エリスの憂鬱

 エリス・アステライトの朝は早い。

 彼女は家族の誰よりも早く起きる。外はまだ暗く相変わらずの雪景色だ。今日は久しぶりに父が休みを取れたと言っていた。午後は、剣を振るうのもいいかもしれない。


 その前に、午前中は魔術の勉強がある。家庭教師の先生が来る前に予習もしておくべきだろう。ベッドからひんやりとした床に足をつけると、痺れるような感覚を覚える。


 姉はいつも通り寝息を立てている。幸せそうな寝顔だ。寒がりの癖に、布団は蹴飛ばされている。パジャマもめくれ上がっており、綺麗なおへそが見えている。エリスはそっとパジャマを整え、布団をかけ直す。


(よし、今日も頑張ろう)


 震える足に鞭を打ち、一階に降りると冷たい水で顔を洗う。震える手で掛けてある布を掴むと顔を拭く。鏡には姉とそっくりな自分の顔が映る。その瞳には少し卑屈な光が浮かんでおり、エリスは自己嫌悪を覚えた。


 頭を振って、雑念を追い払う。

 部屋に戻って魔術の勉強をしなければ。部屋に戻ると着替えを済ませ、自分の机で魔導書を開く。ひたすらに学んだ魔術理論を反芻し、神聖文字の魔導書の解読内容と照らし合わせて行く。より効率よく、より美しい術式を構築するために。合わせて、今日の授業範囲の予習も欠かさない。


 いつからだろうか、魔術が面白いものでは無くなったのは。

 いつからだろうか、姉と魔術理論を議論することが無くなったのは。


 分からない。

 私にはもう、分からない。


 ただ、あの人に見捨てられたくないという焦燥が私を突き動かす。


(見捨てるようなことはしないって、きっと言うんだろうな)


 だが、そんな甘えは私には許されない。決して、許されてはいけない。本物の翼を持つ姉を、地上に縛り付ける錆びた鎖。それが私なのだから。


 今日もエリスはひたすらに自己研鑽に励む。

 後ろから薄目で見守る姉の、心配そうな視線に気付かないまま――。



「リタ! いい加減起きなさい!」


 枕元からリィナの声がする。リタの意識はゆっくりと覚醒に向かう。早朝から勤勉なエリスを眺めていたが、また眠っていたようだ。


「ほげ?」


 呂律が回らず、間抜けな声が出た。リィナは呆れ顔である。


「もうちょっと年頃の女の子としての自覚を持ちなさい? はい、起きて起きて」


「ふぁい……」


 リタの欠伸混じりの返事にリィナは諦めたようだ。恐らく、そろそろ家庭教師が来るためさっさと部屋から出ろ、ということだろう。

 リタは着替えると、一階のリビングへ降りる。エリスは既に朝食を済ませ、本を片手に食後のお茶を傾けているようだ。


「エリス、早いね? おはよう」


「うん、おはよう……」


 エリスは本から視線を外さずに返事を返した。――やっぱり最近エリスはおかしい。リタは胸の奥に刺すような痛みを感じた。前まではこんな風に素っ気なく返される事は無かった。何か彼女の気に触ることをしてしまったのだろうか。


 そんなリタの思いに気付くこともなく、やがて家庭教師の先生が来宅すると、エリスはいそいそと部屋に向かって行った。


「エリス……」


 リタの視線は下がり、いつもは嬉々として食べている朝食の進みも悪い。クロードは心配そうにその姿を眺めていた。リィナから聞いていたが、これは重症かもしれない。午後にでも話を聞いてみようか、クロードはそう決意を固めるのであった。



 エリスは、いつも通り家庭教師の授業を受ける。確かに分かりやすく、魔術に対する知識も深いのであろう。それでもどこか退屈に感じてしまうのは何故だろうか。目の前に立つ妙齢の女性は、確かに元宮廷魔術師ということで王国ではさぞ名の知れた存在なのかもしれない。きっと両親も決して安くない金額を払って雇ってくれたのだろう。


「――ですから、単純に単一構成の術式同士を連結してもそれは、二連構成とはならないのです。分かりますね?」


 何処か上の空のエリスに気付いたのか、そんな質問が投げかけられる。


「分かります。発現要素に対して始点が2つあるのは無駄になる、そういうことですよね?」


「ええそうよ。それでは、先ほどお話しした中規模領域で展開する場合には、この連結は有効かしら?」


「いいえ、そもそも連結という考え方が必要になるのは、最終的に発現する事象に連続性を持たせる必要がある場合ですから、今回の議題のようなケースを想定すればいささか冗長に感じます。そのため、副次的効果を見越しての領域魔術の展開であれば、術式構成は複層構成を選択すべき――ということですよね?」


「素晴らしい! その歳で完璧に理解できるとは、流石としか言いようが無いわ」


 家庭教師は満面の笑みで手を叩く。香水の香りが、エリスの鼻をついた。彼女はプライドは高いが、間違いなく物事を客観的に評価できる人間だ。これまでに彼女に師事した人物の中でも、間違いなくエリスはトップであり、将来は世界的な魔術師となるであろう。その師が自分ということはとても鼻が高い。引退しても尚、彼女には野心の炎が燃えていた。


