第108話 先輩の顔、恋人の顔

 僕達出展企画の6時からの作業では、観客席となる椅子や机、テントなどを運び設置する事が一番メインの仕事になる。

 昨日雄一に説明したように、ここで使う椅子やパイプは大学の備品なので、管理には相当気を遣わなければならないので、当日の朝作業をせざるを得ない。因みに流石に1日目と2日目、3日目のそれぞれの間は夜の間出しっぱなしにしても許される。


「雨降らなくて良かったよね」

「ほんとにそうだよな」


 第2ステージ前にパイプ椅子で客席を作り、その更に後方に僕達が陣取るテントの設置も終わった後、そのテントの前方に騒音計を設置した香がしみじみと発した言葉に、僕も心から同意した。

 雨が降っても文化祭が延期になる訳ではないので、雨の中で準備をしなければならないが、11月半ばの夜間に雨の中で作業というのは――去年は1日雨が降ったので実感としてあるが――二度とごめんだと言いたい。

 そして予報では今日を含めた3日間も晴れだと言うし、今年は天候に恵まれた。美園がいるおかげだと、3割くらいは本気で思う。


「お疲れっす」

「お疲れ様です」


 テント周辺の微調整の為に残った僕達2年生とは違い、別の場所での作業を行っていた1年生組が、そちらの作業を終えてテントまでやって来た。僕と香で「お疲れ様」と出迎え、簡単な説明をしてテントで席に着く。

 これから先のスケジュール上、四人が同時に席に着く事は無いが、椅子は予備含めて5脚あり、長机は2本セットされている。ステージに向かって左から美園、香、僕、雄一、予備椅子の順で座り、最終確認を済ませる。


「オープニングセレモニーまであと30分か。二人とも見てきていいよ。スタジャンは脱いでね」

「オープニング中はこっちのステージ何も無いからね。せっかくだから行ってきなよ」


 世間的には平日の今日、模擬店などもオープニング後に開店となるので、まだ来客は少ない。手の空いた委員――特に1年生――はオープニング観覧兼賑やかしとして参加するのが慣例だ。

 そう言って2年生二人で促すと、以前話していた事もあってか、美園と雄一は特に渋る事も無く第1ステージへと向かって行った。


「ほんとは一緒にいたいクセに」

「まあそりゃな」


 苦笑しながらそう応じるが、3日目の自由時間の件で頼みを聞いてもらっているし、これ以上は望むべきではない。

 香だって口には出さないが本当はジンと文化祭を回りたいのだ。委員長という立場上ジンの自由時間は少なく、香との時間は取れても1日30分程度だと言う。


「でもいいんだよ。あの子は友達も多いし、色んな方向から楽しんでほしいと思ってるよ。来年になったらもっと忙しくなるんだし、せめて今年くらいは」

「そうやってストレートに恥ずかしい事言えるのちょっと羨ましいわ」


 自嘲気味に笑う香に「恥ずかしいって何だよ」と言い返すも、それについての返答は無かった。


「私とジン君は去年一緒に回ってるからね。あんまり気にしなくていいよ」

「別に気にせずイチャつくよ」

「あんまり、って言ったんだけど?」


 内心を見透かされたようだが誤魔化しておどけて見せると、軽く睨まれた。



 その日の午後、僕が一人でテントに詰めている時間だった。「来ちゃいました」と可愛らしく隣に着席したのは、誰よりも可愛い僕の彼女。


「思っていたより落ち着けるんですね」

「うん。トラブルが無ければ拘束されるのが仕事だよ。音もそれ程だしね」


 騒音計の確認、数値の記録の他には、客席を見回してトラブルの種――まず無いが――を摘むくらいだ。

 ステージの音は大きいが、会話が出来ない程ではないし、眠気を覚ましてくれるので丁度いい。


「美園が入る時間までまだあるけど、友達の方はいいのか?」


 黒の腕時計で確認するが、予定の時刻まではまだ30分程はある。


「はい。今からスタンプラリーを回るそうなので、流石に一緒には行けませんでした」

「そうか」

「それに。ちゃんと他も見て回りますけど、やっぱり私が一番いたい場所はここですから」


 客席越しにステージを見ながら、当たり前の事だと言わんばかりの口調の美園に、「そうか」とだけ返すと、彼女は「はい」とこちらを向いて微笑んだ。


「ごめん。嬉しい」

「どうして『ごめん』なんですか?」


 可愛らしく首を傾げた美園が、「智貴さんが嬉しいのなら私も嬉しいですよ?」と付け加えた。


「昨日の帰りもそうだけど、先輩ぶって美園の為だと何か言ってみても、やっぱりこうやって一緒にいられる事が嬉しい。昨日も、きっと今日も、美園が来てくれる事をどこかで期待してた」


 少し目を見開いた美園は、くすりと笑う。


「いいんじゃないでしょうか。好きな人にしてほしい事があるのは当然ですよ」

「そう言い換えるとそうなんだけど……」


 何となく釈然としない僕に、美園は更にふふっと笑う。


「前にお話しした事を覚えていますか?相手の為だと言って自分のしたい事を我慢してほしくない、って」

「うん。覚えてるよ。だけど――」

「このケースはちょっと難しいですよね」


 僕の言葉を引き継いで美園が苦笑する。

 今回僕が願った事を叶えるとなると、美園から休養や友人と楽しむ機会を奪う事になるのだから。


「でも、今回の事を智貴さんが気にする必要はないんですよ」


 僅かに身を乗り出し、僕に顔を近付けながらいたずらっぽい笑みを浮かべる美園は、「どうしてだと思いますか?」と楽しげに尋ねてきた。


「私がそうしたかったからですよ。智貴さんの為じゃなく、私が自分でそうしたかったから来たんです」

「ありがとう。嬉しいよ、本当に」


 優しい微笑みを湛えた美園に、心からそう伝える。

 美園が僕の為に何かをしてくれるのは嬉しいが、美園自身がしたい事が僕がしてほしい事と同じだったというのは、それ以上に嬉しくて堪らない。


「全部が全部とはいかないんでしょうけど、同じ事を考えているって素敵な事ですね」

「うん。その言葉を含めて同じ事考えてた」


 美園の顔を見つめ照れ隠しで笑うと、彼女の方も少し照れたように笑った。

 そんな美園に手を伸ばして頬に触れ、そっと目を瞑った彼女に顔を近付けかけて我に返る。


「危ない」

「……ですね」


 お互い顔を見合わせて苦笑する。幸い観客は全員ステージの方を向いているし、広場横の客足も多くなく、誰にも見られていないと思われる。


「美園が可愛すぎるのが悪い」


 決して僕の自制心がユルユルな訳ではない。


「好きな人がとっても素敵な人ですので。見合うようになりたいなと思って頑張っていますから」


 誇らしげな言葉に顔が熱くなるのを自覚する。


「外見だけの話じゃないよ」

「少し顔が赤いですよ?」


 照れ隠しの本心だったが、それを無視した白くしなやかな指が僕の頬に触れる。冷たくて気持ちがいい。


「手、少し冷たいな」


 そう言って、きらりと光る指輪のある美園の右手を捕まえた。


「机の下で握ってる分には見えないから」

「温かいですね」

「ああ」


 冷たかったはずの美園の手は、何故か温かかった。

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