エリスの家出騒動 1
エリスは道なき道をひた走る。飛び出した木の根や枝を避けながら、ひたすらに。履いているブーツは既に雪と泥に汚れ、足先は冷たく湿っている。
最早自分が何のために走っているのか、何処に向かって走っているのかも分からない。
やがて風景は雪深い森の様相を呈す。吐息は白く、目の前の風景もまた白い。時折覗く針葉樹の幹や葉が辛うじてこの世界に色彩が存在していることを伝えていた。
――気付けば、街を出ていた。
門を通れば、確実に誰かに止められただろう。エリスは街を覆う壁を乗り越え、東の森にまで来ていた。
「何やってるんだろ……」
唐突に胸に去来した虚しさに、エリスは足を止めた。途端に、また涙が溢れる。少し汗ばんでしまった身体が急速に冷やされていく。そして、少しだけ冷静さを取り戻したエリスは、状況を把握して身震いした。
産まれて初めての感情の爆発であったように感じる。少なくとも物心がついてからこれほどまでに感情が乱されたことは無い。今更ながらに正常な判断が出来ていなかった自分を認識し、慙愧の念に堪えない。何の準備もせずに、冬の森にいることも然り、誰よりも大切に想っている人に、独りよがりな言葉を投げつけたのもそうなのかもしれない。
「私ごときが、おこがましいよね……」
思わず口をついて出たのは、自分を卑下する言葉。それは白い靄に変わり、風景に溶けていく。
もしリタがそれを聞いていたなら、否定しエリスをそっと抱きしめたのであろう。だが、自ら孤独を選んだ彼女に手を差し伸べる者など、この場にはいなかった。エリスは自分を抱きしめるように、もしくは自分を縛るように、両手で自らの肩を抱くと力なく座り込んだ。
「でもね、お姉ちゃん。私は嫌だよ……」
エリスは俯き、膝に頭を埋めつつ呟いた。
リビングで見せた姉の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
例え姉が、私のことを見てくれないとしても。
例え姉が、私に本当のことを話してくれないとしても。
それでも私は、きっと妹としてあなたの側にいられる幸福を噛みしめて生きていける。
でも、そこに姉の幸福はあるんだろうか。
私が進むことを諦めたら、姉はきっと世界で独りぼっち。
誰よりも高い場所で、永遠に孤独を抱えて生きることになるだろう。
だから、私は絶対に諦めない。
進むことを。
妹でいることを。
支えることを。
姉が生きていたい世界にすることを。
だからこそ、嘘でも自分を卑下する姉を許せない。
だからこそ、きっと本当のことを言っても信じてもらえないだろうなんて、そんなふざけたことを考えている姉が許せない。そんなこと、私に限ってあり得ないのに。
そして私が何よりも、何よりも許せないのは、そんな姉が――――
「悔しいよ……寒いよ……」
しんとした静けさが、孤独感を増していく。姉はこんな気持ちを感じていたりしないだろうか。今頃は皆心配してくれているのかもしれない。エリスは胸元から美しい銀の翼がモチーフの首飾りを取り出すと、両手で包むように握りしめた。いつしか、姉がくれたものだ。封印を解けば秘密の力が隠されている、とか言ってたっけ。その時の姉の様子を思い出すと、少しだけ優しく、そして寂しい気持ちになった。
自業自得だけれど暫く戻りづらいな。とエリスは思う。もう少し、このままでいよう。
「独りは、嫌だな……」
エリスは空を見上げる。相変わらず雪は止む気配がない。髪の毛にまとわりつく雪を軽く振り払うと、溜息をついて再度膝に顔を埋めたのであった。
その頃、エリス以外のアステライト家の面々は家に戻っていた。
「パパ、ママ? エリスいた?」
「いや、俺も全ての門番に話を聞いたが、門から外には出てないらしい」
「困ったわね。私も聞き込みしてみたのだけれど、東に走っていったという証言しか得られなかったわ」
「どうしよう。私のせいでエリスが……」
リタはあわあわとリビングの中を行ったり来たりしている。こんなことなら、常時追跡できる何かを仕込んでおくべきだったかもしれない。そんなことを言っても後の祭りであるのは承知であるが。後は、エリスにプレゼントした首飾りを、捨てないでいてくれることを祈るばかりだ。そうすれば、彼女が本当に危なくなった時には分かるはずだ。そもそも、エリスにはそこらの冒険者顔負けの魔術がある。そうそう危ない目に遭うことは無いと信じたいが、最近のエリスの思い詰めた様子を考えれば、不安は募るばかりである。
「もしかして、街の外に出たんじゃ……?」
リィナは青い顔で呟く。
「こんな時期にか!? いや、だがエリスにこの街程度の壁はあってないようなものだから、無いとは言い切れないか……」
「あの娘、相当思い詰めてた様子だったから、もし誰にも会いたくないのであれば街の外を選びそうな気もするわ」
「そうなると……東の森か? あそこは今危険だ。俺が様子を見てこよう」
「待って! 私も行く」
リタは思わず声を上げる。
私が行かなければ。
きっとエリスは私を待っている。そんな気がするのだ。
「ダメよリタ。この前話したでしょう? 今は魔人の目撃情報も出ているの」
リィナは、落ち着かないながらも出来るだけ優しくリタを諭す。
「魔人なら前に――――」
「駄目だ」
クロードは強い口調で遮った。その目に浮かんでいたのは悲壮な覚悟である。
「今回の魔人は、恐らく……前の奴の比じゃない。……言ってなかったが、先日S級冒険者が討伐に失敗して戦死した」
「S級が!?」
リィナも信じられないと驚いた顔で返す。それほどまでに、S級と呼ばれる存在が与える影響、人々にとっての安心は巨大なものであったのだ。
「ああ。緘口令が敷かれているから――言うなよ? 前はA級を二名、魔人が単体で殺している。今回はどうやら、そいつは魔物を操ることが出来るらしくてな。大量の魔物の物量に押しつぶされ、一人死んだらしい」
「だったら、尚更――――」
リタが何かを言う前に、リィナが遮る。
「それなら、残酷なことを言うようだけれど、あなたはここに居るべきよクロード。違うかしら? それが、私たちの責務」
「だが――」
エリスを欠いた家族の議論は紛糾し、何の解決策も見いだせない。
――――徐々にクリシェ周辺の雪は強さを増してきている。
どちらにせよこの雪を凌げる場所を考えないと。そんなことを考えていたエリスは、何かの気配と足音を聞いた気がして顔を上げる。
「誰――?」
「うん? こんなところに子供? まあいい。お嬢ちゃん、今から死ぬ奴に名乗る必要は無いよなァ?」
目の前にいたのは、血管が浮かぶ紫の顔に顔に白髪、そして口が裂けたのではないかと思えるほどに悍ましく凶暴な笑みを浮かべる男。――魔人と、遠くで蠢く無数の気配であった。
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