【短編】淹れたてのブラックコーヒーほろ苦く
在存
第5361話「淹れたてのコーヒー」
1
しんと静まり返ったオフィス。両眼に疲労を感じたわたしは、読んでいた本を開いたままデスクに置いて、手元のコーヒーカップを持ちあげた。火傷しないように、おそるおそる黒の液体を啜る……うん、いつも通り。上品な苦みの効いた美味しいブラックコーヒーだった。
壁掛けの時計を見る。午後十時、絶賛残業中。新卒二年目のオフィスレディーが半日も仕事場にこもりきりだなんて、コーヒーに負けないブラックぶりだ。とはいえ仕事がひと段落ついたので、そろそろ帰路につこうとわたしは帰り支度を始めた。本をカバンにしまい、コーヒーカップを流し台に持っていって、それから……
「あれ? 沢村さん、もうお帰り?」
変声期のような儚げな声音。わたしのテリトリーとは少し離れたデスクに陣取る、スーツ姿の男性のものだった。
上司の二条さん。わたしよりも一つ年上の二十五歳。だからまあ実際、変声期に差し掛かっているはずはないのだけれど、声もそうであるように、身なりやオーラ、どれをとっても若々しい。
わたしは、そんな二条さんが少し苦手だった。
だから……というわけでは勿論ないけれど、わたしは二条さんの問いかけをシカトした。いくら働きづめとはいえ、最低限の社会性まで失ったつもりはない。彼の問いかけは必ずしも、というかほとんど、返答を求めていない。同じ部署で一年間という、短いようで長い時を共にしたわたしには、そのことがなんとなく解っていた。
「おいおい、無視かよー。つれないなあ」
前言撤回。今日はちょっと例外みたい。わたしは渋々「何か用ですか」と一言だけ返した。
二条さんはといえば、デスクに向かって身を乗り出し、両手を組んだような姿勢をしていた。スマホでも弄っているのかなと考えもしたけれど、近づいてみると明らかになった。二条さんは携帯ゲームをしていた。信じがたいことに。
「そういえばもう十時か。よい子の皆は疾うに帰宅済みの時間帯だね。さっきの僕の問いかけは、他ならぬ失言だった」
「よい子じゃなくても仕事場で携帯ゲームなんて手にしませんよ」
「あれ、そう? うーん、そうかもしれない。いやでも、今この空間には僕と沢村さんしかいないわけで。僕が年功序列の暫定トップ。で、”上”のヒトの目に触れている間だけやる気を出しているように演じるのが世渡りってものだよね。僕は然るべき場面に備えて英気を養っている。そう考えると、案外<いい子>なのかもしれないよ?」
「後輩のわたしが伺う限り、いい子の思考とは到底思えませんね」
「うわ、会心の一撃だ。あ、ゲームの話じゃなくて沢村さんの指摘のことね。それじゃあ僕は悪い子の中の悪い子ってわけだ。自分なりに誠実に生きてきたつもりだったんだけどなあ。難儀なことだ」
「そんな、心にもないことをお聞きするために、残業を延ばしたくないんですけど」
あはは、と二条さんは笑う。作ったような笑いだった。
「見透かされてるねえ、怖い怖い。時間も時間ってことで、手短に一席ぶつことにするけどさ」
二条さんは手にしていたワインレッドの携帯ゲーム機をわたしに向けて掲げた。サウンドは消されており、古風なドット絵の画面が映し出されていた。ゲームに明るくないわたしでもなんとなくわかる、いかにもなロールプレイングゲーム……
「……それが、どうかしたんですか?」
「ロールプレイングゲームって言ってね、架空の登場人物の物語(ゲーム)における役割(ロール)を演じるジャンルなんだけど、これが実に面白い、僕の好みなんだ。なんていうかねえ、そう、時間さえかければ絶対強くなって世界を救えるのが、カタルシス満開というか」
はあ。案外、どこかで以前にも聞いたような陳腐な話だった。わたしは合いの手を入れるように、直前の自分のセリフを繰り返した。
「それがどうかしたって? いや、沢村さんにも思うところがあるんじゃないかなあと。だってほら、人生ってロールプレイングゲームとは程遠いじゃん? 時間さえかければ強くなれるだなんて、夢物語もいいところだ」
「それは……」
まあ、その通りだろう。だろうけれど、そんな人生論をこの期に及んで展開するの? 二条さんはいつも斜に構えているようで、案外無難なことばかり言う。世渡り上手を称するに足るのかもしれない。とはいえ、今回に限っては……意図、彼の発言の意図がさっぱりわからなかった。
