試験前の二人

「エリス~、そろそろ寝ない?」


 リタ・アステライトは十二歳になっていた。

 外では寒空に輝く、星々と二つの月が街を照らす。夜更けのアステライト邸、その子供部屋にて机に向かい、座って書物を開く妹を後ろから抱きしめる。最近はエリスも色々と気を遣っているようだ。新しく買った石鹸だろう、柑橘系の爽やかな香りがリタの鼻腔をくすぐる。


「お姉ちゃん、もう勉強はいいの? 実技だけで受かると思ってたら大間違いだよ?」


 首に手を回し、後ろからしなだれかかる姉の体温を心地よく感じながらも、エリスはしっかりとリタに話す。ここで甘やかしては、将来に差し障る。


「でもさ、ラルゴでも受かったんだよ? 私が落ちる要素とは」


 そう耳元で話す姉の吐息は少し甘い香りがした。歯磨きしたのに、また果実水を飲んでるな、とエリスは笑いそうになるを堪える。


「だーかーらー、その考えが甘いの。だってお姉ちゃん、算術と魔術以外は全て壊滅的だし。そう、終わってる領域じゃん、そもそも――――」


 そうしてエリスの長い説教が始まる。


 彼女たちは、まさに王立学院の入学試験を目前控えていた。



 王立メルカヴァル魔導戦術学院――。


 その設立は、この王国の黎明期まで遡る。当時の名称はメルカヴァル士官学校であった。名前が示す通り、元々は戦乱の時代において兵士を育成するために設立された学校である。

 当時、王国では魔術師という存在は珍しく集団戦術に組み込まれることはそれまで無かった。だが、学院の設立者により提唱された魔術理論により、飛躍的に王国の魔術は発展し、軍団戦術の在り方さえ変えていく。

 やがて、時代の変遷と共に、その名を変え、遂に魔導の文字まで校名に冠し今に至る。


 現在は総合学術院と銘打たれてはいるものの、卒業生の多くが目指すのは騎士や王宮魔術師、または上級冒険者である。

 その校風は設立当時から変わっておらず苛烈なまでの実力主義であり、生き残るための力を学ぶ学園として知られる。それは、街の外での生き方であってもそうであるし、戦場においてもそうであると言える。

 今でも、その技術を競い高めるために、生徒たちは日々研鑽を積み、あらゆる手段を以って戦うのである。


 だだ、一部には研究者の道に進むものがいるように、とくに魔術や錬金術の分野においてはその専門性および整った研究設備から目指す者もまた多く、文武において一流、まさに王国一の名門校である。


 ――とはエリス談であるが、リタは左程学校の歴史には興味が無かったので聞き流していた。

 華の女学生生活には勿論期待しているが、彼女に本当に必要だったものは、世界を生き抜く力とノルエルタージュの手がかりだけだ。


 リタはずっと、勉学に打ち込むことが出来ずにいた。

 全く興味を持てなかったのだ。自分が暮らす王国の歴史でさえ、基本的には他人事でしかなかった。


(ま、それ以上に前世から勉強は嫌いだったからね……魔術だけは、うん、中二心が爆発してしまったんだけど)


 勉強の話をしていたはずが、いつの間にやら学院にまつわるこぼれ話に話題は変わっている。放っておけばいつまでも蘊蓄を垂れ流していそうな唇を眺めていると段々眠くなってきた。リタは早々に穏やかな夜のパジャマタイムは諦めて、ベッドに倒れ込んだ。


 エリスは振り返る。姉は少しアンニュイな表情で天井を眺めている。エリスは手元の本を閉じると、姉の隣に潜り込む。リタが少し身体をずらして、エリスのスペースを空けてくれた。まだ冷たい布団が、姉妹の体温で少しずつ温まっていくのを感じながら、エリスは姉の横顔を眺める。


「試験……一週間後、だね」


 リタはそう静かに切り出した。エリスは頷きながら、「でも勉強はしないんでしょ?」と諦めた顔を向ける。


「そ、それは、そうなんだけど……」


 リタは目を逸らしながら、頬を掻いた。妹の視線が痛い。


「じゃ、明日からまた頑張ろう? そして一緒に学院に行くの」


「もし、万が一、だけど……私が落ちたらどうする?」


「落ちないように頑張るんでしょ? キリカちゃんだって待ってるよ? あとは、あの男子二人もね」


 そう言いながらエリスは笑う。


 長期休暇の時に帰ってきていたミハイルとラルゴは背も伸びていたし、顔つきも少し垢抜けていた。相変わらず仲良くいがみ合っていたが……。王都ではもしかしたら、彼女でもいるのかもしれない、とリタは見当違いなことを考えていた。


「そう、だよね……。うん!」


 明るさを取り戻した姉の表情にエリスの顔も思わず綻ぶ。


(大丈夫だよ、お姉ちゃん。ああは言ったけど、剣技でも魔術でもお姉ちゃんの実技を見た人が、放っておくはずは無いからね)


 暫く、吐息の混ざり合う距離で、華の学院生活に想いを馳せて会話を楽しんでいた二人であったが、いつの間にかリタは寝息を立てていた。


 穏やかな表情で眠る姉の、半開きの唇は今日も瑞々しい艶を放つ。

 エリスは部屋の照明を落とすと、そっと自らの唇で蓋をする。途端に心の奥底まで満たす姉の香りが、エリスの鼓動を早めていく。


「お休み、お姉ちゃん。――――頑張ろうね……。私を、一人にしたら、怒るから」


 くすっと笑ったエリスは、自分のベッドに戻っていく。そしてその布団の冷たさに驚いた。

 一人で眠ることを早々に諦めたエリスは、姉のベッドにおずおずと戻っていく。


(最近あんまり甘えて無かったし、今夜くらいはいい、よね? 流石にこの歳で一緒に寝てるって思われるのは恥ずかしいけど……姉妹だし、双子だし、全然大丈夫、問題ない。うん。)


 そうエリスは納得したものの、何故か周囲を見渡してしまう自分に苦笑いを零す。


「やっぱりもう一回――――」


 その夜、リタが苦しそうに身をよじるまで、エリスは唇を重ねていた。




 ――――翌朝。


「あれ、なんか唇荒れてる……」


 リタはそう言いながら自らの唇をさすっていた。肌はこれまでほとんど荒れたことは無い。


 そんな姉から目を逸らしながら、エリスは「冬だし、乾燥してるからね」と言いつつ、植物油脂から作られたクリームを多めに塗って保湿した、同じく先ほどまで荒れていた唇を重ねる。


「ん゛ん゛~ッ!? ……ちょっと! ――って……んッ……普通に……ぁ……くれれば――んぁ、ッく……」


 リタは真っ赤な顔で抗議の視線を向けてくる。だが、入念に隅々まで塗らなくてはいけない。エリスは少しずつ角度を変えながら、リタの唇に潤いが行き渡るまで続けていた。


「おすそわけ」


 そうやって悪戯っぽく笑うエリスに、リタはがっくりと項垂れ敗北を知った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る