第4話「ぼくとわたしの小さな世界」
「いつも通り」にいけばチェーン店で外食というと牛丼やラーメンが関の山なぼくであるが、今夜はどういう風の吹き回しか定食屋で用を足すことに決めていた。白米、味噌汁、漬物という紋切り型の夕食に一種の郷愁を覚えたのである。ところが、家から徒歩で行ける範囲に営業中の定食屋が一軒もなかった。ここ数日は買い置きしていたインスタント食品で食いつないでいたものだから、近所の経済が停滞どころか機能を完全に失っていることをぼくは知らなかったのである。
辺りを見渡すと、ヒトケが不自然なまでに失われていることにぼくは気づいた。ふうと息を吐くのも躊躇われるような静寂だ。「世界壊滅の前の静けさ」なのだろうか?たかが夕食のために外へ出てきてしまったことが場違いであるように思えてしまった。
別段空腹で困っているわけでもないので、頃合いを見て寮に帰ろう……そう思って踵を返そうとしたとき、ぼくはその人を見つけた。
「……!」
不思議な感覚だった。気づくとぼくは、川をまたぐアーチ橋の上に立っていた。不思議というのも自分がアーチ橋に立っていることを今の今まで少しも意識していなかったのである。世界で生活を営むうえで、押し寄せる膨大な情報を取捨選択するのはごく自然なことであるが、自分の現在地という情報は明らかに捨てられるべきでない。現在地が失われたら……『げきだんっ!』のセリフを借りるならば、「私が私じゃなくなる」ような気がするからだ。
オカルティックな納得をするのは憚られるが……ぼくの意志とは異なる何かが、ぼくをアーチ橋へ導いたようだった。
眼前にいるその人は、どうして今まで認識できなかったのかわからないくらい、風景のなかで映えていた。世界に溶け込むことを拒んでいるとも言い換えられる。その人は遠く水平線を見つめていた。わずかながらその表情が窺える。必死に涙をこらえ、慣れない孤独に陶酔しているように見えた。
それも含めて、ぼくはその人を美しいと思った。その人は女性だった。キレイな人だ。なんとなくぼくと歳が近そうだという気がする一方で、齢不相応な重い雰囲気を醸していた。それは、複雑に絡み合った人間関係が否応なく破壊されてしまうことへの悲しみであるだろう。
そう、つまるところ、ぼくとは生きている世界が残酷なまでに異なるのである。
そしてだからこそ、彼女がこの場にいることが滑稽でならなかった。清算すべき生活があるはずなのに、慣れない「ひとり」を気まぐれで試しているように見える彼女に、ぼくは憤りさえ覚えたのである。
「……あなたは」
あなたは帰るべきところに帰ってくれ。
この世界に対する孤独、自身をも勘ぐってしまうほどの空虚は、帰るべきところをもたないぼくの領分である。あなたのようなリア充の領分ではない。
そんな言葉を必死に飲み込んでいるところに、彼女が泣き顔で感慨を吐露するものだから、ぼくもいよいよわけがわからなくなって、
「馬鹿じゃねえの、お前!」
なんて吐き捨てて、下品に笑ってしまった。しかし、馬鹿は彼女では決してなく、ドラマに欠けた空虚なる世界に他ならないことをぼくはわかっていた。
* * *
「……馬鹿とはなによ!いきなり声をかけてきたと思えば……一体、どういうつもり?!」
その人の唐突な言葉に、わたしはわけがわからなくなって、考えがまとまらないうちに言い返してしまった。きっと、図星だったんだと思う。わたしは自分が馬鹿であるとわかっていた。
世界がひとつであると確認したい、なんてうさんくさい理由で外を歩いて、道行く人に話しかける迷惑行為に酔ってしまい……挙げ句の果てに、いざ自分が声をかけられると取り乱してしまう。馬鹿と言わずして何と言ったらいいのって感じだよね。
その人は男性だった。知人であるという可能性を考えたけど、彼の顔はわたしの記憶にない。彼は悲しげな表情をしているとわたしは思った。帰る居場所がないのかな…‥なんて邪推をしてしまう。ああ、ほんとうに邪な推理だ。世界の壊滅を控えて、悲しげじゃないほうがおかしい。冷静でいられなくて当たり前。そんなことは身をもってわかっているはずなのに。
「わからないのか?明日、5月20日に世界が壊滅する。少なくともあなたにとっては、それが避けようのない現実だろう。そんな壊滅を明日に控えて、日の入りの町を独りでぶらつくなんて、あなたのような人間がすることじゃない。それなのに、あなたはそれをしている。だから「馬鹿」だとぼくは言ったんだ」
「あなたのような、って……どうしてそんなに、わたしを知ったようにものを言うの?だったら、あなたはどうなのよ。あなたこそ、こんなところで時間を潰している余裕があるの?」
「ああ。ぼくには余裕がある。なぜなら現実が一種の虚構であり、他ならぬ空虚であることを心得ているからだ。ぼくは明日のことなんて少しも気にしていない……でも、あなたは違う。あなたには帰るべき居場所がある。現実という桎梏から抜け出せない、面倒なだけのコミュニティがあると……なんとなくわかる、ぼくには」
「なんとなくわかる?変な理屈ばかり並べ立てるくせに、結構なことだわ!」
わたしは必死に言い返す。彼の言葉は少しも意味がわからないのに、いちいちわたしの弱いところを刺してくる。きっとわたしは参っているのだ……現実に対して。
「あなたは映画をよく観る?」
彼は唐突に、素直な問いをぶつけてきた。わたしは「……はあ?」と素っ頓狂な声をあげる。形勢が明らかに不利だ。
