リュミールの湖畔にて 1

 ――――誰かが、呼んでいる。


 リタは唐突に目を覚ました。恐らく、まだ夜明け前だろう。窓からのぞく空には星が瞬いている。他の家族は皆、寝息を立てている。


 誰だか分からないが、確かに呼ばれている気がする。リタの直感が告げている。今じゃないといけないと。


 ――――行かなくちゃ。


 リタはよく分からない焦燥感に突き動かされ、静かにベッドから這い出る。すぐに服を着替えると、靴を履き静かに部屋を出ていった。


「……お姉ちゃん……?」


 横で寝ていたエリスは、そっと瞼を開ける。姉の奇行は今に始まったことではないが、間違いなく初めて訪れた場所で、まだ夜明け前だ。わざわざ服を着てどこに行くのだろう。お手洗いは部屋にもあるし、温泉に行くにしても何も用意せずに出ていくのはおかしい。しかしながら、エリスも勿論土地勘が無いため今から着替えて姉を追いかけるのも憚られる。


(まぁ、お姉ちゃんなら大丈夫か)


 見た目は子供とはいえ、あの姉を傷つけられるような存在は早々いないだろう。そんな確信を抱いてエリスは目を閉じた。



 流石にこの時間帯に幼女が一人で出歩くことは考えられないので、リタは他の誰かに見つからないように静かに館内を駆ける。そうして音も無く、ロビーを抜け玄関より外に出た。

 透き通る空気に、まるで生きているかのように瞬く星々。綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込むと、仄かに胸のあたりがキュっとなるような、不思議な感覚。リタは夏の明け方がとても好きだった。


 さて、行こう。だけど、見つかるのはまずい。リタは人気のない路地裏で闇に紛れると、転移魔術で上空に転移した。この高度なら見つかることはあるまい。

 南の方に見えるのは大きな湖。恐らく、後ほど訪れることになるだろう有名な観光地だ。その湖の畔から、誰かの気配がする。とても澄んだ美しい魔力の波動。きっと、あそこだ。リタは確信を持って付近に転移した。



 ――――歌が、聞こえる。


 聞いたことも無い歌だ。とても美しく、儚い旋律。


 リタは焦るように自分より背の高い草を掻き分けていく。服が汚れるのも、何も考えられない。そして唐突に視界は開けた。


 そこにいたのは、まるでよく出来た人形のような、この世のものではないような女の子。


(私と同じくらいの歳かな? 自分で言うのも変だけど私たち姉妹と同じくらい綺麗な顔の子を始めて見た……)


 美しい金の長髪が風に揺れる。上品な朱色のボールガウンを身に纏い、透き通るような白い肌。かわいらしい小さな鼻は薄い影を作る。今は少し睫毛が下がっているようにも見えるが、きっと普段は意志が強いであろう大きな真っ赤な瞳。薄い桃色の唇は、アンニュイな歌声に濡れている。


 リタは言葉を忘れてその光景を見入っていた。

 気付かれずに見つめていることに罪悪感を感じるほどだ。澄んだ鈴の音のような歌声。星々と二つの月が水面に反射し、彼女の周りの魔素が何かを祝福するように煌めいている。古代の史跡の残る湖をバックに歌う彼女はまるで神話の一場面のようだとリタは思った。


「綺麗――――」


 リタの口から、思わず声が漏れる。


「――ッ! 誰!?」


 どこか可愛らしく、そして初めて人間らしい顔をした女の子であった。


「ごめん、びっくりさせちゃったかな? すごく綺麗な歌だったから……邪魔してごめんね?」


 リタは前に出て正直に話す。勿論、ちゃんと幼女らしさを出した表情で。


「……貴方は誰? 子供が一人でこんな時間に何をしてるの?」


「それを君に言われたくはないんだけど……私はただの観光客。今は明け方の散歩、かな? 君は?」


「私はちょっと、色々あって……気分転換?」


 女の子は少し言いにくそうに話す。


「じゃ、お互い様だね? ねぇ、さっきの歌、もうちょっと聞かせてよ」


「それは、ちょっと……」


 少し恥ずかしいのか、女の子は頬を赤く染めて目を逸らす。


(何この子……めちゃくちゃ可愛い……)


