雨露と慟哭
キリカ=ルナリア・シャルロスヴェインは、灰色の荒野に立っていた。
見渡す限りの荒れ果てた大地には、冷たい雨が降り続いている。
光を失った空が、世界から色を奪ったかのような、薄ら寒い景色だ。
周囲には、何もない。ぬかるみ始めた地面が、雨粒を受け止める音が響く。
降りしきる雨が、全身を濡らしキリカの体温を奪っていく。
だが、彼女はそれでも待ち続けた。張り付いた服の気持ち悪さも、絡まる髪のわずらわしさも、関係なかった。
――――彼女がずっと待ち望んでいた人が、そこに居るのだから。
いつの間にか目の前に現れた黒髪の少年が、キリカに笑いかけた。何故だか顔は分からなかったが、きっと彼なのだという確信があった。前世で自分を、世界を救った人だと。
キリカの両目からは、思わず涙が零れた。その雫は、すぐに雨と混ざり足元へ落ちていく。
キリカは、彼に何かを話そうとした。
話そうと思っていた言葉は、幾つも在った。
伝えたいことが、溢れていた筈だった。
だが、キリカの口からは、声にならない吐息が出るばかりで、何一つ音を成すことは無かった。
少年は、ゆっくりとキリカの方に向かって歩く。
その手は血に濡れていた。
きっと、また殺したのだ。私のために。
汚れた手を、大雨が洗い流していく。
キリカは、その様子に身震いをしながら、ここはとても寒いな、と思った。
もう少しで、手が届く。
必ず、私が果たさねばならない誓いに。
彼の顔が見えないのは、雨が強すぎるからか、もしくはあふれる涙のせいか。
キリカが、そんなことを思っていた時、彼の後ろに、鈍色の塊が過った気がした。
少年が、目を見開いたのが分かった。顔など分からないというのに。
その場で立ち止まった少年の口からは、血が流れる。
思わず口元を抑えたキリカは気付いてしまった。
少年の胸を後ろから、白く光る長剣が刺し貫いていたことに――――。
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
こんなのは、こんな終わりなど、許容できるはず筈が無い。
キリカの頭は、現実を認識することを拒否していた。
その両目が映した現実が、嘘であって欲しいと願っていた。
吐血し、その場に倒れ込んだ少年の後ろに居たのは、リタ・アステライト。
キリカの、たった一人の親友だった。
キリカの心臓は、あの時刺し貫かれた時のような痛みを発している。燃えるような痛みだ。
視界が赤く、黒く、塗り潰されていく。
呼吸もままならない。鼓動がうるさすぎる。
どうして。
どうして、他でもない、貴方が――――。
私の、一番大切な誓いを、奪うの。
胸を掻き毟たりたくなる激情が、頭を割らんばかりの絶望が、キリカを塗り替えていく。
キリカは、声の限り叫ぼうとした。
だが、幽鬼のように佇む彼女の言葉の方が早かった。
「こいつが、殺したんだ」
リタは、虚ろな目をキリカに向けた。
返り血を浴びた顔は、血の気の無い色だった。
何処までも深い闇をたたえ、昏く濁った目をしている。
「殺したんだよ。――――私の大切な人を。だから、だから、だから、殺した!!」
キリカは、彼女の迫力に、弾劾の言葉すら発することが出来なかった。
そして知ったのだ。
ああ、やっぱり彼は死んだのだと。
彼女が、そう言うならば。それは、この世界の決定事項なのだ。
次こそは、と誓ったはずなのに。
その為に、ここまで、来たはずなのに。
喪失感がキリカの膝を折ろうとした。
だが、彼女の内側から湧き上がる、炎獄の焔がそれを許さない。
「全部、奪われたんだ! 私の、生きる目的も、生まれた価値も、全部! 全部!! 全部ッ!!!」
最早、リタの視線は定まっていない。長髪を振り乱し、大きく手を広げた。
彼女は笑っている。
彼女は狂っている。
彼女は壊れている。
分かっていた。
知っていた。
私も、彼女も、最初から破綻しているのだから。
――――だって私も、貴方と同じ目をしているもの。
リタは、笑顔で血に濡れた剣の切先をこちらに向けた。
「おかしいよね? 私は、全部奪われたって言うのに。私から奪ったやつの、大切な人間が生きてるなんて。そうでしょ、キリカ?」
キリカもまた、腰に差した長剣を抜く。
「――――貴方を、殺す」
キリカが初めて発した声は、とても冷たかった。
二人は同時に駆け出した。
世界が止まったように思えた。雨が、風が、音が、確かに止まっていた。
そして同時に、お互いの剣が、お互いの心臓を串刺しにする。
縫い留められたように、一つになった二人は、微笑みあいながらその場に崩れ落ちた。
雨が、降り続いている――――。
流れ出したお互いの血液が、混じり合い、薄まっていく。
リタの唇が、微かに動いて、何かを発した。
だが、キリカはもう、その音を言葉として認識することなど出来なかった。
「――――ッ!」
悍ましい嫌悪感に、キリカは飛び起きた。
周囲は真っ暗だが、間違いなく自分の部屋だ。
両手は震えていた。息が苦しい。
尋常じゃない鼓動が、まるで体内でのたうち回るように早鐘を打つ。
全身が汗に濡れているが、まだ生きている。まだ、殺していない。
「ぅッ……!」
胃からせり上がる不快感を飲み込むべく、両手で胸を押さえる。
どうにか、吐き気をやり過ごしたキリカは、荒い呼吸を整えていく。呼吸が落ち着くにつれ、窓を打つ雨音を認識できるようになった。
――――ひどい夢を見た。
だが、それは彼女への戒めであった。
一番大切なものを、履き違えるな。
自分が生まれた、生かされた理由と意味を、忘れることは許さないという鎖。
運命を押し付けた罪を、縋ってしまった後悔を、赦せるのは一人しか居ない。
そう言われた気がした。
本当は気付きたくなかっただけなのかもしれない。
いつしか、彼女の存在がとても大きくなっていて。
それは、自分の想像を遥かに超えて、大きくなり過ぎていた。
もう少しで、あの人に届いてしまいそうなくらいに。
ああ、だから私は夕方、彼女にあんな言葉を投げたのか。
自分だって、とっくに選んでいた癖に。
それなのに、勝手に期待して、勝手に絶望して。
あの時のリタの表情が頭から離れない。
自分が何を話して、どうやって帰ってきたのかも覚えていない。
ふざけるな、ともう一人の自分が言う。
迷う暇など、あると思っているのか、と。
自分が何者か、一番よく知っているのは自分自身の筈だ。
そんな大きな杭をキリカに打ち込んだのは、まだ幼い金髪の少女だった。
「そう、よね……」
乱れた髪を掻き毟りながら、頭を抱えたキリカの頬を、止め処ない涙が伝う。
そもそも、こんなことで泣いてしまう方がおかしい。
ここで泣くという事は、認めたという事なのだから。
「――――そんなの、私に許されるわけ、ないじゃない……!」
もう、初夏を迎えようというのに、この部屋はとても寒い。
キリカは、枕に顔を埋め、全身に布団を被る。
「――ぅぅ……っく――――あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁッ……!!」
少女の慟哭は、雨音に掻き消され、誰にも届かなかった――――。
せめて、鏡を見ることが出来たのなら、変わっていたかもしれない。
彼女の両眼に宿った、違う色の輝きに気付くことが出来ていたのなら。
もしくは、この場に――リタ・アステライトが居たのなら。
だが、彼女は今、どうしようもなく、ひとりだった。
そうしてキリカは、仕組まれた運命に向かって進み始めることになる。
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