ノルエルタージュ・シルクヴァネア

 在りし日の姿で、邪神と同じ姿の少女が隣に立っている。

 ただ、どうにもその姿は薄ぼんやりとしていて、後ろが透けているようだ。

 懐かしい声に、シンは思わず涙が溢れそうになるのを堪える。


「言ったわよね、時間を稼ぐと。とりあえず、時間は足りたようね? 今なら貴方が世界を破滅させると言っても信じるわ」


 呆れたような口ぶりで話す彼女を見て、あぁこのジト目も久々だな。とか、こんな可愛い顔してたよな、そういえば。と、シンにとっては遥か過去の出来事を久々に思い出した。


「あぁ、修行にはいい加減飽きてきたところだったよ。それより邪神の傷はノエルが?」


「そうね。自分でも驚いているわ。それにしても、地球の魔素って私を変質させるくらい凄いのかしら? それともそれを流し込んだ貴方かしら? とにかく全力砲撃してみたけれど、まさかあそこまで奴を削れるとは思わなかったわ。おかげで私の存在情報も殆ど残って無いし、もうすぐ本体に戻るけれどね」


 彼女の弱々しい気配を見て、残された時間が長く無いのは分かっていた。

 もっと話していたいと思う。だがそれでも、成すべきことが変わらないことも同時に分かっていた。


「そうか……。だが、それにしても邪神が弱すぎ無いか?」


「そうかしら? 貴方が強くなっただけではなくって? 気付いていないなら教えてあげるけれど、とっくに人の領域を飛び越えているわよ」


「うーん、少なくとも地球でいう一般的な人間はやめている自覚は少なからずあるんだが、どうにも引っかかる。もう少し待てるか? ノエルの魂を解析する」


「時間はあまり無さそうよ? 向こうも何だか嫌なプレッシャーが強くなっているし。……本当、貴方と話すときっていつも時間に追われているわね」


「確かに……」


 シンは、苦笑いで返すしか無い。

 時空魔法は非常に制御が難しく、独学のシンは対象空間の時間の流れを止めるくらいしか出来ない。


「それより、残った力を振り絞ってわざわざ来てあげたのよ? 私の助けが必要かしら?」


「あぁ、知恵を貸してくれ」


 ここで、シンは障壁に閉じ込めているノエルの本当の魂を解析しながら、前々から聞きたかったことを聞いた。


「なぁ、ノエル……どうして自分の魂に宿った存在が邪神だと気づいたんだ? それから、なぜ邪神が破滅を翳す存在と知っていた?」


「えぇと、どうして今更その話? でも、そういえばあまり記憶に無いわね。邪神が宿っているのは間違いないという感覚で分かったと言えばいいのかしら? それから、邪神が破滅を翳すっていうのは神話にあるの。世界のすべてを無に帰し、再生の始まりを告げるものって」


「だったら、邪神が自分を媒介して復活するという事実は?」


「それは、魂が邪神を感じる物に変質していたから。あぁきっと乗っ取るんだろうなって思わない? 自分で無いものに、作り替えられる感覚ほど怖気を感じたものは無いわ」


「もし、仮にだが。邪神はノエルの身体を媒介して復活するものでは無いと言ったら信じるか? 例えば、そう、本当は邪神なんて神は存在しない、とか」


「面白い仮説だと思うわ。そうだったとして、私が必要としている解はひとつよ。勝算は?」


「勿論、百だ」


「成程、それだけ聞ければ十分よ」


 解析の結果から見てなんとなく分かってきた。

 無に帰す……再生……あぁ、そうか。

 これはまた、壮大なブラフが仕込まれているようだ。

 確かに、それはまるで神の御技としか見えないだろう。


「ひとつ、謝らせてくれ。俺は、ノエル、君を救いたいと思っていた。だけれども、どうやら今世でそれは叶わないらしい。だから……」


 覚悟を決めた顔で剣を構えたシンを見て、彼女は肩をすくめた。


「今更ね。元よりそのつもりよ。……魂が邪神に変わっていくのだから、来世も何も無いわ。私は消え去るために生まれてきたの。だから、せめて――――シン、貴方が終わらせてくれる?」


