今はまだ、親友の二人 2

 涙目で舌を出していても、キリカは可愛いなとリタは思っていた。


 だが、キリカはどうやら犯人に気付いたようで、鋭い視線をリタに向けた。リタはとりあえず目を逸らしてみたが、恐らく誤魔化せないだろう。


「リタ……? 何か言いたいことはあるかしら?」


 キリカは顔を真っ赤にしながら、プルプルと震えている。


(あ、そんなに力入れたら……)


 そして、彼女の握力に耐え切れず、上品なティーカップの取っ手が砕けた。


「やば――」


 キリカの間抜けな声が響く。


 その瞬間に、まるで景色がスローモーションになったような気がした。キリカの両目が驚きに見開かれていく。そして、無惨に落下するティーカップから零れる中身。


 キリカは必死に避けようとするが、その飛沫の全てから逃れることは出来ない。


「熱――――ッ! 熱い熱い熱い! もう嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」


 一人でじたばたと騒いでいるキリカも可愛いが、流石に可愛そうだ。火傷の痕などが残らないよう、リタは即時に彼女に回復魔術を掛けた。


 キリカは、よっぽど熱いのか、慌てながらハーブティーに濡れた黒いタイツを乱暴に脱ぎ捨てる。微かに視界を過った白色に、リタの視線は吸い寄せられた。


(あ、白……)


 そんなリタの視線に気付いたのかは分からないが、キリカは物凄い剣幕で睨んでいる。あれは、割と本気で怒っていらっしゃる顔だ。


「キリカ? 大丈夫?」


 一応彼女を気遣う言葉を投げかけてみたが、あいにく効果は無いようだ。


「リタァァァァァ!」


 キリカは、まるで公爵令嬢とは思えない声を発しながら、翻るスカートも気にせず跳躍した。


(やっぱり白。フリルとリボン付き……意外と可愛いものが好きなのかな? ――って、まずい!)


 リタは、目の前に広がる光景に見とれていて、自分のティーカップを避難させることも出来ないでいた。


「ちょっと、待っ――――!!」


 そうして、部屋にはリタの悲鳴と、エリスの溜息が響いた。




「――――で、どうするのこれ……?」


 エリスは、引き攣った笑みで目の前で正座する二人に静かに問いかけた。

 リタとキリカは、さっと目を逸らす。


 先ほどまで二人は、じゃれ合いと形容するには激しすぎる触れ合いをしていた。


 そして、最終的にはリタが振った枕をキリカの拳が打ち抜き、部屋中を枕に詰まっていた羽毛が満たしていた。その上には、色々な物の残骸が散乱し、まき散らされたハーブティーで濡れている。


「ねえ、二人とも? この世界に存在する色々な物はね、二人みたいなおかしな人たちを想定した強度で作られてられて無いの。知ってた? 自重とか手加減とか常識とか、どこに置いてきたのかな?」


「母さんのお腹の中、かな?」


 首を傾げながら、そう答えた姉にエリスは微笑む。


「お姉ちゃん? お母さんに後で伝えとくから」


「お願い! それだけは許して!?」


 リタは相変わらず、リィナには頭が上がらなかった。いつの時代も、どの世界でも、母は偉大である。


「私は、その……アレよ。そこまで常識外れなことは――――」


「キリカちゃん? 普通の人はティーカップの取っ手を指先で砕いたり、殴っただけで枕を破裂させるような力は持ってないの」


「そうなの……? 剣を握るのに必要じゃないかしら?」


 そう言いながら不思議そうに首を傾げるキリカに、エリスは頭を抱えた。この二人はダメだ。

 だが、とりあえずこの惨状をどうにかしなければ、今夜の寝床すら確保できない。


 エリスは、二人に部屋の掃除を命じると、濡れたキリカのタイツの洗濯に台所に向かうのであった。




「あちゃー。やっぱり降ってきちゃったね」


 窓を打つ雨音と、時折響く雷鳴を聞きながらリタはそう漏らす。

 雨自体は嫌いではないが、長いと髪の毛を纏めるのが大変になる。また、生理中に雨が降ると頭が痛くなることが多いリタには、憂鬱な水音であった。


 元々曇っていたこともあってか、外は大分暗くなっている。エリスの部屋は粗方、片付けを終え、三人はぐったりとした様子で、一息ついていた。


「そろそろ、お暇するわね……」


 すっかり乾いたタイツを履いたキリカは、気だるそうに立ち上がる。彼女の制服は、結局皺だらけになっていた。


(そう言えば、キリカ雨具持って来てないよね……)