 そんな折、彼女達に飲み物をと果実水をお盆に乗せたリタが部屋に入ってくる。これまで頑なに家庭教師が来ているときは存在を消していたリタであったが、あまりにもエリスの様子が心配だったため様子見がてらこの役を買って出たのであった。


「いつも妹がお世話になっております。どうぞ……」


 リタは静かに二人分の飲み物を机に置く。


「あら、あなたがリタさんね? エリスさんよりお話は伺っています。……とても優秀だとか」


 その眼光の鋭さに、リタはさっさと撤退を決める。


「いえ、妹ほどではありませんので……失礼しま――」


「ごめんなさい、少しお待ちになって? リタさん、この魔術式分かるかしら?」


 少々面倒な予感がする。さっさと切り上げたい。エリスに救いを求めるも、特にその顔に感情は浮かんでいないように見えた。


「えっと……単一構成の雷属性中級術式、通称『雷撃ライトニング』ですよね?」


「ほう、一瞬で見抜くとは流石はエリスさんのお姉さんですね。では、もう一つだけ。術式の連結と複層構成の違いを説明できる?」


 更に鋭さを増した、家庭教師の視線にリタはたじろぐ。どの程度の授業をしているのか分からないし、もしエリスが答えられないような質問を自分が簡単に答えると後が面倒になりそうだと思う。


 エリスはこの時少しだけ、リタに期待の眼差しを向けていた。しかし、それはあっさりと打ち破られることとなる。


「すいません、分かりません。……では、失礼します」


 リタはドアを開けて退出する。退出の間際、ここまでずっと無言だったエリスと目が合った。そこに浮かんでいたのは、失望であり寂しさであり怒りであった。――リタは自分が賭けに負けたことを知った。


「ねえ、エリスさん? 以前言っていた通り、確かにお姉さんは術式を瞬時に見抜けるほどの目は持っているしきっと優秀なんだと思うわ。けれど、今はエリスさんの方が遥かに先に行っている。お姉さんを立てるのは美徳だけれど、あなたはもっと自信を持っていいのよ?」


 この人は何を言っているのだろうか。最早エリスの中ではいろいろな感情が渦巻き、何処か目の前の彼女の声が遠く聞こえていた。


「……はい……ありがとう、ございます」



 一階のリビングではテーブルに突っ伏したリタの姿があった。クロードが声を掛けるも、何でもないの一点張りだ。……もしや、反抗期か? 魔人騒動もあるし、胃が痛いことだ。クロードはこの時はまだ、呑気にそう考えていた。


 やがて、エリスは授業を終えた。家庭教師を見送るとその足でリビングに戻る。

 いつもより、少しだけ足音が大きい。気が立っているのかもしれないな、とリタは思った。


「ねぇ、お姉ちゃん? いつまで、そんな風に自分を偽るの?」


 エリスはリビングに入るなり、そう言った。その視線は真っすぐにリタを捉えて離さない。


「ごめん、何のこと――」


「ふざけないでよ!!」


 それは今までに聞いたことの無い声であった。その剣幕にリタは続く言葉を発することは出来ない。クロードも目を白黒させている。


「どうして!? どうして、いつもそうなの? 私が、私が出来損ないだから、それに合わせてるんでしょ? もうやめて! ――もう、やめてよ……」


 エリスの両目には涙が浮かんでいる。リタは慌てて弁解しようと口を開く。


「いや、違う――――」


「違わないでしょ!? ずっと、気づいていたし、知ってたんだよ。お姉ちゃんが私に合わせてるって、いつも私を守ってくれてるのだってそう! 全部、全部全部!! どうしてそんな顔が出来るの? 私が出来損ないだって、魔術を学んでるのも児戯だって――上から目線でずっと笑ってたの? ねぇ……」


「違う! それは違う! 私は、私は――――」


「嫌だ」


「え……?」


「もう嫌だって言ってるの! 上っ面の笑顔も、隠し事も、下手な嘘もうんざり! お姉ちゃんなんて、大っ嫌いなんだから――――!!」


 エリスはそう叫ぶと、駆け出した。両目からこぼれた涙が中空で煌めいた。リタは、その言葉のあまりの衝撃に、身体が椅子に縫い付けられたように立ち上がることも出来ない。自らの短慮さが招いた結果だと分かっていただけに、後悔の念が押し寄せる。


 クロードは慌てて立ち上がると、エリスに向かって叫ぶ。


「おい、エリス――!」


「うるさい! いつも居ないくせに、父親面しないでッ!」


 エリスの言葉は、クロードの胸を強く抉った。クロードは失速し、伸ばしかけた右手は空を切る。そのままエリスは玄関を乱暴に開けて出て行く。


 遠ざかる足音。

 追いかけねば……リタもクロードもそう思うも、両足が前に出ることを拒む。


「――あなたたち!」


 沈黙を切り裂いたのは、今まで見守っていた母の声であった。


「何をしているの!? 追いかけるわよ、早く!!」


 ――あぁ、そうだ。

 私は、そろそろ自分の過去と未来に落とし前を付けなければならない。

 色々なことを先延ばしにしてきた結果、最愛の妹を泣かせるなんて。


(お願い、早まらないでね。必ず、本当のことも全部伝えるから。)


「エリスッ!」


 リタは自分の頬を叩くと、開け放たれた玄関に向かって走り出した。

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