少し遠い帰り道
「いってらっしゃい」
玄関の前まで見送りに来てくれた美園はそう言って少しだけ辺りを見回し、僕の胸元に置いた手に僅かだけ体重をかけ、背伸びをしながら唇を寄せた。彼女の言うところのいってらっしゃいのちゅーの本来の形なのだが、むしろいつもは一緒に家を出る事の方がずっと多いので見送ってもらいながらの方が珍しい。
場所が場所だけに、以前は彼女の家の前で口付けを交わすなどできはしないと思っていたのだが。優しい微笑みと眼差し、そこに見える僕への信頼が嬉しく、気付けば現在地の情報などすっかり忘れて、かかとを上げた美園の腰を支えていた。
「お気を付けて」
「うん、ありがとう」
お母さんや乃々香さんからは何度も言われた「頑張って」の言葉を、美園は結局一度も言わなかった。応援してもらえればもちろん嬉しいが、信じているからその言葉を口にする必要が無いと言外に伝えてくれる、そんな美園の思いはまた別格の喜びだ。
ほんの数秒で唇を離した彼女の、ほんの少し朱が差した頬ではにかむ美園が、僕に向けてくれる信頼に必ず応えてみせる。そう思うだけでどんな言葉よりも心が奮い立つ。
「いってきます」
「はい。いってらっしゃい」
◇
「次の信号右ね」
「はい」
試験が終わると花波さんからメッセージがきていた。『迎えに来たよ』で始まった文章に従い試験会場となった大学の正門前まで歩くと、朝帰りのため昨日は会えなかった彼女の姉が手を振っていた。
車で迎えに来てくれた花波さんだったが、「眠いから運転よろしく」とだけ言って助手席で寝たフリを始めてしまい、仕方なく僕が運転している。因みに保険は運転者問わずの対物対人無制限なので安心してと、
「大学どうだった? あそこ私が通ってるとこなんだけど」
車が駐車場を出てすぐ寝たフリをやめた花波さんは、ナビをしながら――カーナビがあるにもかかわらず――世間話を振ってくる。
「花波さんあの大学だったんですね。新しいキャンパスだって聞いてましたけど、綺麗で設備整ってるし、いい感じでしたね。研究施設なんかも見せてもらいたかったくらいです」
今日試験を受けた会場は共通講義棟Bという名称だったので専門棟の方はわからないが、中は全体的に広く綺麗。特にトイレなどは新しい商業施設のようなデザインに加えて個室ごとに換気扇まで付いていた。
教室の中は新しさ以外にそれほど差はなかったが、カーペット仕立ての廊下は広く、ところどころにイスとテーブルがあり、ベンチシートも多く設置されていて授業の空き時間などもまるで困る事がなさそうだった。
生協や学食などは使った棟に無かったのでわからないが、飲み物の自販機は見た限り各階に設置されていて、各棟に一つ自販機コーナーがあればいい方な自分の通う大学との差を実感してしまう。
このまま思い出してしまうと夏休み明けの学生生活に支障が出そうなので話題を変える。
「因みに学部はどこなんですか?」
「経営学部経営学科」
「入学前から目標が明確だった訳ですね」
「まあね」
お父さんの跡を継ぐのだと言う花波さんの声色から、少しだけ誇らしげな調子が聞き取れる。
「それで、試験はどうだった?」
「自己採点はまだですけど、まず受かってると思います」
「自信満々だね、心強い」
恐らく出版社のホームページ辺りで明日か明後日くらいには模範解答が公開されるはずだ。ただ、自信はある。
「流石にそうじゃなければ泊めてもらわないですよ」
恋人の家に泊めてもらってまで受けた試験の出来が悪かったりしたら、居たたまれないどころでは済まない。
「それもそうか。あ、次左ね」
「……了解です」
「晩ご飯がお通夜みたいにならなくてよかったよ」
おどけた調子の花波さんに「全くですよ」と返すと、彼女はあははと笑う。
「ところで牧村君て車持ってないよね?」
「無いですね。どうしました?」
「その割には運転上手いなあって。慣れない道なのに車線変更とかもスムーズだし、加速も減速も凄い乗り心地いいよ」
「ありがとうございます。……合格ですか?」
「気付いてたんだ」
「今の会話が決め手でようやくですけどね」
わざわざ迎えに来てくれたのに眠いと言って運転をさせられたり、かと思えば寝る訳でもなく、しかもナビはカーナビ上のマップと比べて微妙に遠回りするルートを選んでいた。
「何か大切な話があるのかなと思ったんですけどね。もうご実家も近い所まで来ましたんで違うかなと。それじゃからかわれただけかなとも考えたんですけど、花波さんが意味ない事をするとは思えないですからね」
「あれ、意外に私高評価だ」
基本的に飄々としたこの人は人を食ったような態度を取る事が多い、少なくとも僕や自分の妹たちに対しては。それでもその言動には意味がある事が多かったし、優しい姉の顔もたくさん見せてもらった。
そんな花波さんが試験終わりに――彼女から見れば疲れているであろう――僕をわざわざからかうために迎えに来るはずはない。
「因みに私も牧村君の事、実は高評価してるからね」
「光栄です。ありがとうございます」
運転中なので頭は下げられないし顔も向けられないが、真面目な調子の花波さんに本心で礼を告げた。
「私の経験則だけどね、車の運転は結構性格出るんだよ」
横目だが、花波さんが指を一本立てたのがわかった。
「もっとヘタレな運転するかと思ってたけど意外にバランス良い運転していてちょっとびっくり」
「一応褒め言葉として受け取っておきます」
言われる理由が大いにわかるので苦笑しながら応じると、「純然たる褒め言葉だよ」と花波さんはけらけらと笑う。
そしてひとしきり笑った後、小さく「ごめんね」と口にした。
「試すような真似して」
「別に気にしませんよ」
花波さんが僕に対してする事は、そのほとんどが妹の美園を大切に思っての事だ。それならば僕が気にするような事は一切無いし、むしろ――
「ご家族全員に認めてもらいたいですからね。試してほしいくらいです」
「牧村君、意外にM?」
「台無しですよ……」
「ごめんね」
二度目は笑いながら。とても居心地のいい「ごめんね」だった。
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