リュミールの湖畔にて 3

 武装した大男が、キリカに向かって走ってくる。よく日焼けした肌であり、まるで巌のような印象を受ける。短い黒い髪に、無数の傷が刻まれた表情。鍛え上げられた肉体が服の下からも強靭さを主張している。観光地では少し場違いにも思えるような胸当てを付け、大剣を背負うその姿は小さな子供なら泣き出しそうな迫力である。


 男はキリカに近づくと、息を切らせながら言葉を発した。


「お嬢様! その恰好は? ――もしや賊が?」


 そう言って周囲を素早く見渡す男の視線は鋭い。


「いえ、そんなものじゃないわ。大丈夫」


「そうですか……お嬢様に何かあっては、皆悲しみますので……くれぐれも――――」


「怪我は無いから、本当に大丈夫よ。少し本気で稽古していただけ。それよりごめんなさい、心配をかけたわね」


 キリカは目の前の大男に頭を下げる。


「お嬢様、頭をお上げください。しかし、旦那様もご心配なさっておいでです。さ、戻りましょう」


「ええ、そうね」


 キリカはもう一度、湖畔を振り返ると歩き出す。

 今からまた父親に説教されるのかと思えば気が重いが、その足取りは来た時よりも大分軽かった。




 リタは小刻みに転移しながら道のりを急いでいた。

 日も完全に昇っている。さすがにいきなり部屋に転移するのは色々まずいだろう。

 何と言い訳したものか…そう思いながら、リタは宿付近の木陰に転移すると宿の玄関に走って向かう。流石に日差しも強くなってきているが、やはり涼しい。そして緑が萌える街並みは予想通りに美しい。


 そして玄関が見えた時、そこには落ち着きなく右往左往する父と、こちらを見て鬼の形相で迎える母の姿があった。


(あ、あの母さんをやり過ごすのは無理だ…)


 案の定、リィナに即捕縛されたリタは耳を引っ張られながら部屋に連行されていく。


「どれだけ心配したと思ってるの!」


 部屋の扉を閉めるなり怒鳴られる。まぁ、幼女が行方不明になればそうですよね。耳の感覚無いけど、大丈夫? 私の右耳。――――とりあえず正座しとこう。


「ごめんなさい」


「さて、リタ? 言いたいことはある?」


「私の右耳はまだ頭部にくっついていますでしょうか?」


「ねぇ、この期に及んでふざける気かしら?」


「大変申し訳ございません」


「で、どこ行ってたの?」


「リュミール湖だよ」


「どうして?」


「朝の散歩、かな……?」


「何か問題起こしたり、人に迷惑はかけてない?」


「ちょっと、女の子の服を破いちゃったくらい……」


 リィナは頭を抱えた。


「……どうしてそうなったの?」


「模擬戦したから」


「何故? 知り合いでもいたの?」


「いや、初めて会った子だよ? 模擬戦は、うーん、何となくお互いにそういう感じになって?」


 何を言っているのか全く分からない。明け方に、知らない女の子と、湖で模擬戦? リタは手ぶらだ。殴り合ったのか? それとも普段から二本も剣を持ち歩いているような奇特な子が、目の前の娘以外にいるなんてことは天文学的な確率だ。――理解できる要素が無い。

 確かに、時々突拍子もないことをしでかす娘であるが、いきなり誰かを傷つけたりいたずらに人に迷惑をかけることは無いと信じたい。……それに大貴族の娘の服を破いてたりしたらと思うと頭が痛いなどいうレベルの話では無くなってしまう。


「それで?」


 リィナの迫力にリタは頭を下げる。


「えっと、この度は皆様方に多大なるご心配及びご迷惑をおかけ致しましたことを深くお詫び申し上げる次第でございます。今後はこのようなことが起こらぬよう善処して参る所存でありますれば、今回は子供の好奇心が招いたことと何卒ご勘案いただきたく――」


「リタ?」


「はい」


「ご飯抜き」


「……」



 ――エリスは姉が正座して説教を受けているのを退屈そうに眺めていた。そして突然、姉は活動を停止した。リタの柔らかな頬をつんつんと人差し指で突いてみる。……反応がない。どうやら気絶しているようだ。私の姉は食事に対する執着がとても強い。きっと旅先で楽しみしていた食事にありつけず、精神が耐えきれなかったのだろう。



 それから暫くしてお昼時になると、家族は部屋に運ばれてきた色とりどりの食材が並ぶ昼食を楽しんでいた。それらは一品一品、新鮮な食材を引き立てるようそれぞれ異なる調理法で丁寧に仕上げられている。派手ではないが、計算された絶妙な味付けは素材の良さをさらに昇華させる非常に上品なものだ。家族は笑顔で、それぞれに好意的な感想を述べながら、口に運んでいく。ひとりの幼女を除いて。


