ノエル、と呼んだ彼

 ……我ながら大それたことを。慎太郎は、少女の言葉に簡単に頷いてしまったことを、一瞬だけ後悔した。


 それでも、目の前にいる彼女の助けになりたいと思ったのは事実だ。それは生まれて初めて――今を人生の続きと仮定すれば――、家族以外の人間とまともに関係を持ったせいかもしれないし、なんだかよく分からない状況に対する諦めだったのかもしれない。


 彼自身、地球で邪神を復活させようとしたのも、世界に破滅を翳す為ではない。怠惰と欺瞞に満ちた、衰退する世界に変化を齎す何かを欲しただけだ。……多少趣味や、自身のエゴがあったのは間違いないが。


「えっと、それで……、これから何を? 多分、邪神の復活を止める手伝いをする感じ、です……よね? 雑用くらいなら、出来る……? かもしれませんが」


 慎太郎は自信なさげに、そう問いかけた。邪神云々をどうにかする方法など分かる訳もないからだ。少女は、慎太郎の言葉に対して、少し考えるような間を見せている。だが、時を置かずして、その表情は驚愕と狼狽に塗り潰されることになった。


「――ッ! もう始まった……? ごめんなさい、あまり時間が無いようね。貴方には、一応迷惑をかけているし、選択肢をあげる。よく考えて選んで。でも、あまり待つことは出来ない」


 少し焦ったように早口で話す彼女の顔は、とても人間らしいなと思いながら、慎太郎は頷く。


「残念ながら、ここは情報生命体と化した貴方には、一方通行なの。だから、ごめんなさい。……先に断っておくけれど、地球に戻るという選択肢は現時点では存在しない」


 正直、全くそれは構わない。生きてきた人生そのものには、未練が無かったからだ。慎太郎は、その言葉に静かに頷いた。


「まずは、一つ目の選択肢。このままこの空間に留まって消滅を待つ。恐らく、もう間も無く消え去ることができるわ。痛みも感じず、苦しむことも無く、ね」


 少女は、人差し指を立てると遠くを見るような目線でそう話す。生きてきた人生に未練は無いと言っても、せっかく意識があるのに、このまま消えてしまいたいとは流石に思っていない。


 何より、これから何か面白そうなことが始まりそうだというのに、これは却下だろう。それに、俺は――――。だが、慎太郎が何かを考えるより早く、彼女は二本目の指を立てた。


「そして、二つ目。私たちの世界、アルトヘイヴンに転生する。こちらを選んでくれるなら、ひとつだけ呑んでもらう条件が――」


「二つ目でお願いしまふ!」


 ……大事な所で噛んだが、彼女が最後まで言い切らないうちに、慎太郎は叫んだ。勿論、異世界転生を選ぶのが中二病だ。他に選択肢など、あるはずもない。


「えっと……、その、私から言っておいてなんだけど、本当に? 本当にいいの?」


 鼻息を荒くする慎太郎に気圧されたように、少女は一歩下がると、そう問い返した。どうやら、慎太郎の返答を予想していなかったようだ。何処か引いた表情をしている気がするが……気のせいだろう。


「構いません。今すぐにでも、お願いします!」


「わ、分かったわ。……後で泣き言を言っても聞かないわよ? 時間が無いから、説明は現地でする。――覚悟はいい?」


「あ、はい?」


 そうして彼女は、おもむろに慎太郎の左腕を掴んだ。慎太郎が、その手の温もりや、美少女に触れられたという喜びに浸る間もなく、二人は光に包まれていく。


(猛烈に嫌な予感がしてきた……。あぁ、やっぱりまたこのパターンね)


 頭に猛烈な痛みを感じたかと思えば、慎太郎の意識はバラバラに散っていった。




 水中を漂うような感覚、そして、何かに引かれるように浮上――――。既視感さえ感じる感覚だ。だが、今回は、前回より遥かに鮮烈で強烈な印象を覚えていた。


 そうして慎太郎は、もう一度自身が慎太郎であったことを思い出したのだ。まだ少し思考に靄がかかったような状態だが、遠くから水音が聞こえる気がする。


 そして今回は、何より息が苦しい。……苦しい?


「かはっ……!」


 慎太郎は、思わず飛び起きる。その視界に入るのは、色彩。意識の上では、先ほどまで色の無い空間に居たせいか、色が目を突き刺しているのではないかと思えるほどだ。


 周囲を見渡せば、日本の昔の建物とアジアンテイストな異国情緒をミックスしたような、内装が目に入る。どうやら、建物の一室で目を覚ましたようだ。初めて見る筈なのに、何処か懐かしさを覚えるのはどうしてだろうか。……いや、そんなことはどうでもいい。


 身体がある。まともな手足もある。

 起き上がる時の気だるさも、ベッドで寝なかった時の痛みさえ懐かしい気がする。


 彼女がどうやったのか知らないが、本当に転生したようだ。慎太郎は、その手を開いては閉じ、感覚を確かめる。そうして、何度も繰り返したのち、強く両手の拳を握った。そのまま思わず叫び出しそうになるのを、ぐっと堪える。近くに彼女が居たら、恥ずかしいからだ。


