第107話 4ヶ月を誤差の範囲にする為に
「それじゃあ行こうか」
「はい」
いつものようにいってらっしゃいのちゅーを済ませ、いつものように美園が僕の部屋の玄関の鍵を締める。いつもと違うのはまだ濃い藍色をした空の様子。
「暗いから気を付けて」
「ありがとうございます」
美園の手を取ってアパートの階段を降りると、少し風が吹いた。冬が近いこの時期、日の出前の風はとても冷たく、コート以外の防寒具を持っていなかった美園には僕のダウンジャケットを貸している。
実はこれを着せるのには苦労した。
「私がちゃんと準備をしていなかったのが悪いので、智貴さんが着てください」
「それを言うなら僕がちゃんと教えてなかったのが悪い。日の出前がどれだけ冷えるか、その時間に上着を着て作業していい事を言ってなかったんだから」
「少し考えればわかる事でしたから」
「僕は美園が大事なんだよ」
抱き寄せてそう言ったが、中々に美園は意固地だった。
「そ、そうやって誤魔化そうとしてもダメです。私だって智貴さんが大事なんですから」
「いいか美園。基本的に寒いところの動物ほど体が大きいんだ」
「はい?」
感情に訴えてダメだったので理屈で訴える事にした。
「恒温動物の体はそれ自体が発熱してる訳だけど、発熱量は単純に考えれば体積に比例するんだ。一方で外部に奪われる熱は表面積に比例する。ここまではいいかな?」
「はい。でもダメですからね」
先読みされて失敗した。実際ちゃんと食事がとれていれば、体の大きい僕の方が寒さには強いのだが。
「そんなに僕の服が着たくないんだ」
もう一度感情に訴えると、これは美園に効いたらしい。
「そ、そんな事はありません。恋人の上着をかけてもらう事は憧れのシチュエーションです」
「じゃあ着て」
「でもそれはあくまで憧れであって、実際は智貴さんが寒い思いをするじゃないですか」
「僕も彼女に自分の服着てもらいたかったんだよ。丁度いいだろ?」
と、こんなやり取りの末にようやく美園にダウンジャケットを着せた訳だが、当然ぶかぶかだ。作業するには邪魔になる時もあるかもしれないが、体を冷やすよりはよっぽどいい。
「彼女に自分の服着てもらうっていいな」
「はい。何だか実際よりも暖かいような気がします」
丈も袖も余った上に膨れて見えるが、そんな姿の美園も可愛い。しかも僕の服を着ているのだ。これが室内でワイシャツか何かならそれはもう見事な事だろう。
そんな思いを込めて発した言葉に少し気恥ずかしそうに笑う美園だったが、すぐに心配そうな上目遣いで僕を見つめる。
「智貴さんは、大丈夫ですか?」
「ちょっと厚着してるし問題無いよ。気分的も満たされた感じがして凄く暖かい。美園の手も温かいし」
「もう」
呆れたように笑いつつも、美園は繋いだ手に力を込めてくれた。
「温かいですか?」
「うん」
日の出1時間前だというのに、僕にとっては既に太陽が出ているに等しい状況だった。
◇
財務と招待企画は少し特殊なのだが、文化祭初日の朝の仕事開始は広報、出展企画、委員会企画の順に早い。特に広報は、前日まで学生が普通に使用していた為、大学構内の装飾のほとんどを当日の朝に行わねばならない為、4時から動いている。それさえ終わってしまえば、当日は割と自由時間が多い部署ではあるが、準備期間の疲労の中での超早朝労働には頭が下がる。
「いくら事前に準備をしておくと言っても大変ですね」
正門から委員会室に来るまでの間も、装飾に勤しむ広報の部員達と多くすれ違った。邪魔をしないように軽い挨拶だけを済ませる僕達だったが、美園がしみじみとそんな事を言った。
「でも、やっぱりどこか楽しそうです」
「うん、そうだな」
当然彼らは完全に睡眠不足と疲労の中で働いているので、活き活きだの溌剌だのといった様子とは程遠いが、美園が言うようにやはりどこか楽しそうだった。
「みんながこの時期辛いだの帰りたいだの寝たいだの言うけどさ、やっぱり続けられるのはそういうところがあるからなんだろうな」
「はい、そうですね。だから私もその一員になりたいと思ったんです」
近くの校舎を見上げてそう言った美園は、はにかみながら僕の方を向いて、「智貴さんがいた事ももちろん理由ですよ」と付け足した。
「どっちの理由も嬉しいよ」
僕を追いかけて来てくれた事、僕が好きになった場所を同じく好きになってくれた事、どちらも胸が温かくなる。
「ああ」
そうだ。やっとわかった。
「美園と初めて一緒に帰った日の事、新歓の日の事、覚えてる?」
「忘れる訳がありませんよ」
当然だと言わんばかりにニコリと笑う美園の顔を見つめた。
あの時の美園も同じ事を言っていた。
「きっとあの時から好きだった。今気付いたよ」
大きな可愛い目をぱちくりとさせる美園は、突然の事に話が繋がっていないのだろう。
「可愛い子だな、いい子だなと思ってはいたし、それも理由なんだと思う。でも一番のきっかけは、僕が好きな場所を美園も好きになってくれたからだったんだと思う」
「あの時も、確かに今と同じ会話をしましたね。智貴さんに会いたかった事は言えませんでしたけど」
懐かしむような声で、美園は少し苦笑した。
「最初から両想いだったんですね。嬉しいです。とっても、とっても」
顔を赤くした美園が上目遣いで僕を見つめ、「でも」と呟いた。
「それならもっと頑張ればよかったです。そうすればもっと早く……」
ぶかぶかのダウンジャケットの首元に吸い込まれた美園の唇から、最後の部分は聞こえなかった。それでも言いたい事はわかる。
「そうだな。でも――」
そう言って美園の髪をそっと撫で、僕は笑った。
そのくらいの期間は誤差のようなものにしてしまえばいいのだと。
それだけの時間をこれから美園と過ごしていきたいと。
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