王都への長い道のり 6

 快速馬車の車内は、すっかり静けさを取り戻していた。その車内の隅には異様な暗さを放つ存在がいた。死んだ眼で正座をしている父娘、言うまでもなくクロードとリタである。既にその顔に生気は無く、半笑いで何かをブツブツと呟き続けている。リタの髪は乱れ、まるで幽鬼のように落ち窪んた眼窩には怪しい光が揺らめき、干からびた笑い声を上げている。


「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ――」


 既に、あの騒動から一日半が経過していた。馬車は今朝も順調に進んでいる。明日には王都に到着できる見込みであったが、彼らのはまだ終わりを迎えていなかった。旅先の美味しい食事も食べさせてもらえず、少量の保存食のみを与えられたリタは精神に異常をきたしつつあった。


「ママ? そろそろお姉ちゃんが変な方向に進みそうなんですけど……」


 エリスは、不気味な化け物と化した姉を横目で眺める。夜中に遭遇したら、叫び声を上げる自信がある。


「もうちょっと反省が足りない気がするんだけど、どうしようかしら。まさか王都に着く前にあんなに恥をかかされるとは思ってもみなかったわ」


 まだ母の声には棘がある。エリスは、自分に飛び火しないようにさっさと援護を諦めると、読み飽きた本に目を落とした。

 それから少しして、呪詛のように絶え間なく響いていた声がは突然途絶えた。


「く、か……かひゅッ――」


 そのまま、リタは完全に意識を消失し顔面から床に崩れ落ちた。まるで生肉を硬いものに叩きつけたような、生々しい音を響かせて。


「あら? 一人ダウンね……。クロードは……もう気絶してるわね。――まぁ、今回はこれくらいにしといてあげましょうか」


 エリスは、溜息をついて姉を仰向けに転がす。両肩の下に手を入れて、姉の身体を引きずるとソファの上に寝かせた。


(溜息、癖になっちゃったじゃん……)


 はぁ、とまた溜息をついてしまった自分に苦笑いを隠せないエリスであった。




 その日の夜は、野営となった。


 クロードはようやく復活し、テントの設営から火起こし見回りなど相変わらずリィナにこき使われている。リィナは食事の準備を進めているようだ。

 御者はせっせと八本脚の馬に膨大な量の餌や水を与えている。馬車に積まれている荷物の大部分を占めるのがこれらであった。


 一人、手持無沙汰となったエリスは、まだテントで寝ている姉の元に向かった。外は少しずつ暗闇に染まりつつある時間帯。魔道具の明かりをつけるかどうか、迷い始める時間だ。

 少し涼しくなりつつある、草の香りのする風を料理の香りが包み込んでいく。きっと香りに誘われるよう、姉も目を覚ますに違いない。


 そんなエリスの予想通り、テントに入ったエリスが目にしたのは、ゆっくりとリタが瞼を開ける瞬間であった。いつもより弱々しい視線。乾いた唇は、掠れた声を発した。


「エ、エリス……水……死ぬ……」


「はいはい」


 エリスは、近くに準備しておいたリタの好物である、甘い果実の果汁をふんだんに使った果実水の容器を取り出した。蓋を外して、中身を注げば瑞々しく甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。リタは、少しだけ上体を起こし震える手を伸ばすが、エリスはその手を取って地に降ろした。


「絶対こぼすでしょ。飲ませてあげよっか?」


 リタは、力なく無表情で頷いた。そのまま力が抜けたように横たわる。

 少しずつゆっくりと、じらすように果実水を注いだ蓋を姉の口元に近づけていく。そして、蓋がリタの口元に触れる寸前に、エリスは果実水を自分の口に含んだ。途端に広がる、爽やかな味わいと甘い香り。リタは目の前でお預けをくらい、絶望的な表情を見せている。


 エリスは、頬を少しだけ膨らませたまま微笑むと、素早く周囲を見渡し、自らの唇をリタの唇にそっと押し当てた。乾いたリタの唇に、溢れた甘い雫が染み渡っていく。リタは、まだ意識が朦朧としているのか、されるがままだ。少しずつ、リタの口内にその甘さが伝わっていくと、思い出したかのようにリタの乾いた喉は液体を求める。こくり、と一度動き出した喉は止まらなかった。


「んくっ、んくっ……はっ……はぁ……っはぁ……」


 呼吸も忘れ、エリスの口内に残っていた全てを飲み干したリタは、ゆっくりと唇を離すと荒い呼吸を整える。少しずつ、その視線には意志の光が戻りつつあるようだ。エリスは、自分の顔の熱さを認識していたが、この暗がりで見られることは無いだろうと開き直っていた。鼓動はうるさく響いている。少しだけ、震えそうになった手を、意志の力で抑えつつ果実水の容器に伸ばすと再び蓋に注いでいく。


 リタが、今度こそと手を伸ばそうとしたのを遮り、少しだけ口に含むと、柔らかさを取り戻しつつある瑞々しい姉の唇に口づける。あえて少なめにした果実水を求め、吸いついてくる姉の唇に自らの唾液を送り込む。何処か恍惚とした表情で、余さず飲み下していく姉の表情はたまらなくそそる。


「……ねぇ、もっと――」


 静かに熱っぽく響いた姉の声に、理性を保った自分を褒めてやりたいとエリスは思った。蓋の中に残った果実水を一気に煽ると、待てないとばかりに顔を近づける姉の唇に再び注ぎ込んでいく。段々と力強さを増す姉に、溢れてしまった雫がその頬に一筋の線を作った。口の中の物を飲み干したリタの唇から糸を引きつつ唇を離すと、そのまま頬を舐め、両手を顔に添えてまた口づける。


「んっ……はっ……ぁッ……む……ちゅ――」


 少しの間、貪るようにお互いの唾液を交換した後、口を半開きにしたまま、ゆっくりと顔を離す二人。互いの舌の間には混じり合った姉妹の雫が糸を引く。そのまま至近距離で、熱く荒い呼吸を吹きかけ合いながら、お互いの匂いに酔う。


「……ねぇ? ここまでする必要、あったかな?」


 リタはちょっとジトっとした目でエリスを見ている。今日も私の勝ちだな、と思いながらエリスは笑顔で答えた。


「だって姉妹だし、普通でしょ?」


「なんかその台詞、前も聞いたような……? あれ、前もあったっけ……うーん」


「また変な夢でも見たんじゃない?」


 からからと笑うエリスに、釣られてリタも笑う。そして、果実水の容器を掴むとそのまま容器に口を付けて飲み干した。


「お姉ちゃん、行儀悪い。あと、全部飲んでズルい」


「仕返しです」


「ん」


 エリスは唇を尖らせている。


「何?」


「だから――ん!」


「はいはい」


 リタは、エリスの頬に手を添えると、その薄く柔らかい唇にそっと口づけた。


(なんか、エリスに勝てる気がしない……けど、姉妹なら普通、なのかな? ま、エリスが可愛いからいっか)




「リタ起きた~!? エリスも、ご飯できたわよ~!」


 母の呼び声に、姉妹は立ち上がると靴を履いて駆け出していく。周囲はすっかり暗闇に覆われ、料理の火と、頼りないランプの明かりが周囲を照らす。暖かな夕食でリタは完全に回復することになった。



 到着の時は近い。


 王都で待つ再会の時を待ちわびながら、リタは夜空を見上げた。

 そこには、千年前から変わらない二つの月と、千年前に自分が書き換えた星空があった。


 リタはテントに向かって歩く。


 きっと彼女も見ている――そんな確信を抱いて。

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