夕食前のひと時

 花波さんと一緒に玄関を開けると、車が帰って来た事がわかったからかご家族総出のお出迎えが待っていた。嬉しい反面、正直ちょっと気圧されてしまう。

 おっとりしたままのお母さんは何を考えているかわからないが、そわそわした雰囲気の乃々香さんと何か言いたげなお父さんは恐らく試験結果を気にしてくれているのだろう。


「ただいま戻りました。おかげ様で来月にはいいご報告ができると思います。ありがとうございました」

「そうか。よかったよ」


 お父さんと乃々香さんが目に見えてホッとしていたし、お母さんも先ほどよりも口角が上がっているような気がする。

 花波さんが言ったように夕食の時に気まずい思いをしなくて済んだという安心感もあるのかもしれないが、三人の表情には三者三様の喜びが見て取れた。


「改めて、牧村君。よく来てくれた、歓迎するよ。昨日は迎えられなくてすまなかったね」

「とんでもないです。僕の方こそご不在の時にお邪魔してしまい申し訳ありません。とても良くしていただきましたので、試験の結果にも繋がりました。本日もお世話になります」


 頭を下げると、お父さんは「そうか」と、お母さんは「お上手ね」と僅かに頬を弛ませていた。とりあえず一つ、泊めてもらった恩返しになっただろうか。


「おかえりなさい。智貴さん。お疲れ様でした」

「ただいま、美園」


 ご両親との会話が一旦止まると、二人から一歩引いた位置でずっとにこやかな笑みを浮かべていた美園が前に出た。


「お夕食まで少し時間がありますから、お部屋で休んでください」

「そうだな。すまなかったね、玄関で長々と」

「ほんとだよ。みんな私の事無視してさあ。眠かったのに」


 僕の後ろの花波さんがわざとらしく文句を言ったところで場の空気が少し弛緩したような気がした。この場はこれでお開き、また夕食時にと締めたのだと思う。


「迎え、ありがとうございました」

「はいはいどういたしまして~」


 ひらひらと手を振った花波さんは靴からスリッパに履き替えると早々に二階に向かった。乃々香さんもちらりと僕を窺ってからぺこりと頭を下げ、花波さんに続いた。


「それでは牧村君、また夕食の時に」

「はい」


 リビングに戻って行くご両親を見送ると、残されたのは僕と美園の二人だけ。


「お鞄をお預かりしますね」

「ありがとう」


 受け取ってくれる側であるにもかかわらず、僕のバッグを手にした美園は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

 いつもそうだ。春休み以降で美園が僕を迎えてくれる際、バッグを持って出かけた時はこうやって受け取ってくれる。スーツから着替える訳でもコートを脱ぐ訳でもないのだから、持ってもらう必要などないのに、必ず。

「悪いからいいよ」と言った事もあるのだが、「私がしたいんです」と譲らなかった。行為自体よりもそれをする事に意味があるのだと、美園が口を尖らせていたのを思い出す。


 最初にしてもらった時に夫婦のやり取りのようだという感想を抱いた。一度「夫婦みたいだよね、これ」と言ってみた事があったのだが、美園も同じように思ってくれていたらしく、頬をほんのりと染めながら恥ずかしそうに小さく頷いてくれた。

 恋人として一緒にいる中で、ほんの一瞬その先に関係を進めたような、幸せな未来に思いを馳せる時間。

「ありがとう」の言葉に込めたそんな幸せを、美園のやわらかな笑顔が受け止めてくれた。



「試験、おめでとうございます」

「ありがとう。と言っても正式に結果出るのは来月だけど」


 階下からアイスティーを運んできてくれた美園がテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろし、優しい笑みで僕を祝福してくれる。


「でも、自信があるんですよね?」

「まあね」

「それじゃあ、何かご褒美を用意しないといけませんね」


 ニコリと笑った美園が僅かに首を傾け、ダークブラウンの髪がサラリと揺れた。

 そう言えば半日以上触れていないのだなと思うと、試験で張っていた気持ちが一瞬で緩々になっていくのを実感する。


「じゃあちょっとこっち来て」

「はい」


 アイスティーを二口いただきテーブルから少し距離を取ると、美園はいたずらっぽく笑いながら僕の脚の間にゆっくりと腰を下ろし、背中をこちらに預けてくれる。

 僕の左腕を美園がきゅっと抱きしめ、右手は彼女の頭の上。そっと頭を撫でて髪を梳く、いつもの二人の姿勢。


 ほのかに甘い香りはいつもの美園。サラサラとした髪の手触りも、預けられた小さく華奢な、それでいて不思議とやわらかい背中。抱きしめられた左腕から伝わるもっとやわらかな感触。

 いつの間にか絡められた美園の右手の細く白くしなやかな指が、少しずつ僕の左手を刺激する。


「これが最高のご褒美だよ」


 本当にそう思う。

 家に帰れば美園が待っていてくれる。「おかえりなさい」の優しい笑顔を見るためにいくらでも頑張れる。

 こうしていつのも体勢をとる事で、特に精神面の疲れは一瞬で吹き飛んでいく。美園が僕に身を委ねてくれる、髪と体に触れさせてくれる、そして触れてくれる、満たされる感覚。


「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、これはご褒美には含めませんからね」


 美園が少し不満げな声を上げ、くるりとスムーズに反転した。

 ずいっと近付く美園のこれ以上なく整った可愛らしい顔。僅かに尖った唇にそっと自分の唇を重ねると、「ん」と囁くような甘い声とかすかな吐息が鼻にかかる。


「じゃあこれがご褒美で」

「もうっ。いつもしている事はダメです」


 朱が差した頬と僅かに熱を帯びた瞳を湛えた美園は、僕の肩をぺちんと叩きながら少しずつこちらに体重をかけてきた。

 頬が弛むのが自覚できた。


「どうかしましたか?」

「美園軽いなあって」


 怪訝そうな表情で首を傾げる美園。わからないのも当然だろう。

 今はベッドを背にしていないので、僕の体だけで彼女の軽い重さを支えている。そんな事が何故か嬉しかった、ただそれだけなのだから。


「ほんとに小さな事でも、美園といると何でも幸せなんだよ」

「それは私もそうです。智貴さんと一緒にいると、ただ同じお部屋にいるだけでもとっても幸せです」

「うん」


 まだ色付いたままの頬をそっと撫でると、やわらかに微笑んだ美園がそっと自分の手を重ねた。ふふっと笑った彼女に促されるように互いに指を絡めると、美園がまぶたを下ろす。


「試験が全部終わったらご褒美を貰うよ。だから今は、ここまでで我慢しとく。満足しちゃっても困るからね」

「絶対ですよ?」


 一度閉じた瞳をぱちりと開き、美園はわざとらしく頬を膨らませながらも優しい目で僕を見つめていた。


「むしろ美園の方が覚悟しといてくれ」

「わかりました。何でも言ってくださいね」


 片手の指は絡めたまま、もう一度目を閉じた美園の唇を何度も何度も啄むと、その度に僕の背中に這わせた彼女の指に少しだけ力が入る。

 何度も何度も甘い吐息が漏れ、これ以上のご褒美などあるのだろうかと幸福の中で少しだけ困った気持にもなった。


 そんな風に少し先の事を楽しみにしながら困りつつ、やわらかで甘い美園の唇に何度触れた事だろうか。絡めた指と背中に這わされた指から、次第に美園の力が抜けていった。

「そろそろご飯だよ」と扉がノックされた時、顔を真っ赤に染めた美園が恨めしげな瞳で、熱と潤みを存分に帯びた瞳で、僕を見つめていた。

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