 シンは頷いた。


「ありがとう。じゃ、本体に戻るから、一思いにお願いね?」


 そう言って彼女は最後まで微笑んだまま、本体に吸収されるように消えていった。

 多分、自身が死ぬのを外で見て、そのまま消えることもできたはずだ。

 それでも自分自身の身体に戻り、ノルエルタージュとして死んでいく。

 きっとそれが、彼女の矜持なのだろう。


「あぁ、終わらせる。だけど、俺は君を邪神の呪縛から解き放つ」


 そう言ってシンは魔力障壁を解除する。


「行くぞ、ノエル」


 足を踏み出すと同時に、一瞬でシンの右手の剣が邪神の心臓を貫いた。

 邪神は目を見開き、吐血する。

 役目を終えた砂鉄の剣はサラサラと霧散していく。

 それは、一見すればあまりにもあっけない幕切れであるように見えた。

 だが、シンにとってはこれで終わりでは無い。

 崩れ落ちる彼女の身体を抱きとめると、すぐに全力で時空魔法を展開し彼女の時間を凍結する。

 そうして、彼女の魂に向き合う。


 彼女の魂に仕組まれていたのは、罠。

 彼女と周りの人間を欺き、あくまで邪神という存在が復活し全てを滅ぼすと知らしめるための。

 恐らく、術者の存在とこのシステムの存在を隠蔽するために。

 彼女自身は邪神の復活の媒介ではなく、破滅への引き金であった。

 そもそも邪神は神でも何でもない、途方もなく大きな規模のだ。

 誰が、こんなものを仕組んだのかは分からない。

 だけれども、恐らく遥か昔より一定の周期で行われてきたのであろう。

 アルトヘイブン、大小の月、太陽、そして多くの惑星の公転が、魔法陣を形成している。

 全ての条件が揃った時に、地表を焼き尽くしリセットする魔法だ。


 そのための最後のキーが、ノルエルタージュだった。

 彼女の魂は邪神に変質していたのではない。惑星魔法の最後の1ピースになろうとしていたのだ。


 だが、これ以上彼女を犠牲にするつもりなど無い。

 時空魔法で保護した彼女の魂にさらに全力で何重もの時空結界を敷き、まずはこれ以上の変質を防ぐ。

 後は変質した原因を取り除き、変質した部分を切り取るのだ。

 そうしている間にも、彼女の周囲には空間が軋むほどの圧力が加わり、魔法を発動させようとしているように見える。


 そんなこと、させてなるものか。


 健気な少女の魂をもてあそんだ挙句、彼女の愛した世界を終わらせることなど、どうして受け入れることが出来ようか。


 彼女はどこまでも孤独だったはずだ。

 残酷な運命に振り回され、人々には疎まれ、蔑まれ、虐げられ、それでも自身の在り方を受け入れ、自ら前に進んだんだ。

 きっと前世の俺ならとっくに諦めて、逃げ出していただろう。


 彼女は、人としての終わりを諦め無かった。

 自身を滅してでも邪神と成り果てることをよしとしなかった。

 気丈に前を向いて、他の誰かの為に自らの死を受け入れようとしていた。


 だから、だからこそ、そんな彼女を苦しめてきたクソみたいな運命に、どうして屈することが出来る。


 ――――否。


 断じて否である!


「さぁ、世界の変革を始めよう!」


 もう一度、世界を変えようと覚悟を決める。

 今度は、今度こそは、俺が君から貰った力で成し遂げてみせる――。


 シンはその左手で顔を覆い、右手は横に伸ばす。

 よくある中二ポーズだ。

 絶対に失敗の出来ない時だからこそ、最高の自分を演出する。


「我こそは、異界の理より出ずる異物。我こそは、汝の理の悉くを粉砕する者。我こそは、世界に変革をもたらす存在と知れッ!」


 あぁ、こんな時に全力で中二詠唱……最高に気持ちいい!

