約束と夜涼み
値の張る旅館の夕食というのは想像していたよりもずっと豪華で、卓上には次々と料理が運ばれてきた。海沿いという事もあってなのか海鮮が中心で、刺身をメインにつぼ焼きやおつくり、寿司に小さな海鮮鍋、焼魚などが所狭しと並ぶ。
品の説明を終えた仲居さんが部屋を辞し、「いただきます」と食事を始めると美園は笑顔の中にも少し神妙な様子を覗かせ、料理の研究をしているのだなと分かった。それが半分以上僕のためである事は自惚れではないだろう。
「刺身包丁を買わなければいけませんね」
「刺身包丁?」
ちょうど僕が刺身を口にし終えたタイミング、美園はふふっと笑いながら楽しそうな声を上げた。
「ええ。美味しいお刺身を食べてもらおうとしたら、やっぱり必要ですから」
「ありがとう。楽しみにしてる」
やはり当たりだったなと思いながら、遠慮はせずに素直に感謝を示す。
美園が僕のためにしてくれる事は可能な限り受け止めたい。行為だけでなく彼女の思いそのものを嬉しく感じるし、美園も僕のために何かをするという事自体に喜びを感じてくれるから。
「はい。任せてください」
その証拠が目の前にある大輪の花を思わせる笑顔だ。
そしてこれは立場を逆にしても同じ。僕だって美園のために何かする事自体に喜びを覚える。だから彼女の厚意を素直に受け入れ、そしてそれ以上を返したいと思うのだ。
何をしようか。今から既にそんな考えが頭に浮かぶ。何をしても喜んでくれることは分かっているが、だからこそ難しい。そしてその難題がまた幸せを運ぶのだから頑張らないといけない。
先日参加したインターンシップを終えた時よりも強く思う。今後も秋冬といくつか参加予定であるので、ここで経験を積んで美園と過ごす自身の将来にとってプラスにし、そしてやはり今信じてくれている美園に喜んでもらいたいと、決意を新たにする。
「智貴さん」
「ん?」
「ダメですよ。今日はしっかり休んでくださいね」
そんな事を考えた僕に対し、ほんの少し眉根を寄せて僅かに険しい顔を作った美園が少しだけ身を乗り出して口を尖らせる。
「今何だか、頑張るぞって顔をしていましたから」
「流石、よく分かってるなあ」
内心の全てを見通した訳ではないのだろうが、それでも一瞬なはずの表情の変化でそこまで察してくれた事が堪らなく嬉しく、頬が弛む。
美園は僕の感心に一瞬自慢げな微笑みを見せたが、すぐに顔を元に戻した。
「お義父様とお義母様からのせかっかくのご褒美なんですから、今日はゆっくりしてください」
「大丈夫だって。ちょっとこれからも頑張ろうって思っただけだし、今日は何も持って来てないからね。それに大体、ご褒美って事なら美園と一緒の時間は全部ご褒美だからね」
「……そういう事を言っても、誤魔化されてあげませんからね」
頬を朱に染めてふいっと顔を逸らした美園は言葉に反してどうも誤魔化されてくれたらしい。もちろん誤魔化す意図は無かったのだが。
◇
卓上を埋め尽くすほどの食事を平らげて――美園の分も少し胃に入れた――しばらくは部屋の中から動けずにいたが、腹ごなしという事で中庭まで散歩に出た。
灯篭にともされた炎が日の落ちた暗い庭園を優しく照らしており、夜風に吹かれて二人の影がかすかに揺れる。
「夜のお散歩もいいですね。昼間とはまた違った顔が見られます」
夏の力強い緑は暗闇の中で橙色に照らされ、美園の言う通りまるで違う顔を見せている。池や配置された石の付近などの足元が危うい場所は灯篭と同じ色でライトアップされているが、それでも暗さは残っており水面には月と星の光が瞬いた。
「だね。これは今の季節のいいとこだろうなあ」
冬はもちろん、秋が深くなった頃や春先では少し寒いだろう。
「ええ。夜涼みには本当にいい季節だと思います」
足元の事を考えて万一のために美園の手を少し引くと、彼女は嬉しそうに僕を見上げ、「じゃあ」と頬を緩めた。「うん」と応じて腕を少し持ち上げると、美園は嬉しそうにふふっと笑い、隙間に自身の腕を差し込んで優しく絡める。
少し周囲を気にしてみると、昼間に来た時とは違い夜涼みや湯上りの客がそれなりにいるが、そのほとんどが僕や美園の親世代かそれよりも上に見える。彼らは若い恋人同士を気にした様子は無い。
うち一組の老夫婦と歩きざまにすれ違ったが、奥さんの方が僕たちに温かに見える視線を送ったかと思えば、夫の腕をそっととった。
旦那さんの方は驚き慌てた様子こそ見せたが、奥さんに何やら言われたらしく僕たちの方を見て会釈をし、仕方ないなと言わんばかりの笑顔を浮かべて歩みを緩めている。
美園はそんな二人に綺麗な会釈を見せ、優しく目を細めながら見送っていた。
「お年を召してからもあんな風にずっと想い合っていられる事、本当に素敵だと思います」
「僕たちもああいう風になるよ」
「はい。あと何十年も先になると思いますけど、叶えてもらうつもりでいますので。よろしくお願いしますね」
「任せといてくれ」
大きく頷き、少し腕を引いて美園の体を引き寄せると、彼女は一瞬目を丸くしたもののすぐに優しく微笑み、僕の肩にそっと頭を預けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます