第1話「淹れたてのコーヒー」

 1


 Queenの『We will lock you』で目が覚めた。どんなに好きな曲でも、目覚ましアラームに設定してしまうと地獄からの怨嗟に早変わりする。でも憂鬱な朝を迎えるにあたり、せめてアラーム曲だけでもわたしの好みに合わせたいという思いもあって……難しいところ。ルーティーンと化した身支度を終え、起床してから小一時間で家を発つ準備が整った。


 壁掛けのカレンダーを見る。四月十五日、火曜日。大学生の妹にとっては、午後出勤の曜日だし、まだ寝ているかな……四畳そこらの狭くるしい一室、先ほどまでわたしの隣で横になっていた妹は、すやすやと寝息を立てることすらなく置物になっていた。背にかけた毛布がわずかに上下する。リアルな生の鼓動だ。わたしは少しばかり残念に思いつつ、ネイビーのスーツを翻して玄関口へ向かおうとした──


 あれ?


 玄関のカーペットのすぐ前方に、茶表紙の本が一冊、鎮座していた。普段意識して視界に入れない場所なので、気づかなかったら危うく踏んでいたところだ。


 わたしは茶表紙の本を手にとって拾い上げた。本は年季が入っていてホコリのにおいがした。小学生が使う国語の教科書くらいのサイズかな。しかし表紙はひたすら無地で、タイトルも何も施されていなかった。開いて中身を確かめようとしたけれど、出勤間際にそんな暇はなく、かといってカーペットの上に戻すというのも気乗りしなかったので、わたしはその本を閉じたままカバンにしまい、家を出た。


 そういえば……と、わたしは自転車をこぎながら思い出す。妹は昔から読書の虫だ。「なんのために読書するのか?」といった天邪鬼すら愚問だという態度を不言実行していた。学校の昼休みは、校庭で異世界交流するよりも教室の一角で自分だけの世界を彩りたいタイプ。趣味の欄に「読書」と書くことは、それが「昼食」や「歯磨き」と等値な「日常」であるがゆえに憚られるタイプ。


 そんな妹にもついに春が来た。四月十五日、近所のサクラの木は斜陽気味だけれど、妹の恋愛──それは彼女にとって間違いなく「非日常」であるだろう──は、今まさに花を咲かせようとしていた。


 昨晩、妹は高校時代の知り合いである男子に告白のLINEを送ったそうだ。一部始終をわたしは目撃した。本の虫である妹がLINEで告白っていうのが、少しミスマッチで面白い。わたしはそう言った沙汰にはまるっきり縁のない人間なので、これといった実になる言葉をかけてあげることはできなかった。それでも大切な妹を応援する気持ちは人一倍だ。


 きっと、妹は……取り返しのつかない憂鬱な生活に閉じ込められたわたしにとって、前途洋々な新しい「セーブデータ」なのかもしれない。「セーブデータ」とは、とある上司のよく使う言葉だ。


 わたしはこの頃、彼の影響か、人生をゲームと比較してしまうことが少なからずある。それはきっと、よくない傾向だ。


 2


 人生がつまらない。


 親に愛され、友人に恵まれ、学業に困らない中高生活だった。敷かれたレールをそのまま歩むことに、わたしは躊躇しなかった。社会保障、福利厚生が充実しているこのご時世に用意され、消費されつづけてきたレールに従えば、少なくとも人並みの幸せが間違いなく得られると思っていたからだ。


 そう、人並みの幸せ。わたしは多くを望まない。普通でよかった。平凡でよかった。お金が欲しいだとか、家庭を築きたいだとか、そんな目標は傲慢だとさえ思っていて……言葉にできない、鏡花水月の幸せを手にしたかっただけなのだ。


 実際、願いに相応の生活は実現したのだろう。就職に困らない程度の大学に入り、在籍時にすんなり……本当は、ここでつまずくのでは、と少しばかり危惧していたのだけれど……内定を獲得。そして大学をストレートで卒業し、就職した。


 紋切り型かもしれないレールを、いたってリニアに邁進し、そうしてモノにしたはずの、わたしの普通な幸せは──


──あまりに、つまらなくて、拍子抜けした。

 

 無理に早起きし、コーヒーを流し込み、急かされるように通勤。デスクでパソコンを解ったように弄りたおし、目的不明、旨味皆無の会話を上司を交わし、帰宅、就寝、早起き、コーヒー……これが、用意してくれた幸せ? 桎梏を逃れず、上司に愛想笑いを浮かべることがハッピーなの? 今の生活を繰り返せば、いずれレベルアップして次のステージに進めるのだろうか?……いや、わたしのどこにも経験値なんてたまっちゃいない。


 とある上司の言葉を借りれば、「とんだクソゲー」って感じ。今になって省みると、漠然とした幸せを望むことこそ、傲慢に他ならなかったのかもしれない。社会保障、福利厚生の充実したこのご時世だって、あやふやなフリーライダーの存在は許さないだろうから。


* * *


 しんと静まり返ったオフィス。午後十時、たぶん昨年から数えて百度目くらいの絶賛残業中。デスクに座りっぱなしというのは本当に疲れるものだ。わたしは立ちあがって、うんと背伸びをし、流し台のそばに置かれているコーヒーメイカーを目指した。


 コーヒーカップに黒の液体を注ぎ、自分のデスクへ戻る。ふう、と息を吐いてから、コーヒーカップを顔の正面にもってくる。上品な香りが鼻腔をくすぐった。わたしは昔からコーヒーが好きだ。それも、吸い込まれるような黒に、少しこげ茶が混ざったくらいのブラックコーヒーがお気に入り。砂糖やミルクを入れるなんて考えられない。それじゃあコーヒーの上品さが台無しだ。


