第112話 過ぎ行く2日目
「それじゃあ美園、私達そろそろ帰るから」
夕方というには少し早い時間ではあるが、この時期はあと1時間と少しで日も落ちる。
美園が招待企画関連の業務から戻って来てから、しばらく楽しそうに話をしていた三姉妹に、別れの時間がやって来た。
「うん。気を付けて帰ってね。乃々香も」
美園は表面上穏やかに笑っているが、僕が美園の家にお邪魔して、「そろそろ帰るよ」と伝えた時の表情に少し似ている。先程の乃々香さんの言葉の意味を、実感として理解できた。同時に、場違いではあるが嬉しさもこみ上げる。
「今日は急にごめんね、ありがとうお姉ちゃん」
「どういたしまして。私の方こそ、来てくれてありがとうね」
別れを惜しむ心を押し殺す妹に見せるのは、優しい姉としての顔。僕個人に対しては決して向けられる事の無い表情。
「乃々香の気持ちがちょっとわかった?」
「ちょっとだけ。嫉妬はしませんけどね」
いくら恋人と言えど、僕が彼女の全ての表情を引き出せる訳ではない。確かにそれは残念な事かもしれないが、逆に考えれば僕にだけ見せる特別な表情もあるという事だ。
そして僕には引き出せない表情は、今乃々香さんがしているように他の人に引き出してもらえばいい。本人が望むように、美園の世界が広がればきっと、彼女の見せる表情も増える。それは素敵な事だと思える。
「どんな表情を誰に見せようと、一番近くであの子の顔を見るのは僕なんで」
「はいはい」
僕におざなりな返事をして、冬休みの話をしている妹達に視線をやる花波さんは、やはりと言うべきか姉の顔をしていた。
「花波さん。この間の話、覚えてますか?」
「んー?もしかして私の部下にって話?」
「そうです」
「覚えてるけど、牧村君が就活する頃には使えない手だよ?言ったと思うけど」
「いえ、いいんです。実際にお世話になるとか、そういう事じゃなくて、決意表明です」
「決意表明?」
「はい。将来、ウチに来てほしいと言わせられるような人間になります。美園本人だけじゃなく、周囲の人にも、『こいつの傍にいれば美園は大丈夫だ』って思わせてみせます」
目をぱちくりさせる花波さんの表情は、ここに来て初めて見るくらいに美園と似ていた。表情や仕草の違いで似ていないと思う事はあるが、やはり姉妹なのだとわかる。
「そっか。じゃあ、私も恥ずかしい事言っちゃおうかな。有言実行の方がカッコいいもんね」
「私は最短でお父さんからポジション奪うから。会社だって今より大きくしてみせる。その為に今日から、やれる準備は全部する」
きっぱりと言い切った花波さんだが、僕は余計な事を言ったような気がする。美園のお父さん、ごめんなさい。
「それじゃ、お互い将来を楽しみにしておこうか」
「はい。約束しますよ」
◇
「2日目もあと少しで終わりですね」
姉と妹を見送った――バス停まで見送るように言ったが、二人の方がそれを断った――美園は、感慨深げにステージを見た後、僕の方を向いて少しだけ寂しそうに笑った。
17時まで照明が付く模擬店と第1ステージ、それから教室内なので電灯のある棟内展示以外は、日没前に出展が終了する事になっている。第2ステージも今のバンドが本日最後だ。
「文化祭自体はね。僕達はそこから片付けと明日の準備がある」
「はい。智貴さんから聞いていた通り今日は人も多かったですし、大変になりそうですね」
「うん。体は大丈夫?」
「私の方は大丈夫ですけど、智貴さんはどうですか?睡眠時間も減っちゃいましたし、あんまり休憩も取れていないですよね」
「大丈夫。あと1日くらいは持つよ」
実際にそう思う。体力的には結構辛い所まで来ているが、その分気力の方が漲っている。去年の文化祭から1年、次の中心は自分達だと、仲間達と一緒に頑張って来たその本番、気力が尽きるはずがない。
そして何より、本心から僕を心配してくれている事がわかる美園、文化祭でこの子に見せたいのはカッコいい姿だと、柔らかな髪にそっと手を置きながらそう思う。
「だから月曜はいっぱい甘えさせてくれ。多分潰れてるから」
「はいっ。ずっと添い寝してあげます」
本音ではあるが軽口を叩く僕に安心した面もあるのか、「楽しみです」と満面の笑みを浮かべた美園の髪を撫でると、えへへと恥ずかしそうな顔を見せてくれる。
甘えさせてくれとは言ったが、間違いなく美園も月曜はダウンしているだろうと思う。3日目終了後の片付けはそれこそ月曜の日の出過ぎまでやっているのだから。明るくなってから眠って、きっと二人とも暗くなるまで寝たままだろうが、それもいい思い出になるのだと思う。
「あ。膝枕の方がいいですか?」
「捨て難いけど、添い寝でお願いするよ」
大変魅力的な申し出であるが、膝枕では美園が休まらない事を抜きにしても、全身で彼女を感じられる添い寝の方がやはり威力が高いと思う。
「智貴さんは添い寝の方が好きなんですね」
「そうだね。何て言うか幸せを感じる」
ふふっと笑う美園に頷いて返すと、「私もです」と彼女は照れたように笑った。
「でも私は、智貴さんに膝枕をしている時も幸せですよ?」
「そっか……でもよくよく考えたら、美園といる時はいつでも幸せだったよ」
「確かにそうですね」
顔を見合わせて苦笑すると、机の下で美園が指を絡めて来た。
「だから、今日も明日も、明後日もその先も。一緒に幸せでいましょうね」
「ああ」
◇
「この3人で帰るのも久しぶりだね」
「大体マキのせいだけどな」
「友達と可愛い彼女のどっちを取るかって話だよ」
「彼女だね」
「だろ?」
第1ステージの方で少し手直しが必要になり、30分程2年の男子が居残りになった為、美園には先に帰ってもらった。一人で帰したくはなかったので、同じアパートに向かう志保がいるのは助かった。風呂の時間で僕を待たせる事を気にしていた為か、美園は大人しく頷いてくれた。
「まあそういう戯言はいいとして、大したトラブルもなく終わりそうだな」
しみじみと言うサネに、僕とドクが思い思いに頷いて返答する。
大したトラブルが無いというのは、僕達出展企画部からすると一番大切な事だ。文化祭を盛り上げる、お客さんを楽しませることに重きを置く広報や委員会企画、招待企画とは――財務は流石に特殊――違い、僕達は出展者を支えて応援する側なので、何より彼らが満足のいく環境を整えられるかを重視している。
「最初は裏方選んじまったなあって思ったんだけど、今はここ選んでよかったわ」
「サネ。なんか死ぬ前みたいだぞ」
「確かにね」
「お前今それ言う?俺もちょっと思ったけどさあ」
呆れながら笑うサネとドクに、僕も同じように返す。
「しんみりするような事は打ち上げとか追いコンにとっとけって。姐さんが言ってたからな」
正直なところ、今思い出話を始めてしまったら、家に帰った後美園に心配されるような状態になりかねなかった。
「まあ、そうだな。俺らの空気じゃなかったわ」
「ラスト1日、がんばろう」
「おう」「ああ」
そうやって明るく別れはしたが、家に帰ると風呂上がりの美園に「何かありましたか」と心配されてしまった。
本当に、思い出話をしてしまわなくて良かったと思う。
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