 リタは、口を塞がれ、簀巻きにして転がされていた。


「ん゛ん゛ーー! ん゛んーーーー! ん、ん゛ん゛んーーー!!」


(父さん、母さん、ここが日本だったら児童虐待で捕まっています! 幼女を虐めるのは反対です)


 誰にも言葉が届くことは無い。父は憐みの、母は呆れの視線で見ており、妹は視線も合わせようとしない。そうして彼女は大いに自分の行動について反省するのであった。それでも、あの出逢いのことを鑑みれば、決して後悔などあるはずが無かったが。


 昼食も終え、それぞれが食後の休憩と人心地ついていたころ、ようやくリタは地獄の責め苦より解放された。


「お腹空いた……」


「あなたに食べさせるものはありません」


「母が幼女に辛辣すぎる件について……。ねぇ、パパ?」


 リタは目を潤ませて上目遣いで父を見るも、さっと目を逸らすクロード。


「――チッ」


「なあリタ、もしかして今舌打ちしなかったか?」


「……」


「無視? もしかして俺、四歳の娘に既に無視されてる!?」


 とりあえず使えない父はいないものとして、空腹感を溜息と紅茶で紛らわし、気分転換も兼ねてリタは温泉に入るのはどうかと思いつく。


(流石に清掃も終わってるだろうし、やっぱり折角の温泉は楽しまなくちゃね)


「エリス、今から一緒に温泉行かない?」


「私? 朝もう入ったらいいや」


「もう無理……」


「ねぇママ? お姉ちゃんがいきなり倒れたんだけど……」


「いつもの病気よ。ほっときなさい」



 その後、再起動したリタを引き連れ、家族はリュミール湖の観光をしていた。リタにとっては二回目であるが、そんな些細なことは目の前の芳しい香りの前には至って些細なことだ。リタの胃袋は今すぐにエネルギー源をご所望だ。


 幼女らしく父を陥落せしめたリタは、出店に並んでいた串焼きを口一杯に頬張り、非常にご機嫌である。


(これ、すごく美味しいけど何の肉かは考えない方が幸せになれそう)


 香ばしく焼き上げられた、柔らかく旨味溢れる肉に絡まる甘辛いタレ。それを一気に口に入れ――見たことも無い形状の肉であることは考えないようにしながら――咀嚼し、次々に胃袋に納めていく。

 とても小さな子供とは思えない本数の串焼きを食べ、ようやく満足したリタを連れて家族は湖畔へと赴く。


 湖畔は昼もとても美しい。


 空の青や雲の白を反射する水面より、突き出した白い柱や赤茶けた廃墟。それらに苔が生えているのもまた、一興であろう。湖の周りは生命力に溢れ、緑の隙間に咲き乱れる黄色や赤の小さな花。それらの対比が、どこか寂しさを思い起こし、まるで時間が止まったような感覚を覚える。


 一陣の風が彼女たちの合間を駆け抜ける。


 なびく髪の行方を追うようにリタは視線を横に向けた。そこには、静かに湖面を見つめるエリスの横顔があった。普段はクールで大人ぶった妹も、きっと今はこの景色に心奪われていることであろう。


 そして風が凪いだ。

 一瞬の静寂に、本当に時間が止まったかのような錯覚を覚える。


 ふと、懐かしい気配を感じた気がして、エリスの視線を追うように湖面に目を向ける。


 そこにあったのは、きっといつかと同じ幻想――。

 湖面に立つ、黒髪を高い位置で2つに結んだ赤い瞳の少女が、こちらを見て微笑んでいる。


 リタも思わず笑みを零すと、その唇は音も無くその名を紡ぐ。


 それからゆっくりと、音が、時間が戻ってゆき――リタが瞬きをするとその姿は消えた。

 代わりに見えたのは、湖の向こう側で多くの人に囲まれながら、退屈そうに金髪が揺れる小さな姿。



「ねえ、キリカ? ――君がだったらいいのにね」


 リタは少しだけ寂しそうな笑顔で、そっと呟いた。


「ん? お姉ちゃん、何か言った?」


「ううん、独り言」


 リタはエリスに笑いかけると、小さな彼女の手を取って歩く。

 両親も静かに寄り添いながら湖面を見つめている。その表情の奥にあるものは、リタには分からない。彼らも、いつかの想いの残滓に触れているのかもしれない。


 双子が近づくと、二人はこちらを見て微笑んだ。


「ねぇ、パパとママ、聞いてくれる?」


 頷く両親に、リタは言葉を繋ぐ。


「――リタは、大きくなったら王立学院に通いたい!」


 驚くような顔をする両親。こうしてリタは、自らの未来への一歩を踏み出した。

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