 仕事もひと段落ついたし、このコーヒーを飲み干したら帰ろうかな、とわたしは思った。向かい側のデスクを見ると、上司の二条さんが突っ伏して寝ていた。そんな疲れる体勢で寝るんだったら、家に帰って寝ればいいのに……


 と、そこで、我が家から一冊の本を持ってきていることをわたしは思い出した。熱々のコーヒーが飲みやすいよう冷めるまでの暇つぶしになるかな、と考え、わたしはカバンにしまってあった茶表紙の本を取り出した。


 最近は忙しくて本と触れる機会がめっきりなくなってしまったわたしだけれど、かつては妹に負けないくらいの読書家だったと自負している。何の気なしに、わたしは手元の本を開いた──


 その瞬間に

 わたしの人生が

 コーヒーカップを中心に

 ぐるりと回った。

 


 ……なんて空想科学物語が一冊の本をきっかけに始まるのなら、わたしの人生も捨てたものじゃないのかもしれない。けれど現実はコーヒーのように苦くて残酷だ。午後十時二十分。薄暗いオフィスに一縷の光が差し込むことはなく、わたしは黒の液体を飲み干して無言で退勤したのだった。


 * * *


 帰り道、わたしは自転車に乗りながら妹のことばかり考えていた。妹の恋は成就したのだろうか、と。大学へ合格発表の掲示板を見に行く時の気持ちだった。浮き足立ってやまない……自転車に乗っているのだから、端から足は浮いているけれど。うわ、ローセンスにも程ががある。


 会社から、自転車を五分も走らせれば住宅地、わたしの住むアパートが見えてくる。立地だけは優れたブラック企業だ。けれどわたしがいま気にしているのは、自転車で五分の通勤路ではなく妹の恋路。風景をしみじみと眺める暇もなく、わたしはアパートの一室に辿り着い──


「きゃっ!」

 

 視界がぐにゃりと歪んで、次の瞬間に全身を痛みが走り抜けた。

我が家へと向かう最後の曲がり角でバランスを崩してしまい、転倒した。おかしいな、何もないところを自転車でコケるなんて、今までにやった覚えがないのだけれど……よほど疲労がたまっているのだろうか、あるいは妹のことで頭がいっぱいだったせいで、周りが見えていなかったから?


 わたしは起き上がり、スーツについた汚れを手でパンパンと落とした……うわ、カバンの中身が路上にぶちまけられている。深夜でヒトケがないのがせめてもの救いか。とりあえず、回収しないと……書類入りのクリアファイル、メガネケース、筆箱、化粧水、茶表紙の本──


「……?」


 あ……れ……?


 わたしは気がつくと、会社のデスクに座っていた。目の前に置かれているのは、ノートパソコン。両手には茶表紙の本……路上でぶちまけたのを、拾ったはずの本が一冊。手元にはコーヒーカップ。黒い液体がなみなみと注がれ、かすかに湯気を立てている。向かい側のデスクを見ると、上司の二条さんが突っ伏して寝ている。


 壁掛けの時計を見る。午後十時、絶賛残業中、なの……?


 これは、一体……? 理解が追いつかない。けれどなんとなくわかることが一つ。

 

 数十分前にわたしが目にした光景と酷似していた。


 * * *


 昨今の創作はタイムリープが伝統芸能の域に達しているそうだ。わたしはそういうのに疎いので、理解にかなりの時間、いや回数を要した。そうしてわたしが得た結論は、こうだ。


 茶表紙の本を開くと、以前のセーブデータまで巻き戻る。路上に本をぶちまけたと思った次の瞬間に巻き戻ったのは、たぶん何かの拍子で本を開いてしまったから。


 セーブポイントは、わたしが初めて本を開いた午後十時の会社のデスク。当時の状況は、確認のしようがないけれど、たぶんそっくりそのまま再現されている。何事もなかったかのように静まりかえったオフィスに、壁掛けの時計がさす時刻と、両手の本、それに手元のコーヒーカップ。


 コーヒーを口にすると、いつも淹れたてのほろ苦い味がする。コーヒーに慣れ親しんだわたしは、それを手がかりに以上の結論を得た。そして、壁掛けの時計のさす時刻を読んで、答え合わせをする。


 当初は何回目の午後十時だ……と頭の中でカウントしていたのだけれど、そのうち、そんな謎解きはどうでもよくなり、代わりにわたしは今の自分が他の誰も得たことのない「幸せ」を手にしたことを実感した。自分が、人生のレールを大いに逸脱してしまっていることに気がついた。


「わたしの人生、何度でもやり直せる……!」


 とはいえ、セーブデータを残業中のオフィスに作ってしまったのだ、わたし自身の人生はもうどうしようもない。でも妹のことなら……この茶表紙の本で、何かしてあげられるかもしれない!


 こうして、わたしの欠陥だらけな人生(ゲーム)が始まった。


 何回繰り返したかなんてもう考えも及ばない。わたしの体感だと、たぶん百回くらいかな? で、約百回目のオフィスを迎えたさい、いつもは机に突っ伏していたはずの二条さんが不意に携帯ゲーム機を取り出し、ゲームについて語り始めるのだから、肝を冷やしたものだ。


 わたしとしては、セーブデータを何度もリロードして人生(ゲーム)をやり直している真っ最中だったのだから。


 そしてその時点で、なんとなく不穏を感じてもいた。わたしは、まったく同じ人生をやり直しているわけではない。少しずつ、少しずつ、わたしを取り巻く環境が変化を見せている。このゲームは、単なるタイムリープものでは、どうやらなさそうだった。


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