ありがとうとおやすみ

「どれにしましょうか?」


 腕の中、浴衣姿の美園が楽しそうな笑顔を浮かべながら振り返った。保湿の為のボディクリームの甘い香りがまだ強く残る彼女は、手元のリモコンを操作してテレビに番組表を表示し、それを手渡す。


「そうだなあ……」


 二人でゆっくりとテレビを見る事など年末年始以来ではないかと思う。僕も美園もニュース以外の番組を好んで見る事をしない上、僕が資格試験の勉強に注力し始めてからは余計にそうだった。

 だからこそ美園は久しぶりにと提案してくれた訳で、番組表に目をやる僕を嬉しそうに見つめている。


「じゃあこれにしようか」

「はい」


 ニュース番組や連続ドラマがほとんどの番組表。最初から選択肢は多くなかったが、ヨーロッパの街を散歩する番組を選んだ。

 残り時間は20分弱、まったりとした時間を過ごすのには内容も時間もちょうどいいのではないかと思えた。


「美園は海外行った事ある?」

「ありますけど、ショッピングや観光、観劇でしたからこんな風にゆったりと街並みを見ながら歩く事には少し憧れますね」

「違うもんかな?」


 海外経験の無い僕としては、一般的な海外旅行と言えば今美園が挙げた様な印象がある。


「子どもの頃に両親に連れて行ってもらった旅行でしたから。もちろん楽しかったですし、いい経験が出来たと思っていますけど」


 ふふっと笑い、美園はシャンプーの爽やかな香りのする髪を揺らし、こちらを振り返る。


「知らない街を、智貴さんと一緒に歩いてみたいなあって」

「……うん。行こうか」


 可愛らしいはにかみを浮かべていた美園がぱちくりとまばたきを見せ、「え」と眼鏡の奥にある大きな瞳を丸くする。


「あー、今すぐとかって訳じゃないけど。たとえば美園の卒業祝いとか……新婚旅行とか」


 美園がしてみたいと言ってくれた事を自分でも想像してみて、意識せずにした発言。もちろんそれに偽りは無いが、少し性急だったかと思って付け足した言葉は更に性急なものになってしまう。

 対して美園はもう一度可愛らしいまばたきを見せた後で破顔し、腕の中で器用に反転して僕に抱き着いた。


「では新婚旅行でという事で、今から楽しみにしておきます」

「うん。僕も楽しみにしてる」


 耳をくすぐる優しい声に頷き、そっと抱き締め返し、軽く唇を触れ合わせる。

 そうして少し頬の弛んだ美園の前に小指を差し出して「約束だ」と口に出せば、彼女は「はい」と目を細め、白く細い小指を絡めた。



 後ろから美園を抱き締める普段の体勢に戻って再びテレビを見始め、しばらくは互いに感想を口にしていたのだが、段々と美園の口数が少なくなってきた。

 後ろから支えているので船を漕ぐような事は無かったが、眠いのだなというのは当然分かった。今日は頑張ってくれたのだから、疲れも出るだろう。


 慣れない車の運転もそうだが、僕が望んだ一緒の入浴もそうだ。それらを強いたとは思わないが、美園は気を張っていただろう。彼女自身がそうしたいと思ってくれた事は間違いないが、それでもやはり僕のためであるという面も大きいと思う。自分はなんと幸せなのだろうと、それを噛みしめて、その行為自体が更に幸せを運んでくる。

 明日の事を考えたとしてもまだ眠るには早い時間ではあるが、心の中で美園に「ありがとう」と告げる。


 それから数分した頃には互いに言葉を発する事も無くなり、出来る限り優しく、そっと美園の髪を撫でると、彼女は心地良さそうに口の端を僅かに上げ、「んー」と甘い吐息を漏らす。

 続けていると段々とそんな可愛らしい反応も薄くなり、美園の小さな体からは力が完全に抜けた。


「おやすみ、美園」


 番組も終盤に差し掛かっていたテレビを落とし、そっと美園の眼鏡を外してテーブルの上に置く。

 腕の中で気持ち良さそうに静かな寝息をたてる美園の髪をもう一度撫で、布団に運ぶまでもう少しこうしていようと思った。彼女を起こしてしまわぬよう、もう少し深い眠りに入るまで。そして自分自身、腕の中で安心しきって眠ってくれている可愛らしい恋人の姿を、もう少し見ていたかった。

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