こそ、ちゃんと話そう……)


 優しく、そっとその頭を撫でながら、彼女を起こさないように回復魔術を掛ける。少しだけ顔色を取り戻した、キリカの寝顔にリタは別れを告げる。


(こんな事を言う資格なんて、私には無いけれど。せめて、願うくらいは許される、よね?)


「ゆっくりお休み、キリカ。明日は君が、笑える世界でありますように」




 ――――翌朝。


 数日ぶりに、まともな睡眠を取ったキリカは、柔らかなベッドで上体を起こす。


 ここ数日、夢を見るのが怖くて、眠ることも出来なかった。周囲を拒絶して、碌に食事も摂らず、ただ逃げていた。


 私は、最低だ――――。


 昨夜、はっきりと、自覚したことがある。

 それは、私にだけは許されない感情。


 だから今日、私は彼女の好意を踏みにじる。


 キリカの頬を、涙が伝う。


「終わらせ、なくちゃ……」


 力なく呟いて、彼女は立ち上がった。


 罪を背負う覚悟も出来ている。

 それは何処までも傲慢で、何よりも強い覚悟だ。



 彼女たちが抱く想いは、どうしようもなく同じで、どうしようもなく違っていた。

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