最終話「第????話「淹れたてのコーヒー」」


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 同じ時刻、同じ場所で始まるはずのわたしの人生は、少しずつ、少しずつその様相を変えていく。世界にかんするそんな摂理を受け入れることは、わたしにとってそれほど難しくない。わたしは運命を信じていないからだ。わたしの一挙手一投足が、まるで筋書きとしてどこかの本に書き定められている。あまりにばかげた妄想だと思う。


 突っ伏して寝ているはずの二条さんが、携帯ゲームに興じている。それも、些細なずれでしかない。何も気にすることはないと、わたしはすぐに二条さんを受け入れた。


 ……だってそもそも、わたしは何度も何度も、何度も何度も何度も、人生をやり直してきた。この軌跡を、どうやって一冊の本に書き記すことができるっていうの? わたしのやっていることは、単にページを前に戻して読み直すようなことじゃない。言うなれば、午後十時のオフィスから、わたしは筋書きを書きかえているんだ。だから、世界のどこかに運命を記した本が存在するなんて、もはやありえない。わたしが好き勝手に書き換えてしまっているのだから。



 ただひとつ。

 妹の人生を華々しいものにするために。



 むしろ……わたしの両手にある茶表紙の本こそ、世界の運命そのものなのかもしれないのだ。いや、きっとそうに違いない。ある運命がわたしの本によって開始されたものであることに、わたし以外の誰一人として気づくことはできないのだから。

わたしはゲームプレイヤーなんかじゃない。ゲームマスターなんだ。


 それなのに、世界はわたしの思い通りに動いてくれなかった。


 世界にあらかじめ筋書きが用意されておらず、完全にランダムであるのなら、妹の告白が成功する「運命」だって何の気なしに訪れていいはずだ。わたしにとって、目標を阻むのは確率なる壁以外にありえない。そのはずだったのだけれど。


▼オフィスから きたくすると いもうとがねていた。 あしたのあさ きっぽうをいわうために わたしは はやおきして ごちそうをよういしようとした。

ひさしぶりのりょうりは だいしっぱい。 ガスを けしわすれたからか アパートがかじになって ぜんしょうした! いのちからがら にげのびたわたしといもうと。 いもうとの スマホは ひとともにきえた。


いもうとの こいは みのらなかった。

わたしは ほんを りょうてでひらいた。


▼わたしは オフィスでとまっていこうと おもった。 ねていたはずの にじょうさんが わたしのねこみをおそった。 はじめての よるのいとなみだ。 よくあさ わたしは よいんにひたりつつ アパートにもどった。いもうとは あおむけになって しんでいた! くびに あおあざが のこっている。 いもうとも ねこみを おそわれたのだろうか?


いもうとの こいは みのらなかった。

わたしは ほんを りょうてでひらいた。


▼わたしは でんげきのまほうが つかえるようになっていた。 わたしは てはじめに にじょうさんをやっつけた。 けいさつが やってきたので ぜんいん でんげきでやっつけた。さいごのひとりを やっつけるとき せいぎょがきかず わたしのみぎてが やけてしまった!

わたしは にゅういんした。 いっしゅうかんご たいいんして アパートにもどった。 いもうとは がししていた。 わたしのスマホには 「だめだったよ」 という いもうとのメッセージが とどいていた。 いっしゅうかんまえの ことだ。


いもうとの こいは みのらなかった。

わたしは ほんを ひだりてでひらいた。


▼わたしは いちもくさんに アパートへもどり ねているいもうとをつれて いえでを した。よくあさ しはつの ひこうきで かいがいりょこうを こころみた。 ひこうきは ついらくした。 わたしも いもうとも ぶじだったが、 わたしは りょううでが もげてしまった! おそらく サメに くわれたのだろう。

いもうとは スマホを うみにおとしてしまったようだ。


いもうとの こいは みのらなかった。

わたしは ほんを くちでひらいた。


▼いもうとの こいは みのらなかった。▼いもうとの こいは みのらなかった。▼いもうとの こいは みのらなかった。▼いもうとの こいは みのらなかった。

▼いもうとの こいは……………………

…………

……


 *  * *


「あれ? 沢村さん、もうお帰り?」


 二条さんがわたしを呼び止める。何度聞いたかわからないセリフ。これまでの人生で、わたしは二条さんにいろいろなことをしてきたけれど、どれも妹の恋の成就につながらなかった。二条さんは、妹の人生に与える影響が少ないのかもしれない。

というわけで、二条さんのことは適当にあしらって、今回はさっさと帰宅しようとわたしは考えた。ところがわたしが茶表紙の本をカバンにしまっているのを見た二条さんは、両眼を丸くして「ちょっと待って、二条さん、それ……」と声をかけてきた。


「どうかしたんですか?」


「その本、どこで手に入れたの?」


「どこって……二条さんには関係ないじゃないですか」


「『あなたには関係ないじゃない』だとか『何も知らないくせに』といった、ただ塞ぎこむだけの悲劇的なセリフが物語を好転させた事例を、僕は未だかつて聞いたことがないね」