 伸びをして上体をほぐしながら、一旦心を落ち着ける慎太郎であったが、どうにも調子が悪いのか、視界が少しボヤけて見える気がする。とはいえ、視力など多少悪くたって許容範囲だ。


 下を見れば、地球でいうゴザのような植物で編まれた敷物があった。どうやら、ここで寝ていた? ようだ。こっちは、はっきりと見える。よく分からないが、彼女に聞けばいいだろうと気を取り直した慎太郎は立ち上がる。


 近くには小さなテーブルらしきものがあり、水差しと陶器のコップが置いてあった。慎太郎は、水差しを満たす透明な水に反射した、自身の顔を観察する。


「顔は……あれ? おかしいな……。なんか不細工になってね?」


 実際には全く前世のままだったのだが、彼は過度に期待していたようだ。喉の渇きを感じた慎太郎は、水差しから水をコップに注ぐと、一気に飲み干す。


「うまいな……。流石は異世界」


 喉を通り、体中に潤いが行き渡るような感覚に、確かに慎太郎は生を実感していた。そんな彼に、声を掛ける者が居た。


「あら、お目覚めね? 調子はどうかしら。それと残念だけど、まだ本物の異世界じゃないわ」


 音も無く、隣に現れたのは、邪神の独立思念端末を名乗る少女。仄かな甘い香りに、美少女はいい匂いがするっていうのは都市伝説では無かったのかと驚きつつ、慎太郎は質問を返す。


「……えっと、つまり?」


「言ったわよね? 転生には条件がある、と。……非常に心苦しいのは確かだけれど。ここは、その準備する場所。私が作った時空結界による亜空間よ」


 何だかお預けを食らっている気にもなるが、今感じている高揚感に比べれば些末なことだ。慎太郎は、少女の言葉に苦笑いを浮かべた。


「確かに、そんな事も仰ってたような……」


「貴方には、アルトヘイヴンで成し遂げて貰いたい事がある。そもそも失敗すれば、転生したところで星と共に滅ぶのだから、分かるわよね?」


 強い視線を向けた彼女が発したその言葉に、慎太郎は頷いた。


「ええ。邪神復活を止めるお手伝いをするんですよね?」


「いいえ。――――貴方が邪神を滅ぼすのよ」


 一瞬、慎太郎は時が止まったような錯覚を覚えた。彼女は何を言ってるんだろうか? 三十年弱も生きて、まともに就労経験も無ければ、万年童貞の俺に邪神を滅ぼせだなんて――。


 一部をサイボーグ化していたならまだしも、今は転生に伴い元の身体に戻った。即ち、痩せ細った貧弱な肉体だ。せめて筋骨隆々で強靭な肉体にしてくれても良かったんじゃ無かろうか、邪神と戦えと言うのなら。ついでに言えば、格闘技や武道の経験も無いし、頭も良くない。


(更には、顔も地味というおまけ付きの、完全完璧なるクソ雑魚童貞成人男性だぞ、こっちは。……あれ? 涙が出そう)


「いやいやいや……。いやいやいやいや! 無理です」


 だが、必死で首を横に振る慎太郎の言葉も虚しく、彼女はただ無言で笑顔を浮かべるだけだ。だから怖いんだってば! その笑顔! そんなことは勿論口に出せない慎太郎は、おずおずと口を開く。


「えっと、その、大変申し上げにくい事この上ないですが……。私は地球ではごく平均的もしくは、多少平均より劣る可能性もあるくらいの、超絶一般人でして……」


 そんな慎太郎の言葉を、目の前の少女は鼻で笑うと呆れたような声を発した。


「……異世界に転生する人間を一般人とは呼ばないし、恐らく一般の人は邪神復活を目論んだりしないわ」


 これは一本取られたな……。とはいえ、今の自分が何の役にも立ちそうにない事には変わりがない。慎太郎は、恥ずかしさに頬を掻きながら、どうにか聞き返した。


「た、確かに……。ですが、所謂チートと言って伝わるか分かりませんが、すごい力だったり、能力とかくれるんですか?」


「そんな都合のいいもの、ある訳ないじゃない? 貴方に仮初の身体と魂を与えただけで、私には精一杯。あとは自分で掴み取るのよ」


 ぽかんと口を開けて放心状態の慎太郎を認識した少女は、苦笑いを浮かべながら続けた。


「……そもそも、貴方の事象干渉力は本当にとんでもないわ。魔力を持たない身で、魔術も魔法も存在しない地球であれ程の力があったのだから。こちら側の世界でなら、きっと何だって出来るはずよ。……正直、羨ましいわ」