「人生はゲームと違ってマルマルがないからクソだ、みたいな話、よくあるじゃん。沢村さん、考えたことある?」
「よくあるのかは存じ上げないですけれど……セーブデータが作れないから、みたいな話ですか?」
二条さんは嬉しそうに目をぎっと見開いた。「おおー、わかってるじゃん。人生にセーブ機能があったら救いも少しは生まれるよね。いくらでもやり直しが効くし。やり直しが可能になったからといって上手くいくのかという問題は実際、残ると思うけれど……それは置いておいて」
その後の会話は「人生はゲームと比べて何が足りないのか?」という議題のまま進んだ。当初はさっさと切り上げて帰るつもりだったのだけれど、不覚にも話が弾んでしまった。悔しい。
──例えば、ゲームオーバー。誰だって人生を投げ出したくなることはある。実際、自分で命を絶ってしまうのも先行き不透明感からくるゲームオーバー欲のあらわれだろう。あるいは、ただ待っているだけでも、死というゲームオーバーのようなイベントは確実にやってくる。
けれど、死とゲームオーバーって本当にイコールで結ばれるの? 二条さんは「不能だね。死は一つの役割(ロール)に一度しか訪れない。ゲームオーバーは終焉の合図であっちゃいけないんだ」と言った。
わたしも、その通りだと思う。皆が現実に求めているゲームオーバーって、たぶん死みたいなものじゃない。死とは言うなれば、携帯ゲーム機そのものをハンマーで叩きつぶすようなイベントだ。
人生にはゲームオーバーが足りない。けれど、それは言ったって仕方のないことだとも自覚している。──ゲームクリアだって、リセットボタンだって、スリープ機能だって、言っても仕方がないのだけれど、丸っきり足りていない。人生は無いものだらけだ。そんな生産性のない、幾度となく先人が行き着いたであろう結論に、挙句は落ち着いた二条さんとわたしなのだった。
「じゃ、今日はお疲れ様。また明日ね」
壁掛けの時計を見る。午後十一時。二条さんはまだ帰らないようで、スマホを弄り出していた。そんな、心にもないことを……と今度は心の中で呟きながら、わたしはオフィスの外の夜の闇へと繰り出した。
2
淹れたてのコーヒーみたいに黒い空……うわ、ローセンスにも程がある。見慣れたはずの風景なのに、深夜の住宅街をうまい言葉で形容できず。普段から、注意して目に焼きつけようとしていないからなのかもしれない。
会社から、自転車を五分も走らせれば住宅地、わたしの住むアパートが見えてくる。立地だけは優れたブラック企業だ。夜の情緒を楽しむ暇もなく、わたしはアパートの一室にたどり着いた。
「あ、お姉ちゃん。お帰り」
立てつけの悪いドアをギギ……と開けると、リビングのほうから声がした。軋み音がうまいこと機能していて面白い。それに、家の壁が薄いので、ドア越しでも声がよく聞こえる。
声の主はわたしの妹だ。今年から上京して都内の大学へ通うことになり、わたしの住居を間借りしている状況。独り暮らし用のアパートなので、きゅうくつな感は否めないけれど、わたしとしては少しも迷惑ではなかった。
むしろ、願ったり叶ったり、だったりして。
リビングに入ると、妹は寝転がって、神妙な面持ちでスマホを見ていた。時間も時間だ、普通ならそろそろ就寝する頃だろう……けれど、わたしは妹が只の今、重要な局面を迎えていることを知っていた。といっても未来予知ができるとかではなく、今朝方にあらましを妹から聞いていたのだった。
曰く、サークルの同僚である男の子に告白をするのだと。
「……!」
ピロリン♪ と妹のスマホが鳴ると、妹はがばっと向き直った。親指で画面を急いでスクロールし、そして……
「ああ……」と、落胆の気持ちをこれでもかと示すため息をついた。
「……ダメだった、のね」
妹は小さく首肯した。わたしは何ともいたたまれない気持ちになった。かわいい妹に何を言ってあげられるだろう、唯一の癒しである妹に何をしてあげられるだろう、とやりきれない思いが心中を渦巻き、結果として静寂を薄気味悪いものに仕立ててしまった。
前途洋々の妹には、わたしのように閉塞した人生を歩んでほしくないのに。
わたしは、カバンにしまってあった本を取り出し、間が悪くなったのを紛らわせるかのようにページを勢いよく繰った──
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