 言葉に詰まってしまった。またうまいように言いくるめられそうになっている。とはいえ、どうせ何か良からぬ事態に発展したとしても、またセーブポイントからやり直せばいいだけだ。わたしは「家に置いてあったんですよ」とだけ言った。何も嘘はない。


 二条さんは少し表情を歪めた。「そうだろうね。君がその本を持っているとしたら、それ以外にありえないと僕は思っていた。だって……」


「その本を君の家の玄関に届けたのは、僕なんだから」


 わたしは──大きな誤解をしていた。


「その本は、開いた瞬間が人生の開始地点となる魔術書だ。ゲームが大好きでね、人生がゲームみたいにセーブデータが作れたらなあ……と僕は常日頃から考えていた。そしておぞましいくらいのブラック勤務を君にも強いて、ついに魔術所の開発に成功したんだ。僕はこの本を、君の家……もっと言うと、君の妹に届ける算段だった」


 経験してきた数多の人生は、確率によって選ばれたものでしかない。そこまでは正しかった。


「僕、こう見えて大学一年生なんだよね。魔術書の研究にかまけていたらダブっちゃってね、いっこめの大学を卒業してから、今の大学で三度目の一年生。声音が子供っぽいから、実年齢より若く見積もられることが多いのが救いかな。いやあ、繰り返すってのはつらいことだ。僕が遊び半分で所属している文学研究会に、先週、君の妹が入ってきた」


 でも、それぞれの人生は決して等価じゃない。「他よりも世界に適合する人生」が、確実に存在するのだ。


「で、君の妹に言い寄られてるなうなんだよね。昨晩LINEで告白されてさ、まだ既読無視してるんだけど、そろそろ返信してあげるつもり──ぶっちゃけタイプじゃない、LINEで告白ってダサすぎるって」


 不思議な本。ブラック企業。儚げな変声期の二条さん。スマホで告白する妹。談義を終え、スマホを弄って夜を明かす二条さん。実らない、妹の恋。どの人生でも不変だったこれらの出来事を、綺麗に伏線回収するものこそ「他よりも世界に適合する人生」だ。


「でも多分言葉だけでは諦めてくれないだろうから、僕は例の魔術書を「試運転」することにした。ちょうど、告白を終えた翌朝、玄関口に仕掛けた本を君の妹が拾い、ページを開いてくれれば……そこが開始点となり、過去が確定する。君の妹の恋が実る瞬間は、決して訪れることがない」


 そしてもうひとつ、わたしは大いなる後悔に至った。わたしは妹のために、何度も

何度も人生を繰り返してきた。「正解」の人生を見つけることに躍起になって、繰り返した回数なんてどうでもいいと考えていた。でも……


「魔術書の研究は大成功だった、と、僕は今さっき確信した。君が途方もない回数の人生を創始してきたことは、顔を見ればすぐわかる。この企業も君も、十分すぎる役割を果たしてくれた。最後に、君がその本を手放してくれさえすれば……」


「いやよ、そんなの!わたしにはまだ、やらなきゃいけないことがある!」


▼わたしは ひっしにていこうした。 わたしは にじょうさんとは つんできたけいけんがちがう。 さんかいめの いちねんせいが なんだ。 わたしの じんせいが なんかいめだとおもっているんだ。

わたしは ほんを おとしてしまった! にじょうさんは ほんを とりあげた! にじょうさんは わたしをみて にんまりと わらった。


「そろそろ疲れただろう。もう何も見たくないだろうから、両眼、ちょっと潰しとこうか」


 人生をやり直すたびに、両眼に疲れを感じていたことまで、回収しなくていいのに……つまるところわたしは、人生を繰り返しすぎた。それは、道理にあっていないことだった。いくら異なる人生を模索しつづけたところで、眼を潰されて、視界真っ暗になるだけだということに、わたしは最後まで気づけなかった。


 そう。それはちょうど、森羅万象の色を混ぜ合わせたら、夢も希望もない黒色ができるように──


 * * *


 僕の渾身の目潰しで、沢村さんは倒れてしまった。たぶん、彼女の視界は失われた。次に両眼を開くことがあるとすれば、またどこかに在るセーブデータからやり直すのだろうか? だとしたら、僕は何処に行ってしまうのだろう。……いずれにせよ、彼女に幸福は訪れない。


 結局、セーブができるようになったところで、人生は少しも好転しないのだろうか。でも……今の沢村さんは、言うなればゲームのローディング中。暗転した画面で、次なる人生を待ち続けている。


 それが、彼女にとっての幸福とは言わないまでも、等身大の安寧なのかもしれない──可哀想な話だが。


 ふと、彼女のデスクにブラックコーヒーが残っているのを見つけた。少し冷めているがそのぶん飲みやすいというのもある。とはいえ僕はブラックコーヒーが苦手で飲めなかった。


 理由は簡単。ブラックコーヒーは苦い。だから僕はシンクからシュガースティックを持ってきて、封を切って砂糖を入れた。これで少しは飲みやすくなるだろう。

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【短編】淹れたてのブラックコーヒーほろ苦く 在存 @kehrever

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