 そんなことを言いながら、寂しげな笑みを浮かべた少女。その表情にはっとした慎太郎は、どうにか再起動を果たす。一応、自分にも多少の力はあるらしい。……本当かは分からないが。とはいえ、目の前の少女に、どんな言葉を掛けるべきか、慎太郎に分かる訳もなく――。彼はただ無言で頷くことしか出来なかった。


「貴方には、もうアルトヘイヴンの人間と同じ肉体と魂がある。今は仮初だけれど、存在が定着すれば本物になるわ。そして、これから貴方にはこの場所で修行してもらう。――そう、邪神を倒すためのね。ここは、アルトヘイヴンと同じく魔の理がある世界。貴方ならきっと魔術だって使いこなせる。私の得てきた知識の全てを、そこの本に変えておいたわ」


 そう言って、彼女は壁際の大きな本棚を指し示す。そこには如何にも凶器ですと言わんばかりの、分厚く重そうな大量の本が並んでいる。


 その光景に、思わずげんなりした顔をしそうになった慎太郎は表情を引き締めた。流石に、読める言語で記述されていると信じたい。


「よ、読んでみます……」


「ここにいる間、アルトヘイヴンの時間はほとんど進まないの。そもそも時間軸が違うから――いえ、この話は長くなるからやめておく。建物の外ではいくら魔術を使っても問題無い。とにかく魔術を使って、使って、使いまくって自分のものにして頂戴? 時間が来たら、そこの置き時計が示してくれるわ。その鐘が鳴った時、貴方はアルトヘイヴンに転移する。そして、目の前にいる邪神を倒す。簡単でしょ?」


 少女の有無を言わさぬ視線の鋭さに、慎太郎は断れぬ事を知った。元より既に、断る気など無かったのであるが。


 異世界転生という全中二の夢を叶えるのだ。やるしかあるまい。……とはいえ、である。情けないが、非常に不安だ。


「えっと、やっぱり一人でやるんですか? 教えていただいたり……とかは?」


 慎太郎の言葉に、少女は首を横に振った。


「ごめんなさい。私は貴方の修行の時間を稼がなくてはならないの。すぐにでもやらなくてはいけないことがあるから、先に行っているわ」


 また暫く一人での生活か……。前世では慣れた一人暮らしだが、何も分からない亜空間には不安もある。風呂とかトイレとか、あとは正常な一般的な成人男性として色々催した時のこととか。とはいえ、勿論ワクワクしてしまうのも至極当然だ。何せ、「魔術」である。


(というか、邪神を倒すための修行なんて、向こうの世界の最高峰の人達が出来なかったことを出来るようになるって、どれくらいかかるんだ? でも干渉力が云々言ってたし、一ヶ月か二ヶ月かそんなに時間が経たないうちに呼ばれるか……)


 慎太郎はこの時はまだ、呑気にそう考えていた。思案に耽る慎太郎に、少女の声が掛かる。


「――――それじゃ、そろそろ私は行くけど、最後に何かある?」


 これで彼女とは暫しの別れだ。次に会う時は、きっと――――。いや、その先は未来の俺が、きっとどうにかするだろう。……よし、やってやろうじゃないか。頬を叩いて気合を入れた慎太郎は、少女に笑顔を向ける。


「では、最後に。あるなら、名前を教えていただけないでしょうか?」


 この問いは予想していなかったのか、少女は数回まばたきをした後、笑いながら答えた。


「ノルエルタージュ・シルクヴァネア。これは本体の名前だけれど。だから、私もそうなのかな?」


「し、シルクヴァネア、様?」


 慎太郎は、その不思議な響きを噛みしめるように、そう問い返す。


「そう。好きに呼んで構わないし、今更だけどその下手な敬語も不要よ?」


「……分かった。じゃ、。……ありがとう、頑張るよ」


 慎太郎は、そう言って精一杯の笑みを見せた。いきなり、馴れ馴れしかっただろうか。だが、折角生まれ変わったのだ。自分を、変えたかったのもある。


 ……正直、心臓が爆発するかと思った。慎太郎は、噛まずにそう言えた自分を、とにかく全力で褒めちぎりたい気分だった。


「貴方って、慣れると意外に馴れ馴れしいのね? ……ふふ。でも、その適応の早さはとても好ましいわ。ありがとう、。――――待っているわ」


 そうして、少女は花の咲くような笑みを見せた。美少女にこんな事を言われて奮起しない童貞はいないだろう。慎太郎は、身体の奥底から力が漲ってくるのを感じていた。


「ああ、待っていてくれ」


 慎太郎は、最高にカッコつけた笑顔で頷く。少女は、数呼吸ほど逡巡するような間を見せた後、微かに寂しそうな笑顔を浮かべて小さく手を振った。そして彼女は、名残を振り払うように、強い意志を両目に宿して口を開く。


「例え、どれだけの時間が経ったとしても、絶対に、私を忘れないで。――貴方が必ず……、そう必ず、殺さなければならない女の事を」


 そうして、彼女の姿は掻き消えたのである。

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