「ぼくは映画が好きだ。アニメや小説も好きだ。ぼくはたぶんドラマというもの全般に惹かれるんだ。でも現実はどうだ、ドラマ性のかけらもない。そんな三流舞台に役者として上がるなんて、こちらから願い下げだよ!……ところが、現実もウソだという視点を手に入れたとき……この世界も、まあ言うほど悪くないんじゃないかと思えた。同時にぼくは、極めて冷静になれた。明日の世界壊滅も……上手い言葉が思いつかないが、なんというか、あっそうって感じで受け止めることが……くっ!」
「……!」
わたしは気がつくと、彼につかみかかっていた。彼の襟元を抉る右手に、いっそう力をこめた。うそ、これってただの暴力だよね。自分が感情に任せて手を出していることを、わたしは信じられずにいた。それでも、喉を突いて出る言葉を一挙にぶちまける。
「言っていいことと悪いことがあるでしょう!あなた、一体何様なのよ!あなただって、この現実のなかでずっと生きてきたんじゃないの?あなたが「ウソ」だと言う現実に!それなのに……」
「恩を仇で返している、とでも言いたいのか?……それは違うな。ぼくは現実から逃げているわけじゃない。むしろ余すところなく受け入れている。それを虚構とみなすことによってね」
「それが意味不明なのよ!それって結局、ありのままの現実から逃げているってことじゃないの?!あなたはフィクションに逃げているのよ、ドラマが好きってのもそういうことでしょう!わたし、そんなのみっともないと思うわ!」
「……逃げている、だって?」
ずっと平坦であった彼の口調が、にわかに怒気を帯びる。
「ぼくは断じて虚構に逃げてなんかいない。現実から逃げているのはお前らのほうだ。みんなが破滅を悲しみ、みんなが別れを惜しみ、みんなで傷を舐め合っている、そんな共同幻想に浸ることで、非常事態を乗り切ろうとしているのはそっちじゃないか!なのにお前らは、そうやっていつもいつも、ぼくのことを現実逃避だと詰るんだ!」
彼の剣幕にわたしは気圧されてしまった。以降の彼の言葉を、すべて受け止める心の余裕がなかった。ただひとつ、彼もなんだかんだ世界の壊滅を悲しんでいるに違いないという確信を得た。彼に言わせれば、それも幻想に過ぎないのかな。
……でもやっぱり、悲しくないわけないよ。だって、明日になったら本当に独りになってしまうんだもの。独りにひとつの意志を、運命を、背負わなければいけないのに。
彼はそれでも、「あっそう」と受け入れてしまうのだろうか?……だとしたら少しばかり、彼のことが羨ましいかもしれない。
わたしはその場で崩れ落ちた。全身から力が抜けてしまった。そして、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出して……
* * *
「あっはっはっは!ははははははは!あーっはっはっはあ!」
実に痛快だった。ぼくは圧倒的な勝利感を得て帰路についていた。
彼女を言い負かすつもりは、当初はなかった。これは本当である。しかし彼女の「現実逃避」に関する言葉だけは聞き逃すことができなかった。ぼくの逆鱗に触れたのである。ぼくはあらん限りの気力を絞り彼女を口撃したのだが、ふと気がつくとぼくの胸ぐらを掴んでいた彼女は崩れ落ち、しゃくりあげて泣いていた。
女を泣かせる男は最低?きっとそうなのだろう。ぼくは充分役割を果たしたと感じ、彼女を放っておいて場を後にした。
ところで、ぼくは先の言い合いにおいて妙な役割めいたものを感じていた。いうなれば、ぼくがいたアーチ橋が舞台で、ぼくはひとりの演者……そんな風に思えた。勿論取るに足らない錯覚なのだろうが、どうしてもあの場を斜め上から客観視することを避けられなかったのだ。
「舞台に上がったら、私は私じゃなくなる。そこに立つのは劇中の登場人物。それも私であってほしいのだけれど、残念ながら少しも私じゃない……」
昼間に見た『げきだんっ!』のセリフを復唱してみる。あの場に立っていたぼくは、果たして本当にぼくなのだろうか?それとも、少しもぼくではない?
まあ、どうでもいいことだ。
数分も歩くうちにぼくは寮へ着いた。午後八時。まだ寝るような時間ではない。ぼくは「いつも通り」に、録画しておいたアニメを消化をしようと思った。
気がつくと午後十一時になっていた。そういえば、隕石の衝突は5月20日としか聞いていないのだが、具体的な時刻はいつなのだろうか?日付が変わった瞬間に悲劇は到来するのか?
そんなことで変に気を揉むのも嫌なので、ぼくはもう寝ることにした。
くたびれた布団を被りながら、ぼくは自分の胸が高鳴っているのに気がついた。この気持ちは……
そう、サンタさんを待つときのそれに似ている。
何年前だろうか……「サンタさん」というものの存在を知り、ぼくにもサンタさんが来るかもしれないと、夜通しワクワクして眠れなかったことがあった。
しかしその翌朝、「今夜はこれでなんとかして」という書き置きとともに千円札が数枚、食卓の上に置かれているのを見つけた。クリスマスの日、ぼくは家に独りだったのだが、そんな状況もぼくにとって既に「いつも通り」の状況と化しつつあった。
ぼくはそのとき、サンタさんなんてものがいないことを知った。
現実の虚構性をわずかながら悟ったのは……たぶん、あのときが初めてだ。
次に目が覚めたとき、世界はどのようになっているのだろう。そもそも目覚めることができるのか?
ぼくは興奮を必死に抑えつつ、ぐっすりと眠りに落ちた。
そして5月20日を迎える。
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