 多少の罪悪感を抱いたリタは、キリカに声を掛ける。


「送って行こうか?」


 勿論、転移魔術で、である。

 エリスの作ってくれた魔道具のおかげで、貴族街のキリカの家までなら特に問題なく転移できる。キリカもあれから練習しており、多少空間跳躍の距離も伸びていたが直接家までとなるとまだ難しいようだ。


 流石に何度も跳躍を繰り返すのを、人に見られるのはよろしくない。

 現在の王国では、この系統の魔術は殆ど失われた技術となっていたからだ。


「そうね、誰かさんのせいで疲れたし、お言葉に甘えようかしら?」


 唇を尖らせるキリカに、苦笑いを零しつつリタも立ち上がった。

 リタが右手を差し出すと、彼女の柔らかな左手がそっと触れた。


「またね? キリカちゃん」


 エリスも立ち上がると、小さくキリカに手を振った。


「うん、お邪魔したわね。――今度、何か埋め合わせで持ってくるわ」


 微妙に引き攣った笑顔で、それに応えたキリカ。その様子に頷くと、リタは魔術を行使した。




 キリカを屋敷の敷地の端に送り届け、エリスの部屋に戻ってきたリタは、部屋の浴室でシャワーを浴びた。濡れた髪をタオルで拭いつつ、椅子に座って、エリスが淹れなおしてくれた熱いハーブティーを口に含む。


 その香りと温かさが、体中に染み渡っていくような感覚にリタは深い満足感を覚えていた。確かに、キリカの言う通りとても落ち着く気がする。


 珍しく、あまり食欲がわかないというリタの為に、エリスが簡単な料理を作ってくれた。静かに食卓を囲み、二人で穏やかな時間を過ごした。


 食事の後は、クリシェの実家に水晶型の魔道具で連絡を取る。リタが正にこれこそ魔術と言いながら、水晶にお互いの顔が映るように設計したものだ。

 相変わらず賑やかな父と近況報告を交わし、エリスの告げ口によって母からしこたま説教を食らったリタは、ぐったりとエリスのベッドに突っ伏していた。


 ベッドは、エリスが普段使っている柑橘系の石鹸の香りが染みついている。妹の匂いのする枕に顔を埋めながら、リタはこんな毎日がこれからも続けばいいと心から願う。


 いつしか、彼女と再会を果たした先でも、同じような日々を過ごせたらどんなに幸せだろうか。

 それは高望みだと、誰かは言うのかもしれない。


 例え戦禍の只中であろうと、絶望の底であろうと、彼女が望むならそれでも構わない。

 この命を差し出せと言うのなら、きっと躊躇わずに差し出すだろう。


 それでも――――。

 そう、それでも、だ。


 君が幸せになれる世界じゃなきゃ、私は嫌なんだ。

 せめて君だけは笑ってて欲しいんだ。


 だから、私は、その為に――――。




 いつの間にか、自分のベッドで寝息を立てている姉の横に座ったエリスは、優しく彼女の髪を梳くように撫でる。長い睫毛は、微かに濡れていた。


 彼女の薄い唇が動く。


「ノエル――――。ごめんね……救えなくて……痛かったよね……苦しかったよね……」


 うわごとのように、苦しそうな顔でそう発するリタ。その瞳からは涙が溢れ、白い頬を濡らす。


 エリスは、その涙をそっと拭うと、小刻みに震えているリタの右手を、優しく両手で包み込んだ。


「大丈夫だよ、お姉ちゃん。もう、大丈夫なんだよ? きっとノエルさんも、それを望んでたんだから。それに――私は、私だけは、絶対にずっと味方だから。望んでくれるなら、いつまでだって寄り添うから。だからね、もっと甘えてもいいし、頼ってもいいんだよ? それを待ってる人が、居るんだからね?」


 エリスの言葉は、リタには届かない。

 それでも、魂の奥底で共鳴する波動は、その想いを繋いでくれていたのかもしれない。


 暫くして、落ち着きを取り戻したリタに安堵すると、エリスは部屋の照明を落とす。


 今日はこのまま寝かせてあげよう。

 願わくば、姉が、次は幸せな夢に抱かれて眠れますように。


 甘い香りのする姉の胸元に顔を埋めて、エリスも静かに目を閉じた。

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