「ごめん、いきなりそんなこと言われても困るよね? 邪魔しちゃったし」


「ううん、それはいいの」


 二人の間に少し気まずい沈黙が流れる。リタは転生してから、基本的には明るく振る舞うようにしてきた。それは前世でのボッチ生活が長かったこともあり、そう努めている部分が多かった。けれど、実のところ初対面の同じ年頃の女の子と話す話題をひとつも持ち合わせていなかった。


 そんなリタに光明が差したのは、岩の陰に置かれた一本の剣を発見したからであった。


「ねぇ、その剣は君の?」


「ええ、そうよ?」


「ちょっと見せてくれないかな?」


 女の子は少し迷ったような間を見せた。大切なものだったかもしれない。


「いいよ……重いからね」


 そう小さく言っておずおずと女の子は剣を差し出す。美しい装飾に彩られた鞘だ。赤い金属をベースに金銀の装飾や青や緑の宝石も散りばめられている。正直に言えば華美であるが、女の子の仕立ての良い見るからに高そうな服とその上品な所作から間違いなく高価であることは想像に難くない。また、ここの立地からして彼女は恐らく有数の資産家もしくは大貴族の娘であろうことは明白である。――何故、まだ夜明け前にも関わらずこのような場所に一人でいるのかは分からないが。


 差し出された剣を両手で受け取る。確かに、この年の女の子には少し重いかもしれないが鉄剣と同じくらいかなとリタは思う。


「ありがとう。――抜いてもいい?」


「いいけど、危ないよ?」


「大丈夫」


 そう言ってリタは慣れた手つきで鞘から剣を引き抜いた。剣自体は美しい白銀の片手剣だ。特に飾りがあるわけでもない。少し大人向けよりは小さめだが、この女の子が持つと両手剣のように映るであろう。曇りのない剣身は間違いなく、本物だ。そう、敵を殺すための武器として。


 舐めるように剣を眺めた後は、片手で回すように軽く振ってみる。重心も完璧で小さい身体でも意外と振りやすい。切先から鍔までどこにも文句の付けようのない剣である。

 そんなリタを女の子は少し驚いた顔で見ている。


「ありがとう、いい剣だね」


 リタは正直に称賛しながら鞘に剣を戻すと、切先を自分の方に向けて女の子に返した。


「貴方も、剣の心得が?」


 女の子の視線が鋭くなるのを感じた。


「うん、ちょっとパパに教えてもらってるんだ。これでもそこそこ扱える自信はあるよ?」


 リタは少しだけ眉尻を上げて、女の子に視線を向ける。


「へぇ」


 少しそっけなくも、口元を吊り上げて答える彼女。


「試してみる?」


 彼女の視線に強い意志と興味が灯ったのを感じた。


「どうやって?」


「こうやって」


 そう言ってリタは右手を開いて見せた。水平に伸ばされた右手に、地面からせりあがる真っ黒な砂鉄の粒子が徐々に剣の形を成して握られる。


「魔術? ――面白いわね」


「でしょ?」


 そう言ってリタは笑うと切先を彼女に向けた。その意味が分からないはずは無いだろう。


「本気?」


「いいじゃん、私はこれでも同年代には負け無しなんだよ?」


 きっと彼女との対話はこれが一番手っ取り早い。


「それは私もよ」


「じゃ、私に教えてよ。君の剣を」


「一応聞くけど、貴方って私を狙う暗殺者とかじゃないのよね?」


「違うよ、通りすがりの魔法詠唱者だよ」


「冗談?」


「多分ね?」


「その冗談は気に食わないけれど、殺さないでおいてあげるわ」


 そう言って彼女は剣を抜いて鞘を投げ捨てると、切先をリタに向けた。笑顔だけれど視線は本気だ。


「私が勝っても恨まないでね?」


 リタは笑顔で挑発する。彼女の身体に闘志の炎が立ち昇ったのが見えた。



「それこそ、冗談。……泣いても知らないからね? ――――いざ、尋常に勝負!」

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