 頭を空っぽにして、とにかくイメージするのは最強の魔法と最強の自分。

 神の領域を蹂躙し概念の一欠片も残さず消し飛ばすという覚悟。


「混沌、欺瞞、停滞、閉塞、焼き尽くすは傲慢に染まりし妄執の果て。深淵に浮かぶ汝の躯に手向けたもうは穢れた太陽」


 縋ったり、祈ったりする神の名など、そもそも知らない。

 だから、俺はノルエルタージュ・シルクヴァネアに誓い、願う――。


 シンの右手にはいくつもの積層魔法陣の輪が纏まり付き、眩い光を放ちながら形をかえていく。

 その右手の延伸上、中空に浮かぶのは眩い光。

 正真正銘の全力の一撃。

 星をも砕く光は周囲の空間を歪ませる。

 地表に影響が出ないように何重にも重ねた障壁ですべてのエネルギーを収束する。


「誓約の時は来たれり。――滅せよッ! 究極アルティマ・熱核撃滅波動放射ニュークリアブラスト!!」


 シンは左手に少女を抱いたまま、右手を空にかざし叫んだ。

 あれ、魔法名変わっちゃったかな? まぁいいや。気分だし。


 掲げた右の手のひらに、一際大きい魔法陣が瞬く。

 その瞬間、誰の認識速度をも飛び越えて、光は走る。

 その光は、星のどこからでも観測できたという。

 極彩色の光は真っすぐに空を貫く。

 その時、大地の震える音を人々は聞いた。

 生きとし生ける全て、あるいは亡者も、神でさえ慄いた。

 光は、魔法陣を形成していた小惑星たちを蒸発させ、多くの星々の公転軌道を変え、惑星魔法を壊滅させた。

 ――――途端にそれまで存在していたプレッシャーが霧散していく。


 遅れてやってきた轟音と衝撃波は星を何周もしたという。暫く吹きすさんでいた暴風が静かになり、やがて砂埃も止むと、大きくシンは息を吐いた。

 ひとまずは終わった……か――――。


 彼女の魂から変質してしまった部分を取り除く。

 魂には自己修復機能がある。時間が経てばまた転生できるだろう。だが、少なくとも今の身体は魂の欠損が大きすぎて死に至ることは確実だ。


 彼には、死者を生き返らせる魔法も無ければ、欠損した本物の魂を元に戻す術も無かった。

 それに、例えあったとしても彼女はこの世界で邪神だと呼ばれ、拒絶されていたはずだ。簡単に、人々は変わらないだろう。

 もうこれ以上、苦しめたくは無い。

 例えそれが、自身のエゴだとしても。


 本当はもっと、話したかった。

 本当はもっと、笑い合いたかった。


 この結界を解けば、彼女は自由になり来世に向かう。

 この結界を解けば、彼女は死ぬ。


 だから最後に、と彼女の眠ったような顔を見つめる。

 それから暫しの時を置き、大きな逡巡を経て終わらせる覚悟を決めたシンは、ようやくノルエルタージュにかけていた時空結界を解いた。

 途端に時間が動き出し、流れ出る血液がシンを濡らす。

 シンは、膝をつくと左腕に彼女の頭を乗せ、下半身をそっと降ろした。

 柔らかな髪が腕をなぞっていく感触でさえ、切なさを呼び起こす。

 少し平坦な胸は、まだ僅かに上下していた。


(ありがとう……貴方で本当に良かった。)


 何処か満足げな表情を浮かべるとノルエルタージュは薄っすらと目を開けて、念話でそう話した。


「……邪神の呪縛は解いた。千年もすれば魂は修復され、生まれ変わるだろう」


 彼女は、弱々しく驚いた表情を見せた。彼女にとっては文字通り一瞬の出来事だったはずだ。


(貴方は、本当に……とんでもない、わね……。あとはもう好きに……生きて。貴方の……やりたい事をやって。……きっと、貴方の前には、どんな運命も、ひれ伏すわ――――。)


 彼女の左手がそっとシンの頬を撫でる。

 体温が、生命が、彼女が、流れ出しているのを感じる。

 シンの涙がその指を伝っていく。


 生まれて初めて、こんなに誰かの温もりを感じたというのに。

 生まれて初めて、こんなに誰かと生きたいと思えたのに。

 女の子を抱きしめるのは、こんなに胸が高鳴って最高なことだって知れたのに。


「ノエル、来世でまた会おう。俺は、必ず、必ず、君を見つけて迎えに行く。たとえ、どんな困難があろうとも、次は必ず君を守る」


(きっと記憶なんて……無い、だろうけれど……そうね……そんな奇跡なら……待っているわ。)


 彼女もまた、涙をこぼし微笑む。

 シンはそれはどんな芸術よりも美しいと感じた。



「……シン、ありが、とう」



 ――――もし、本当にそんな時が来たのなら。


 私はちょっとだけ内気な普通の女の子。


 彼は少し卑屈だけど面白い変わった男の子。


 出会った時はきっと、うまく話せないけれど。


 いつしか素直な気持ちで、ゆっくりとお話しできればいい。


 友達になって、一緒に遊んで。


 たまには本気で喧嘩してみたりして。


 少し大きくなったら、ちょっとした冒険をする。


 大人になれば、世界を旅したっていい。


 きっと何処へだって行ける。


 彼はきっと、私を開放する自由の翼なのだから――――。


 あぁ、そんな時が来たなら、私は……。



 優しく幸せな夢を見ながら、ノルエルタージュ・シルクヴァネアは静かに息を引き取った。

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